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雪の誘い(補遺)

雪の誘(いざな)い
                         鳴沢 湧
 栃木県北部では大雪との予報が去年の内からずっと出ていました。
雪と言えば能『鉢の木』です。宝生流 近藤乾三師のシテで、舞台ではなく、テレビで見たのかもしれません。記憶もあやふやになってしまいました。
《あーぁ降ったる雪かな、いかに世にある人の面白う候らん、それ雪は鵞毛(がもう)に似て飛んで散乱し》と謡う『鉢の木』を思い出しました。これは次に掲げる白楽天の詩からの引用です。
 
  酬令公雪中見贈  白楽天
雪は鵞毛(がもう)に似て飛んで散乱し
人は鶴氅(かくしょう)を着て立って徘徊す
沙門宿を借る隠士の屋(いえ)
一夜炉を囲んで清談回(めぐ)る
貧居(ひんきょ)薪(たきぎ)無く鉢の木を焚く
真情粟を炊(た)いて共に陪(ばい)を為す
櫃(ひつ)には甲冑(かっちゅう)を蔵(ぞう)して古色を存(そん)し
楯(なげし)には刀槍(とうそう)を掛けて埃(ちり)を留めず
幾たびか姓氏(せいし)を問うて始めて答あり
知るを得たり往年文武の材
他日関東軍令(ぐんれい)を伝(つと)う
果たせる哉(かな)痩馬(せきば)馳(は)せて魁(さきがけ)を為す

 この白楽天の詩について検索してみるまで最初の一行しか知りませんでした。能『鉢の木』にはこの一行だけが引用されているのかと思っていましたが、この能自体が白楽天の詩を翻訳したものだったのは、私にとってとても意外なことでした。粗筋どころか本筋がこの詩でした。
 所の設定は前が上野国佐野 後が相模国鎌倉になっています。後の鎌倉は疑問の余地はありませんが、前の上野国佐野は二説あります。高崎郊外の佐野窪町に常世神社というのがあります。佐野市にも鉢の木町という地名があって常世の墓というのがあります。
 謡の「道行」では、《信濃なる浅間の嶽に立つ煙、信濃なる浅間の嶽に立つ煙、遠近人(おちことびと)の袖寒く……》とあり、道順からして高崎佐野窪説に納得せざるを得ません。
《上野の国佐野の渡りにつきにけり》
佐野の渡りというのは、河の渡し舟のある場所の意味で、高崎佐野の烏川はかなりの流量の大河ですが、栃木県佐野の秋山川は船を浮かべるほどの水は流れていません。両方に墓や神社がありますが、佐野源左衛門常世は実在しなかったという説もあります。信濃から碓井川沿いに歩いて板鼻を通り佐野の渡りに着いたのだから高崎佐野窪に違いないだろうと思います。
 ここで佐野源左衛門常世の家に一夜の宿を頼んだのですが「主の留守にて候ほどにお宿はかない候まじ」と断られて主の帰りを待っていると、シテの佐野源左衛門常世が舞台に出て「あぁあー降ったる雪かな。いかに世にある人の面白う候らん。それ雪は鵞毛に似て飛んで散乱し、人は鶴氅を着て立って徘徊す」と言えり、と白楽天の詩を引用するのです。その後もすべて詩の通り多少の尾鰭をつけて最後の「果たせる哉瘦馬馳せて魁を為す」まで全てが詩の通りです。

 数百メートルの所にあるホームセンターへ買物に行きました。出掛けに風花の舞うのが見えました。往きはチラチラ舞うくらいだった雪が、帰りにはかなりの降り方です。つい風流な気分になってきました。

「鶴翔はなけれど雪に徘徊す」
かくしょうは なけれどゆきに はいかいす
「帰り道塞いで雪が舞い狂う」
かえりみち ふさいでゆきが まいくるう
「舞い狂う雪が誘う郷の谷」
まいくるう ゆきがいざなう さとのたに
「幾星霜雪が誘う里心」
いくせいそう ゆきがいざなう さとごころ
「亡き父母も亡き妹も墓の雪」
なきふぼも なきいもうとも はかのゆき

写真前列中央が私、右の方はつい先日物故されました。(合掌)
古い、20年以上も昔の写真です。

つけたしですが、『江戸と能楽』狩野 滋 著、という本に能に傾聴すべき話の中で面白い能に関する川柳がありますので掲載します。
特にこの『鉢の木』は人気の曲だったらしく九首も載っています。
 最明寺なんのかんのとにじりこみ
 源左衛門出世濡れ手で粟の飯
 最明寺その夜とうとう風邪をひき
 さて今朝は何を食はうと源左衛門
 人ならばとうに出て行く佐野の馬
 源左衛門鎧を着ると犬が吠え
 佐野の馬戸塚の坂で二度倒れ
 宿屋めがなどと毒づく諸軍勢
 最明寺雪国ばかり選ってやり

以上、能の筋と江戸時代の能『鉢の木』に関する川柳を書き足しました。

20022年5月8日


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