職人の手補遺
私はいま六十歳、ちょっと小柄、そのせいか手が小さい。職業は看板屋である。同業者には手の大きい人が多い。私とあまり体型の違わない、ある人の手を見て驚いたことがある。大きくてしなやかで、親指がまむしの頭のように変形していて怖いようであった。小さな自分の手を見ていて、子供のころに見た、樽職人のことを思い出した。
味噌と醤油の醸造をしていた私の生家に、何か月も住み込んで信州味噌を出荷するための樽を作っていた、キヨと呼ばれた男がいた。この人は一人で山から木を切り出すことから始めて、材木の長さをそろえて切り、割って板を作り、長い長い工程を黙々と働き続けていた。
幼かった私は、この仕事に強い興味を持って、邪魔をしないように、道具に触れて怪我をしないようにと、母の注意を受けながら見続けていた。
使う道具は、よく切れる鋸、冷たく光る斧、板を削る丸みを持ったかんな、竹を割る刃もの、削る刃もの、すべてが専門のものである。
山積みの材料が一工程経るごとに形が整い、今日は何をするのだろうと、それが見たくて、学校の帰りも走って帰ったものだった。
どの工程もおもしろかった。なかでも圧巻は、竹を編んで「たが」を作る仕事だった。丁寧にけずった幅二センチほどの竹を四本、平編みに編むのである。
割り竹の、もとの部分をしばって、キヨの腕の筋肉がキリキリと盛り上がり、手が縄をなうように動くと、竹は生きているように、シャリシャリと音を立て、踊るように動くのである。
この竹は五メートルもある長い紐状なのに、しなやかに、滑らかに、互いに交差しながら複雑に動き、もつれることもなく編み上げられていくのであった。
私は職人の世界に入って二十三年になるが、あれほどの技を見たことがない。
母が、母とさほど年の違わないこの人を、
「キヨ、キヨや」
と、私たち子供同様に呼ぶので、不審に思って訊いてみると、
「あれは、山番の子だから」
と、言った。
母の生家の先祖は、もと信州伊那の下条家である。
小大名の常として、武田の勢いが盛んだったときには武田に仕え、織田徳川の侵攻に際しては、降参して徳川の家来石川数正についたのである。
主家が取り潰しになったため小笠原領内の、長野県北安曇郡美麻村に居着き、松本の藩主が変わるたびに、新しい藩主に仕えてきたのだと言うことである。
藩主が変わるたびに禄高を減らされて、明治維新まで武家の面目を保てたのは、母の生家と分家が一家だけだったという。
おもだった家来が帰農し、農地をもらえなかった下級武士は山番になった。キヨと呼ばれていた人は、その下級武士の子孫だったのであった。
母がその人を呼ぶときの優しげなようすが、いまだに思い出される。
気が利かないと言って、祖母と叔母に責められて、身の置き所のない思いをしていた母にとって、キヨと呼ばれた人が傍らに居たことが、どんなに心強いことであったか、今にして思い当たるのである。
母とキヨの生家のある、美麻というところは雪が五尺も積もる寒いところである。しかも山は険しい。そんなところで、禄を失った武士たちの凄惨な生活がしのばれる。彼らが山番になったといっても、ただ番をしていただけではない。きこり、炭焼き、猟、大工その他、生きるためにあらゆる可能性を探ってきたのであろう。
樽造りもその一つである。美麻の土産はいつも、干し柿と栗、それに麻であった。干し柿や栗は大きくて立派だった。麻は私が子供のころまでは、下駄の鼻緒をすげるための必需品であった。みなこの人たちの辛苦の結晶だったのである。
「美麻って良いところだな、こんな大きな柿や栗ができて」
呑気なことを言っていた私を、あのキヨと呼ばれた人はどう見ていたのであろうか。健在ならば八十歳を越えているだろう。大柄な人ではなかった。細面でおとなしそうな顔はおぼろげに覚えているだけだが、大きくてたくましい手だけは、今もはっきりと思い出せる。
平成7年 記
母に聞いたこと
山番は8家あった。その後子供たちを都市で働かせて家を建て、自分が年を取ってから子供のところへ行った。
美麻の従兄に訊いたところでは、所有の山林は50町歩くらいで、あまり大きな山林地主ではないと言っていた。
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