短編小説:護謨の木(後編)


3
 
 次の日、つまり三月二十四日、日曜日の午後、僕はオッデセイに乗って地元に向かった。地元へ行くのは久しぶりだった。都内の1LDKに引っ越してきてからまだ一度も帰っていないのだ。運転している間、家にあった『スピカ』が収録されているスピッツのCDシングルをリピートでかけた。地元が近づくともうその辺りは走り慣れた道だった。前の会社に勤めている間は実家で暮らしていたので、休みの日にはよくこの辺りをドライブした。ドライブと言っても近所に買い物に行ったり、一人になりたくてただあてもなくただ車を走らせたりしていただけなのだけれど。
 それでも一度だけ女の子を乗せたことがあったが、彼女とはそれきり一度も会っていない。僕らは途中まで良い雰囲気だったのだけれど、いざとなったときに僕が怖くなって彼女を拒んだせいで、彼女はそのまま帰ってしまった。とんでもなくやるせない気持ちになり、彼女に申し訳なく思った。僕は窓を開けて浴びる冷たい風で頭を冷やしながら、遠回りをして家に帰った。でもそういうことって一度だけじゃない。僕は前にも何度か逃げ出してしまったことがあった。どうしてもその状況に心が耐え切れなくなるのだ。僕はそのたびにひどく自分を責めた。でもその一方でどこか安心している自分もいた。そして、やがて僕の心は滑降と低空飛行に慣れて行ってしまったのだった。
 それにもうひとつ、僕は大学生の頃に知り合った女の子のことを思い出した。僕が二年生になったある春の日の昼休み、ひとりの女の子が僕のところへやってきて、「ナカムラさんの小説、私好きです」と言った。文芸部に今年入ってきた一年生だった。彼女は誰が見ても美人だと思うような顔立ちをしていた。黒く艶のある髪は先端の方で軽く半円を描き、肩の上に終着していた。そしてそれだけ言うと彼女は何処かへ去って行った。仄かに柑橘系の香りがしたことを覚えている。それから彼女とは会うたびに話すようになった。早い段階で僕は彼女のことを好きになっていたし、彼女の方も僕に好意があることはほぼ明白だった。それにもかかわらず、僕は彼女に積極的にアプローチをすることはできなかった。怖かったのだ。彼女を手に入れたいと思っているにもかかわらず、それを口に出すことに怯えていた。次第に彼女との間に微妙な距離感を感じるようになり、彼女の方はその間にボーイフレンドを作っていた。
 どうしてこの日僕が地元に戻ってきたのかというと、昨日佐久間さんとJの話をしたせいで、どうしてもこの街の空気を吸いたくなったからだ。「会うべきよ」と彼女は言った。今では僕はJに会うべきだと思い始めていた。でもその前にこの街をもう一度くぐり抜けておかなくてはならないような気がした。それもゆっくりと時間をかけて。
 僕はまず手始めに、近くのコインパーキングに車を止めて、実家の近くにある幼稚園のある辺りを歩いた。幼稚園はしばらく見ないうちに(どれくらい見ていないだろう)、すっかりその外観を変化させていた。建物は新しく立て替えられ、古い遊具はもうどこにも見当たらなかった。でもその中に、僕が通っていた頃からある石像が、それだけ古い時代から取り残されたみたいにぽつんと置かれていた。小さな石像だ。頭を丸めた小さい太った子供を象かたどっている。でもそれが誰なのかはよくわからなかった。今でもわからない。
 日曜日には幼稚園に人の気配はなかった。日曜日に来たのにはそういう理由もあった。もし園児がたくさんいるときに眺めていたら間違いなく怪しまれると思うからだ。
 ここがJと初めて会った場所なんだ、と僕は改めて思った。きっとその頃にも桜が咲いていたのだろう。園の周りには桜の木が何本か植えられていて、ところどころで桜が咲き始めていた。春の匂いもした。素敵な匂いだった。どこまでも優しげで、どこまでも希望に満ちている匂い。僕はそんな匂いを感じながら再び街を歩き出した。できるだけ遠くまで歩く必要がある。そしてできるだけたくさん春の匂いを吸い込む必要がある。そうしないことには何も始まらないような気がした。
 
「人生には思い出のまま取っておくべきものと、そうでないものとがあるの。あなたにはそれが見分けられるはずよ」。佐久間さんは昨日、僕に向かってそう言った。それからこう続けた。「それと、逃げていいものと、逃げちゃいけないものとを判断する必要があるわ。さっき言ったことと同じようにね。あなたは暗い森の中にいるように見える。その森に咲いている花は美しいけれど、あなたには触れることもできないのよ」
 そうなのかな、と僕は言った。思い出のまま取っておくべきものとそうでないもの? 僕にはそれが見分けられると彼女は言った。本当に見分けられるのだろうか。僕にはいまいち自信がなかった。でもとにかく僕はそれを見分けなければならないみたいだ。そして逃げていいものと逃げてはいけないものを判断する。なんだか彼女に言われると、そうしなければならないと僕は思うようになっていた。そんなことは初めてだった。
 
 僕は幼稚園を去ったあと、小学校のある場所まで歩いた。結構な道のりだった。でも丁度いい気候のおかげで長い距離も苦ではなかった。幼稚園にくらべ、小学校の周りは懐かしかった。というか、よりはっきりとした懐かしさがそこにはあった。見た目は何も変わっていないみたいだった。僕らはそこで授業を受け、遊び、部活をした。そんな光景がいまでもありありと見えてくるようだった。
 小学生のとき、僕とJはサッカー部に所属していた。僕はミッドフィールダーで、Jはフォワードを務めていた。僕からJへのホットラインで幾度となくネットを揺らしてきた。平日には簡単な朝練と放課後錬、土日には練習試合をした。練習試合の後にはよく寄り道をして遊んでから帰った。思い返してみれば、なんだかその頃はとても幸せだったような気がする。それでも嫌な奴は沢山いた。一度だけ放課後錬が終わったあと、チームメイトに胸ぐらを掴まれたことがある。今考えてもわけがわからない。僕はされるがまま立ち尽くしていた。そこで何か言えたらよかったんだけど、と今でも思う。
 そしてささやかな恋もした。小学校五年生の冬にはじめてガールフレンド(と言っていいだろう)ができた。その子の名前は「川崎凪」と言った。大人になってから再会したんだけど、彼女は今では写真家をやっている。でもまあ、その話は話せば長くなる。
 とにかく小学校の前まで僕は歩いてきた。そこには僕がいて、クラスメイトがいて、先生がいて、嫌な奴がいて、初めてのガールフレンドがいて、そしてJがいた。あの時代の時間が流れ、あの時代の空気が流れていた。僕は学校の向かいの空き地に入ると大きく息を吸い込んで、その空気を体中の細胞に取り込んだ。その瞬間の僕は紛れもなく十一か十二の少年だった。それからベンチに寝転んで、しばらく空を眺めていた。煙草を吸う人ならもしかしたらここで煙草を吸うかもしれない。でもあいにく、僕は煙草を吸わない。空を見上げていると、なんだか鼻がつんとしてきて、指の背で鼻を押さえた。微かに目が潤んでいた。やがて、だんだん眠くなってきて、僕はほんの少しの間だけ眠ってしまっていたみたいだった。夢を見たような気がする。頭の中には陽だまりのような、ぼんやりとした感触だけが淡く残っていた。
 小学校から車を停めた場所まで歩いて戻る途中、僕は広い公園の中にあるコーヒースタンドに入って、熱いコーヒーを飲んでモンブランを食べた。天井のスピーカーからうっすらとピアノのBGMが流れている。店内からは沢山の桜の木が見えた。全体的に薄いピンク色が広がり始めていた。その向こうには池が見える。池には鷺がいて、亀が岩の上で日向ぼっこをしている。その周りの道にはランニングをしている人がいて……というところで、ぼくはやはり彼女のことを考えないわけにはいかなかった。この公園は、小学六年生のときに「川崎凪」と一緒に合唱コンクールのMDを聴いた四阿(あずまや)があった場所だった。それは雪の降る寒い日だった。二年くらい前の冬にここに来た時、もうその四阿は無くなっていた。それは僕にとって、冷えた心を幾度となく暖めてくれる、暖炉のある小さな山小屋のような場所だった。でもすでにそれは実体を失い、今では記憶の中にしか存在しない。そして今でも僕は彼女とその四阿に、色褪せることのない憧憬を抱いていた。
 そういえば、彼女は昨年結婚した。僕はその知らせを大学時代の友人からの連絡で知った。というのも、彼女はその僕の大学時代の友人(名前を福本と言った)と結婚したのだ。もちろん結婚式にも呼ばれ、僕は出席した。複雑な感情じゃないと言えば噓になる。福本は(彼女の方から言っていなければということだが)僕と川崎凪が付き合っていたことを知らないだろう。だから彼らの前で僕はどう振舞えばいいのか終始決めかねていた。でもそれなりに上手くやり過ごした。そういうことって案外上手くできるのだ。
 モンブランを食べ、コーヒーを飲み終えると、僕は駐車場まで歩いてオデッセイに乗り、家に帰った。そろそろ外は薄暗くなろうとしていた。少し肌寒くもなってきた。帰りの車で僕は無意識に『森のくまさん』を口ずさんでいた。子供の頃に誰もが歌う童謡だ。ある少女が森の中でくまに出会い、そのくまにお逃げなさいと言われるが、くまが追いかけてきて、落としたイヤリングを拾って少女に渡す。少女はくまにお礼として歌を歌う。そんな歌だった。やがて途中で渋滞にひっかかるとまたスピッツのCDをかけた。『楓』が終わると『スピカ』が流れ、『スピカ』が終われば再び『楓』が流れた。
 
 その日の夜、僕は眠ってしまう前に机に向かって小説の続きを書いた。主人公の「ぼく」はあるとき家の物置の中で不意に、探していた写真を見つける。「ぼく」の隣には女の子が写っている。「ぼく」の服装は覚えていたのと同じだった。間違いない。これが探していた写真だった。でもどうしてだろう、それを見つけてしまうと、自分の中にあった炎のようなものの熱が失われていくような気配がした。それはあるいは喪失感にも似ていた。そしてそれを招いたのは他でもない自分自身だったのだ。そのことで「ぼく」は深く落ち込んだ。そのときはっと気づいたのは、自分はこの女の子が今どこにいて何をしているのかもわからない、という事実だった。それは「ぼく」を空しくさせた。どこまでも青く広がる空しさだった。その空しさの雲の上に女の子は腰掛けて微笑んでいる。しかしいくら手を伸ばしても届くはずもなかった。
 日付が変わる前に僕はパソコンを閉じ、ベッドに入って眠った。
 
 翌朝、僕は夢を見た。こんな夢だった。そこには(おそらく)小学生の川崎凪がいて、大人になったJがいた。僕はいくつだろう? 僕らは三人で池のある公園を歩いていた(現実では三人で歩いたことなんて一度もなかった)。雪がうっすらと降っている。みんなそれぞれに傘を差して、手袋をしている。厚いコートを着てマフラーをしている。池の周りを僕らは並んで歩いていた。他には誰もいない。こんな雪の日に普通は公園なんて歩かない。でも夢の中で僕らは歩いていた。歩いているのに、後ろを振り返っても足跡は付いていなかった。でも特に誰もそのことを気にも留めなかった。
 しばらくして僕らは四阿のある場所まで来た。四角いタイプの四阿だ。三辺に座るところがある。僕と川崎凪はそこで合唱コンクールのMDを聴いたのだ。
「懐かしいね」と小学生の彼女は言った。
「うん」と僕は言った。
 Jはラップを口ずさんでいた。僕はJの韻の踏み方に感心していた。
「中に入って休まない?」と川崎凪が言った。
「入ろう、そうしよう」とJが言った。
 まず川崎凪が入って、それからJが入ろうとした。するとそのとき、川崎凪が傘を閉じて屋根の下に入った途端、その姿を消してしまった。それは一瞬の出来事だった。それからJも続いて、同じように一瞬にしてその姿を消した。僕だけが取り残された。「どこに行ったんだよ」と僕は声にならない声で叫ぼうとした。でもそこにはもう誰もいなかった。雪だけが音もなく降り続いている。
 そこで目が覚めた。夢だ、と僕は思った。目の横には涙が乾いた筋が残っていた。カーテンの隙間からの光を受けた時計の短針は、ちょうど七の位置を指していた。朝の七時。ベッドから出て仕事に行く支度をしなくてはならない時間だ。
 
 
 4 
 
 
 一週間、僕はまた何事もなく出勤し、仕事をし、帰宅した。文章と文章をまるで間違い探しのように見比べては訂正した。その間僕は一度も夢を見なかったし、佐久間さんとも会わなかった。平日には彼女も僕も会っている暇などなかった。そして金曜日の夜になった。金曜日の夜は一週間の中で一番好きな時間だった。目の前にはまだ封の開けられていない新品の四十八時間が提示されている。それをどう使うかは自由だった。その日の自分次第でどうにでもできる。あれをしよう、あそこに行こうと考えているとき、僕の心は穏やかになれた。夏の風が吹く草原くらい穏やかだった。僕はそこに寝転んで様々な妄想をした。それでも大抵の場合、結局は土曜日を無為に過ごし、日曜日の終焉に気を落とすのがオチだった。充足感を得られることは珍しかった。
 そしてその夜、僕はまた夢を見た。
 土曜日の朝、僕は七時に目を覚ますと、いつものようにトーストを焼いてコーヒーを淹れた。テレビを観ることに疲れると、ベランダに出て植物たちを眺めた。時々葉を触ったりしもした。護謨の木の葉の表面はつるつるとして光沢があった。土は乾いている。今朝も先週のようによく晴れて暖かかった。
 
 さて、これから何をしよう、と僕は思った。
 
 頭にはまだぼんやりとした霞かすみのように、夢の感触が残っている。でもそれがどんな夢だったのか、具体的な映像が思い出せなかった。でも目が覚めた時、僕はJと川崎凪のことを考えていた。きっとJと川崎凪に関する夢だったのだと思う。またあの夢だろうか。でもその感覚も時間が経つにつれて徐々に薄まっていった。思い出すことがより困難になっていった。時計の針は時刻が十時であることを示していた。まだ昼までには時間がある。
 
 僕は思い立って佐久間さんに連絡をした。なぜだかとても彼女に会いたいと思った。
〈良かったら明日、いや今日の午後にでも会えないかな。空いている日で構わない。〉と僕はLINEでメッセージを送った。
するとすぐに返事が返ってきた。〈いいわよ。でも今日はちょっと忙しいの。明日の午後なら空いている。〉〈たしか西日暮里の辺りに住んでいるのよね? そっちの方に少し用があるから、あなたの家に行ってもいいかしら?〉。彼女は僕が電話が苦手なことを知っていて、LINEで返してくれるのだ。
〈もちろん。あまり綺麗とは言えないけれど、僕は全然構わない。〉
〈じゃあ、夜ご飯を作ってあげる。冷蔵庫には何か食材はある? 二人分の夜ご飯が作れそうな〉
〈玉ねぎとか人参、ジャガイモにキャベツ。米五キロと塩漬けにした鶏肉ならある。調味料は一通り揃っている。それにビールもある。これから買い出しにもでかける。〉
〈じゃあ私は身ひとつで大丈夫そうね。〉
〈もちろん。楽しみにしてる。〉
 
 僕はその午後、他にするべきこともなかったので、自転車に乗って隣の駅前にあるスーパーに買い物に出かけた。品揃えもいいので僕はそのスーパーが気に入っていた。少し遠くても、自転車に乗れば済むことである。仕事の帰りにも一駅前で降りて買い物をして、そのまま歩いて帰ることもあった。もともとそんなに離れていない駅だ。定期券を使っているので電車に乗ってもいいのだけれど、歩いて帰るのは健康のためでもあった。「私はあなたに健康でいてもらいたいのよ」と佐久間さんは言った。
 買い物をしている間、僕はずっと佐久間さんのことを考えていた。それは素敵なことだった。何より彼女は僕の知っている所にちゃんといるし、会おうと思えば彼女に会うこともできるのだから。彼女のことを考えている間、僕の心は高ぶりを感じていた。それは護謨の木を家のベランダに置いた時に感じた高ぶりに似ていた。今までとはどこか感触が違う、と僕はその時に感じた。それは今も同じだった。これまでとは違う何かがそこにはあった。でもそれが何なのかはわからない。少なくとも今のところは。
 
 次の日の朝、つまり日曜日の朝、佐久間さんから電話がかかってきた。
「急で申し訳ないんだけど、今日はそちらに行けないみたい」と佐久間さんは申し訳なさそうに言った。「田舎のおじいちゃんが昨晩亡くなったらしくて。この前までピンピンしていたのよ。本当に。だから今日中に山梨の実家に帰らなくちゃいけないの。直接言った方がいいと思って、電話にしたんだけど」
「そうなんだ。ご愁傷様」と僕は言った。「そういうことならしょうがないよ。また今度にしよう」
「ありがとう。私、ナカムラ君の家に行くの楽しみにしてたのよ」
「うん。僕の方こそ。わざわざ電話くれてありがとう」
 電話の向こうで小さく鼻をすする音が聞こえた。
「……ところで、お友達には会えた?」と佐久間さんは少し間を置いてから訊いた。「余計なお世話かもしれないけど」
「いや、まだ」と僕は言った。「近々会いに行こうとは思っている。どこにいるのかわからないけどね」
「きっとあなたはわかっているはずよ」と彼女は言った。「それが近いところだってことを」
 僕は言葉に詰まった。僕にはわかっている? 近いところ?
「じゃあ、また今度行くわね」と彼女は言った。「たぶん一週間くらいはあっちにいることになるとは思うけど」
「うん、また今度」と僕は言った。
 電話が切れると少し悲しくなった。僕はまたひとりになってしまった。
 そして佐久間さんのことを気の毒に思った。何も同じ時期に悲しいことが重ならなくてもいいじゃないか、と僕は思った。恋人と別れて、祖父を亡くしたのだ。あんまりじゃないか。でもそれはどうしようもないことだった。彼女は今頃ベッドに潜り込んで目を閉じているのだろう。深い記憶の海を、心に涙を流しながら漂っていることだろう。そして僕はさっきまでの気持ちの高ぶりに、ささやかな罪悪感すら抱いた。何か間違ったことをしていたような気持ちにすらなった。そんなことを思う必要は無いことくらい、わかってはいるのだけれど。
 
 昼ご飯を食べたあと、僕は久しぶりにアコースティックギターを手にとった。その時の僕はやけにギターを弾きたい気分になっていた。そういうことってたまにある。あるいは気持ちを落ち着けたかったのかもしれない。緩めていた弦にレギュラー・チューニングを施すと、コードをひとつひとつ確かめるように、指版の上で指の形を変えていった。好きなアーティストの曲をいくつか部分的に弾き、それから自分の曲を弾いた。木製のボディが増幅させた空気の振動が、鼓膜を通して脳みそに響くのを感じる。佐久間さんのお祖父さんのために何か弾きたかったが、弾くべき曲が思いつけなかったので、代わりに自分が知っている曲の中で一番それらしいものを弾いた。荘重な音の残響が部屋に広がった。僕は目を閉じてその音の世界に入ろうとした。でもそのうちに、前にアコースティックギターを弾いていたら大家さんに怒られたことがあったのを思い出して、そうなる前にやめた。文句なんか言われたくなかった。それにもういい大人だ。それくらいのことは言われなくてもわかる。
 ギターを弾くのをやめると、夕方、僕は財布とスマートフォンだけ持って近くの公園に行った。家から少し離れた大通りに架かる歩道橋の階段を昇ったところに、その公園はあった。日曜日だけどほとんど人はいない。もともと人の多い場所でもないし、公園に何があるわけでもない。自動販売機で缶コーヒーを買って、公園の端にある古い四阿のベンチに座った。周りには誰もいない。公園は高台に位置し、その場所からは木々の間にちょうど駅のホームとその向こう側の景色が見えた。公園と街との間には線路が十本程通っているので、視界を遮るような建物は何もない。僕がそこで景色を眺めている間、三十一回電車が通って、七回新幹線が通った。
 僕はそこでJを待っていた。「きっとあなたはわかっているはずよ。それが近いところだってことを」と佐久間さんは言った。僕はそれから考えてみたのだが、だとするとこの場所以外思いつけなかった。夢の中でJと川崎凪は四阿のなかに消えてしまった。そして僕の知っている限り四阿はこの辺りにはここにしかないし、それに夢の中で二人が消えていった四阿にそっくりだった。むしろまるっきり同じと言ってもいいくらいだった。もしJに会えるとしたらここしかないと僕は思った。
 しかし暗くなってもJは現れなかった。そりゃそうだよな、と僕は思った。ねえ、あれは夢なんだ。夢と現実は違うんだぜ。肩を落としてもう帰ろうと思った時、ふと明かりに照らされた駅のホームの中に見覚えのある二つの影を認めた。福本と川崎凪だった。間違いない。彼らはどちらもフォーマルな恰好をしていた。川崎凪の方は一眼レフカメラを肩にかけていた。彼女は写真家をしているのだ。福本は装丁の仕事をしているので、もしかしたら二人で本の表紙に使う写真を撮りに行っていたのかもしれない(彼らが同じ作品に携わったことが何度かあると、福本から聞いたことがあった)。でもそれはただの想像でしかなかった。二人はホーム・ドアの前に並んで電車を待っていた。やがて電車が彼らのことを隠し、再び走り去っていったあとにはもう、反対側の電車を待つ人々しかいなかった。こうやって二人が一緒にいるところを見たのは―あるいは覗いたと言うべきか―初めてだった。なんだか不思議な気持ちがした。まるで幻を見ているかのようだと思ったほどだった。
 反対側の電車が人々を飲み込んで行った後のホームを眺めていると、そこにJがやってきた。Jだ、と僕は思った。前にインスタグラムで見た時と同じような風貌をしていた。髪を伸ばし茶色く染め、髭を生やしている。英語ロゴの入った灰色のオーバーサイズ・フーディーにジーンズを履いている。そしてヤンキースのキャップを被っている。ほんとうにJだった。幻なんかではない。佐久間さんは僕がここに来ればJを見つけられるということを、はじめからわかっていたのだろうか? でもとにかく僕はJを見つけた。僕は急いでスマートフォンのアプリで時刻表を調べた。Jはこちら側のホームで待っている。電車は三分後に来るみたいだ。僕は飲みかけのコーヒーの缶を置きっぱなしにしたまま駅に向かって走った。このままJが電車に乗って行ってしまったら、そのまま何処かへ消えてしまい、もう二度と会えなくなるんじゃないかという気がした。
 
 

 
 
 公園から出ると歩道橋を降りて、交番の前を通り過ぎたところの入り口から西日暮里駅に入った。定期券を持ってきていなかったので、改札で切符を買わなくてはいけなかった。その間にも電車はこちらに向かってきている。前の人が買い終わり、やっと切符を買って改札へ入ったときにはもう、すべては水泡に帰していた。ホームへ向かう階段を降りてくる人波に逆らいながら階段を駆け上がり、電車が見えた時にはすでにホーム・ドアは閉まっていて、ちょうど電車は走り出したところだった。Jの姿はなかった。電車に乗ってしまったのだろう。僕は時刻表を調べたことを後悔した。もしそのまま向かっていたらきっと間に合っただろう。僕は息を整えるためにベンチに座った。気を落としたままあてもなくただそこに座っていると、誰かが声をかけてきた。
「あれ、ケンジ?」
 それはJだった。どうしてここにいるんだ? 電車に乗って行ってしまったんじゃなかったのか? 僕は驚きに呆然としていた。
「やっぱり。久しぶりじゃん」とJは言った。その微笑みに僕は懐かしさを感じた。
「久しぶり」と僕はなんとか平然を装って声を絞り出した。
 Jは僕の隣に、ちょうど一人分のスペースを開けて座った。三月の終わりの優しい風が、空き缶を転がしながら駅のホームを吹き抜けていった。そのカラカラカラという音だけがやけに大きく響いていた。
「今イベントが終わって帰るところなんだ」とJは言った。最近どう? もなければ、どうしたの? もなかった。僕はそれが嬉しかった。それがいつもの僕らだった。
「ラップの?」と僕は訊いた。
「うん。フリースタイルバトルのMC。」
「へぇ」
「でもやっぱり自分の曲をやる方が楽しいね」とJは言った。「みんな下手くそなんだもん」
「そうなの?」
「まあ、俺が一番上手いからね」と言ってJは笑った。
 僕もつられて笑った。「たしかに」。こうやって笑ったのって、どれくらいぶりだろう。
「ねえ、ギターはまだやってるの?」とJは僕に訊いた。Jは帽子をいじっていたけれど、おそらく僕に訊ねているのだろう。
「やってるよ」と僕は答えた。「曲も作ったりしてる」
「そうこなくっちゃ」
「え?」
「今度さ、新宿でアマチュア・ライブをやるんだけど、どう? 出ない?」
「新宿か……」、僕は考えた。出るか出ないかを考えたのではない。どの曲をやるかを考えたのだ。でも一曲だけ、もしライブに出ることがあったら絶対にやる曲は決めていた。そしてその前に言わなければいけないことがある。「覚えてる? 僕が最後に出た新宿のライブ」と僕はJに訊いた。
「……ああ、覚えてる」とJはベンチにもたれて、思い出すように上空を見てから言った。視線の先には公園の緑が生い茂っている。「アコギ一本で弾き語りをしてたね」
「僕はあの日、途中で何も言わずに帰ったでしょう? ずっとそのことを後悔していたんだ。そんなことするべきじゃなかったって」
 
           *
 
 社会人になってまだ間もなかった頃のある日、僕はスマートフォンで地図アプリを開きながら、今夜自分が出るライブに胸を高鳴らせていた。Jが主催するライブで、今回で三回目になる。一回目はJともう一人と僕の三人で組んで、二回目はJと二人で出て、今回は僕一人で出ることになっていた。一回目と二回目は、Jと二人で作った曲やカバー曲を主にやっていたけど、この日は一曲を除いて全曲自分のオリジナルを演奏するつもりでいた。普段はDTMで曲作りをしているが、この日はアコースティックギター一本で歌うつもりだった。
〈後輩が車で連れて行ってくれるっていうから車で行くけど、どうする?〉と、見ていたスマートフォンの画面に突然Jからメッセージが届いた。それを読んだ途端、僕の高まっていた気分に翳りが差した。なぜならJと駅で待ち合わせて電車で行く予定だったからだ。当日になって急に予定を変えられたことに僕はだんだん腹が立ってきた。昔からそういうことが苦手なタイプだった。別に腹を立てたいわけじゃない。それでも予定していたことが変更されると頭の中が混乱するのだ。
〈昨日、電車で行くって言ったじゃないか〉
 返信が届く。〈せっかく後輩が乗せてくれるって言ってるからさ〉
 僕はムカムカした気持ちを抑えながら返す。〈電車で行くよ。車は嫌いだから〉
〈あっそう。じゃあリハーサル○○時からだからよろしく〉
 僕は心の中で驚くほど怒っていた。そしてJの言葉に失望していた。もちろんそんなことはしたくなかったし、するつもりでもなかった。でも「ごめん」や「悪いけど」といった言葉なしに、淡々と予定の変更を告げてくることが許せなかった。もちろんJとは長い付き合いで、ちょっとしたことじゃ互いを嫌ったり疎遠になったりはしない。というか、そう思っている。僕はベッドに寝転んで目を閉じ、気持ちが落ち着くのを待った。家を出るまでにはまだまだ時間がある。
 
 新宿の靖国通り沿いの雑居ビルの地下にあるライブハウスに着くと、僕より前の順番のグループがリハーサルをしていた。僕は机に置いてあるエントリー用紙に、使う機材とその配置、セットリストや照明の要望などを書き込み、顔見知りのイベンターにそれを提出した。自分の順番はこのバンドの次の次なので、それまで客が入るスペースにある椅子に座り、ギターのチューニングをしたり、自分の曲のコードを確かめたり、リハーサルを眺めたりしていた。見覚えのある人を見つけて二言三言、言葉を交わしたりもした。
 しばらくしてJが入ってきた。彼は黒のフーディーに銀の十字架のネックレスを合わせ、キャンバス地のチャッカ・ブーツを履き、ダメージ加工された細身のジーンズという格好をしていた。そしてヤンキースのマークが入った大きめのキャップを被っていた。僕が「よう」と手を挙げるとJもそっけなく手を挙げた。
「リハーサルの順番早くなったから急いでね」とJはあくまで事務的な口調で言った。上司が部下に予定変更の指示を出すみたいに。そして次の順番のシンガーがステージに上がり、一緒になって盛り上がっていた。
 そこで僕はやけにはっきりと、Jとの距離感を感じた。それまでも少しずつではあるけれど、Jとの距離は離れていっている感覚があった。それはJが本格的にラップにのめりこんでいったことが理由かもしれない。前は一緒に曲を作って、Jがギターを弾いたり、あるいは僕が弾いてJと一緒に歌ったりしていたのだけれど、最近では一緒に曲を作ることもなくなり、Jは本格的なラップばかり歌うようになった。別にラップが嫌いなわけではないのだが、そのことでだんだんJとの間の距離が広がっていくような感覚があったのは確かだ。ここ最近では僕らの間には子供の頃とは違って、互いが別の方向に居場所を作ろうとしているような、妙な寂しさもあった。きっとそれはJも感じていたはずだ。顔を合わせる回数が減っていけばいくほど、二人の間にあったズレのようなものは徐々に大きくなっていった。そしてそれはやがて二度と埋まらない溝になっていくのだろう。地球が長い年月をかけて地殻変動を起こし、大陸を作り上げていったみたいに。
 僕はステージの裏にある出演者用の楽屋に入り、ギターケースや他の荷物を置いて、ライブで使う道具を準備した。楽屋はまるでウナギの寝床のように狭く細長く、人とすれ違うのが精いっぱいだった。部屋を出る途中で誰かのシールドを踏み、スツールに足をぶっつけた。そして混乱したままリハーサルをなんとかこなした。
 
 やがてライブが始まり、自分の一つ前の出番が終わると、僕は楽屋から暗転したステージに出て機材をセッティングした。事前に指定したSEが流れている。REMEDIOSの『Forever Friends』。岩井俊二監督の短い映画のサウンドトラックだ。そして時間が来てPAがSEを止めると、僕は演奏を始めた。照明が点く。会場は静かで、イントロのアコースティックギターの音がよく響いた。青い照明が僕を照らしている。歌い始める。最初は前の方で聴いていた客が、つまらなそうに後ろに下がっていく。それでも数人はリズムに乗って体を揺らしているのが見える。一曲目(オリジナル)が終わる。ありがとうございますと言うとまばらな拍手が起こる。曲と曲の間のMCで、ここに来る途中に考えてきた言葉を言う。Jの隣にいる人から声が上がる。なんて言っているかはよくわからない。Jは何も言わない。次の曲(オリジナル)をやり、続けて他の曲(カバー)をやる。始まる前は自分の曲にすごく自信を持っていたけれど、途中でだんだん自分の曲と演奏と歌に自信が持てなくなってくる。いつもそうだ。わかっている。僕は自分の声がいい声だとは思っていないし、驚くような演奏をするわけでもない。それなのに自分がステージに上がり、それを聴いている客がいる、ということに戸惑い始めるのだ。それでも僕は気持ちを入れてすべての曲を歌い切った。演奏や歌詞を間違えることはなかったけれど、終わってすぐに思ったことは「もう歌いたくない」ということだった。スピーカーに繋がったシールドを引き抜いてステージを後にした。
 
 楽屋に戻ると出番を控えたシンガーが準備をしていた。「お疲れ」と互いに声を交わし、僕はギターをケースに仕舞った。そしてこれはたぶん人前で歌うことによる反動みたいなもので、自分の出番が終わるといつも悲しい気持ちになった。それも割と真剣に悲しい気持ちになった。正確に言うならば落ち込むと言った方がいいかもしれない。とにかく歌う前と後とでは感情が違ったものになってしまう。僕は頭を抱えたまま、自動販売機に行って缶コーヒーを買い、その場で飲んだ。頭の中は渦を巻いている感じがする。コーヒーが多少気持ちを楽にさせる。
 缶を捨てると楽屋に戻り、ギターケースと自分の荷物をまとめ、再び楽屋を出た。そして一目散に地上へ上がる階段を駆け上がった。部屋から出た時、Jたちが視界に入ったけれど、僕は気づかないふりをした。
 
 新宿駅に着くと山手線の乗り場を探し出し(何せ大きな駅なのだ)、混みあった電車に滑り込み、西日暮里駅で降りて千代田線に乗り換えた。乗り換えの途中、ホームの階段でギターケースからギターを落っことして(チャックが勝手に開いたのだ)、ボディに傷がついてしまった。階段には薄い木片がまるでふりかけのように落ちていた。僕は人にぶつからないように階段の端に避け、慎重にギターをケースに戻した。チャックがどうして勝手に開いたのかわけがわからず、一瞬パニックになった。普通はそんなことはないはずだ。もしかしたら気持ちが混乱していて、ライブハウスを出るときにちゃんと締めていなかったのかもしれない。考えてみたらまあなくはないことだった。
きっと何も言わずにライブハウスを飛び出してきたことに対するバチが当たったのだと、そんな風にも思えた。僕は駅のホームで次の電車を待ちながらイヤホンを取り出して音楽を聴いた。何か別のことに意識を向けなくちゃいけない。それでもJのことが頭に浮かんでは消え、また浮かんでくる。やれやれ。僕はあんなことをするべきではなかったのだ。出番が終わり、少し休んだらまた他のバンドの演奏を見て、Jの歌を聴いて、それから「じゃあ、また」と言って帰るべきだったのだ。少なくとも何も言わずに飛び出すべきではなかったのだ。
 
           *

 Jは被っている帽子をしっくりくる角度に微調整しながら、何度か小さく頷いていた。
「Jはそのことで僕に失望したんじゃないかって思ってる」
「あのね」とJは口を開いた。「そんなことで失望したりなんかしないよ。俺はそれほど薄情じゃない。ねえ、俺たち長い付き合いじゃないか」
 僕はJのその言葉を聞いて、少なくない安堵感を覚えた。カラカラカラという音を立てた空き缶が、何かにぶつかって止まった。
「でもそれから全く連絡を取っていなかった」とJは言った。「俺もなんて言ったらいいかわからなかったんだ。むしろ俺の方が嫌われたんじゃないかって思ってたんだよ」
「もちろん嫌ってなんかいない」と僕は言った。
 短い沈黙。
「きっと社会人になった俺らはもう、子供の頃とは違っていたんだね」とJは言った。「大人になったんだよ。でもだからって友達じゃなくなるってわけじゃない」
「そう思う?」
「そう思うよ。ハーフタイムがあるだけさ」
 僕は小さく笑った。Jも笑っていた。
「でもあの時の僕は少しどうかしてたんだ」。その感覚は今でもよく覚えていた。「あんまりこういうことを言うのも良くないとは思うけど、きっと歌ったせい。僕はずいぶんと気持ちが高ぶっていた。そして悲しくなった。逃げ出したてしまいたかったんだ」
 再び短い沈黙。僕らの背後に次の電車がやってきて、人々を吐き出してまた飲み込んでいった。こちら側の電車がもうすぐ到着するというアナウンスがあった。ホームには電車を待つ人がたくさんいる。みんな何処へ行くのだろう?
「ケンジは電車を待っているの?」
「いや、ただ座っていただけ」
「俺はちょっと次の電車に乗らなくちゃいけないんだ」とJは言った。「話したいことはいくらでもあるんだけど」
「うん、わかった」
「じゃあ、連絡するよ。あ、ライブの件なんだけど―」
「もちろん出るよ」と僕は言った。出なければならない、と思った。「新曲もあるんだ」
「良かった」と言ってJは微笑んだ。「もう出てくれないかと思ってたんだ」
「そんなことないよ」と僕は言った。
「新曲、楽しみにしてる」とJは言った。
「うん」
「また一緒に曲作ろう」
「うん、作ろう」
 Jは新宿方面の電車に乗り込むと、押し込まれるように乗客の中へと消えていった。電車が行ってしまうと再び束の間の静けさがやってきた。誰かが空き缶をゴミ箱に捨てる音が聞こえた。そして間もなくして、次のアナウンスが聴こえてくる。
 僕はこれからどこへ行こう? 
 時刻はもうすぐ夜の七時になろうとしていた。色々考えた末に、僕は東京駅に向かうことにした。もう夕飯時ではあったが、特に何かを食べたいという気持ちにはならなかった。僕は階段を降りると、線路を挟んだもう一つのホームに立ち、東京方面の電車を待った。ぼんやりとただ正面の新幹線用の高架を眺めていた。そのときふと、僕は自分が幸福にも似た淡い感覚を抱いているのを感じた。それは頭の中で、水を敷いた紙に水彩絵の具を垂らした時のように、じんわりと広がっていった。それはおそらく僕が何かに結びついているという感覚だった。僕はその感覚を、長い間失っていたような気がする。瞼を閉じるとゆっくりと息を吸って、時間をかけて吐いた。Jのことが思い浮かび、川崎凪と福本が並んで電車を待っている姿が思い浮かび、それから佐久間さんの顔が思い浮かんだ。今日は佐久間さんと会う予定だったのだ。その事実は僕の心を再び満たしたが、身内の不幸があった佐久間さんのことを気の毒に思った。そして、思うことしか僕にはできなかった。
「まもなく一番線に、上野・東京方面行きの電車が参ります―」
 それから僕は、三月の最後の風を切ってホームに入ってきた銀色の箱に乗り込んだ。
 
 東京駅に到着すると、丸の内中央口から外に出た。駅前広場を通り抜け、和田倉門の交差点を左に曲がった。トレーナーシャツにジーンズという格好で、しかも手ぶらでこの辺りを歩いている人は僕くらいだった。みんなそれなりのきちんとした服装をしていたし、みんな何かしらの荷物をその身に携えていた。そのまま皇居沿いに日比谷通りを歩くと、日比谷公園にたどり着いた。公園を囲む桜はちょうど満開と言って良さそうだった。時折風が吹けば、その薄い桃色の花びらを地面へ舞い落した。まるで少しずつ紙片を千切るように。
 一週間ほど前に僕は佐久間さんとこの場所を歩いていた。ついこの間だ。でもなんだかずいぶん前のことのような感じがする。その午後、小音楽堂から聴こえてきたのは、スピッツの昔の楽曲だった。僕らが昼食の後で公園の中を散歩していると、不意にその曲が聴こえてきたのだった。それから僕はその曲が頭から離れなくなってしまった。家に居るときも、車に乗っているときも、飽きることなくいつまでもそれを聴いた。その時の僕にはそうすることが必要だという風に感じていたのだ。そこから何かを読み取ろうとしていた。まるでそれが僕にとっての何かの指針でもあるかのように。まるでこの曲に導かれているかのように。
 そして今もう一度ここに来てみて、その理由がわかったような気がした。この曲は僕に何か大事なことを伝えていた。そして佐久間さんもまた、僕に大事なことを伝えようとしていた。「人生には思い出のまま取っておくべきものと、そうでないものとがあるの」。「それと、逃げていいものと、逃げちゃいけないものとを判断する必要があるわ」。「あなたは暗い森の中にいるように見える。その森に咲いている花は美しいけれど、あなたには触れることもできないのよ」。彼女は僕に向かってたしかにそう言った。今ではそれが何を意味しているのか、僕にははっきりとわかっていた。
 オデッセイの中でそうしたように、僕は『森のくまさん』を口ずさみながら公園の中を歩き、噴水広場に出るとベンチに座った。頭の中をからっぽにして、再び噴水が上がるのを待った。外灯に照らされた杉やイチョウの木がその周りを囲んでいる。広場には通り過ぎていく人々がいるくらいで、春の風に揺れる葉擦れの音だけが辺りを覆っていた。ふと春宵の空を見上げると、まるでクロワッサンのような形をした綺麗な月が輝いていた。そして噴水が高く上がり、飛沫が月を濡らした時、僕はあることを心に決めた。それがいつになるのかはわからないけれど、今度は佐久間さんを誘って買い物に行こう。銀座でも表参道でも、好きな所に行って好きなものを買えばいい。そして荷物を両手に抱えた彼女に向かって、僕はこう言うんだ。「僕が持つよ」と。その頃にはきっと、僕は暗い森を抜け、今とは違う歌を歌っていることだろう。
 
           *
 
 翌月、僕はJの主催するライブに向かった。最後に出た時と同じように、アコースティックギター一本での弾き語りをするつもりだった。場所はその時と同じ新宿だったが、今ではもうあのライブハウスはなくなってしまっていたので、そこはまだ僕が一度も来たことのない場所だった。
 時間ギリギリに地図を見ながらなんとか会場付近まで来ると、Jはすでにその建物の前にいて、ギターケースを提げた僕に向かって手を振った。「こっち、こっち」。
「やっと着いた」と僕は言った。「ごめん、ちょっと道を間違えていたみたいだ」
 Jは言った。「大丈夫、まだこれからだから」
 
 
 
                                        (了)

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