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三島由紀夫の小説など【その3:疾走する小説と物語(『文章読本』・『青の時代』・『夏子の冒険』・『鰯売恋曳網』)】(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録10)

3.疾走する小説と物語

「三島由紀夫の小説など」の「その2」(以下)では、三島の小説が理屈っぽく、哲学小説的な体裁を取ったものや、哲学的議論が現れるものが多くあることについて述べた。

しかしその一方で、三島にはどうやら「疾走する小説/物語」への憧れがあり、実際に、凄い勢いで展開して行く小説もある。これは一見、理屈っぽさや、哲学的議論が多いことと矛盾するようにも思えるが、三島においては、その二つが両立している。
三島には、『豊饒の海』という、全四巻から成る畢生の大作がある。しかしこの大長編小説は、四つの比較的独立した小説―『春の雪』、『奔馬』、『暁の寺』、『天人五衰』の集成体であった。それぞれの長さは多少異なるものの、それ以前の最も長い小説―『禁色』(上記その2で紹介した)や『鏡子の家』―三島の長編小説の中で最も実験的な作品で、それ故か、一般にはあまり受けない小説で、確か英訳もされていなかった気がする―と同じ位であった。ということは、三島における掛け値なしの長編小説は、この六編ということになる。

これだけでも、45歳で死んだ小説家の仕事として、驚異的であるが、三島の本領は、より短い中編小説や、短編小説、そして上演という物理的制約からある程度コンパクトなものであることと要請される演劇の脚本の方で、より強く発揮された、と考えても良いだろう。
この比較的短い、あるいは必ずしも長くはない、という三島の作品の特徴は、理屈っぽさ・哲学っぽさと、展開の早さ・時に疾走、という一件矛盾する特徴の両立と、何らかの関係がある、と私は思っている。

そこで今回は、あくまで私の主観で選んだ、三島由紀夫の疾走する小説や物語を、幾つか紹介する。

『小説読本』

その前に、その2の冒頭でも触れた、三島の『文章読本』について述べる。

これは、私が今まで読んだ文学系の文章読本系の本の中で、一番面白い本だった。
実例が豊富に挙がっている。
例えば、顔の描写についての部分で、バルザックや谷崎潤一郎の精細な(精細過ぎる)描写の例を挙げ、ヴィリエ・ド・リラダンや、小説ではないが日夏耿之介の詩を取り上げ、三島が好きな耽美的描写の実例を示している。
三島が偏愛する、フランス流心理小説の例も幾つか挙がっていたと思う。『クレーヴの奥方』やラディゲの『ドルジェル伯爵の舞踏会』だったか? 『肉体の悪魔』だったかも知れない。

その他覚えているところでは、長編小説の文章は、ずっと緊張しっ放しではダメで、時に弛緩し、冗長・冗漫でもあることが必要、と言うより重要、ということも、三島は書いていたように思う。(そのままの言葉でではないが。)
三島自身、少年時代からの小説の創作に当たっては、そういう特性が苦手だったように思う。特に戦時中の作品―「花ざかりの森」や「軽皇子と衣通姫」」等―を見ると、兎に角一部の隙もないような、全般意識が通っているような、美文を書いている。

これは、三島独自の特徴と言うより、時代背景や、日本浪漫派という、三島が属していた文学流派の特徴も勘案しなければならないのだろうが、ともあれ、推測するに、もともとその種の文章を書き、その種の文学が好きだった三島は、戦後になっても、全編張り詰めたような文章を書いていた。
このような点からは、三島は「長編作家」と言うより、「短編作家」であり、「中編作家」であった。
実際、量的にも、質的にも、短編小説や中編小説には、傑作が多い。
しかし、三島の凄いところは、それにも拘らず、幾つも長編小説を書いてしまい、しかもそのどれもの傑作か、少なくとも問題作であった点である。
特に40歳台になってからは、その小説のほぼすべては、長編小説―『豊饒の海』が占めていた。
その後三島が生き続けていたなら、もっと長い小説も書いたのではないか、と予想される。
この文章読本で言及されていたのかは忘れてしまったが、例えばヘンリー・ジェイムズやトーマス・マンといった長編作家は、その凝った文章の点でも一流であり、全編張り詰めた文章によって長編小説を十分書き得ることを、証明している。

細かいところは忘れてしまったが、文学系文章読本の白眉だと思うので、一読をお勧めする。

その中で、私が今「疾走する小説」と呼んでいる(これは多分三島本人の言葉ではなかったと思うが、もしかしたらこういう言葉を使っていたかも知れない)、小説におけるスピードの速い描写について、述べている部分が面白い。
三島が具体的に挙げているのは、確かジャン・コクトーの小説と、スタンダールの『パルムの僧院』の最初の方数十ページだったと思う。

『パルムの僧院』は、文庫本で500ページを超えるような大作であるが、スタンダールが短期間で書いたことで有名な小説であり、同じ作者の傑作『赤と黒』の主人公とは違って、とことん爽やかで行動的な人物(とはいえ、殺人も犯してしまうのだが)、イタリア人ファブリスを主人公とした、波乱と陰謀の物語である。
特に最初の数十ページ、ワーテルローの戦いの部分は、恐らく作者スタンダール自身が興奮して、一気に書き上げたことを想像される、疾走する描写と展開の物語となっている。
この小説の爽快な、疾走する展開ぶりを、三島は驚きと羨望と、熱意を込めて、読者に語っている。
これらの部分の熱のこもった文章を読むと、三島由紀夫が、展開の速い、疾走する小説や物語にも、憧れていたことが分かる。

『青の時代』

さて、三島由紀夫自身の疾走する小説や物語を、以下に幾つか紹介したい。
紹介する小説や物語は、あくまで私がそう思っただけである。
実際にどう思うか、是非読んでみてください。
言うまでもないことだとは思うが、三島由紀夫の小説を読んで、予想と違っていた、といったことはあるだろうが、損した、といったことはないと思います。勿論、好き嫌いはあると思いますが。
『青の時代』という中編小説は、三島が『仮面の告白』を書く前に書いた小説で、従ってまだ20歳の前半の頃の作品である。

『仮面の告白』も20代前半の作品なので、20歳を少し超えたばかりの作品、と言った方が良いかも知れない。
疾走する小説、とは行っても、『パルムの僧院』の主人公とは違って、この小説の主人公―確か川崎誠と言ったか―は、全く爽やかではなく、逆に冷酷であり、良い大学は出たが知性があるとは言えない。
その2でも述べたが、実は、三島の小説や物語には、この手の、冴えない、時に汚い程の、登場人物がよく出て来る。
『金閣寺』の主人公もそうである。『青の時代』の主人公も、まさにその部類に入る。
コンプレックスも強い主人公は、大学を出ると、まともな所に就職せず、何と闇金融の経営に手を出す。そしてお決まりの破滅、自殺、と話は展開する。
私がこの小説を「疾走する小説」と呼ぶのは、しかし、この小説の上のような筋の展開を指してのことではない。
三島はあまり準備しないで、締め切りに追われるようにこの小説を書いたと言われ、そこから来る一種の雑さが、結果として早い展開につながっているという側面はある。
しかし、私が最も感激した、「疾走する小説/物語」の部分は、最後の方、何処までも発想のいびつな、間違った主人公が、カッコいいところを見せようとしたのか、自分の母や友人を連れて、ダットサンやトラックを連ね、金の取り立てに赴く場面である。
間違って「赴く」といった言葉を使ってしまったが、赴くどころではなく、得たいの知れない連中のさながら大名行列、ただでさえ混乱した戦後すぐの東京の街路を、闇金融の金貸しのスポーツカーやトラックが、金の取り立てに、がんがん疾走するこの数ページの場面は、全く爽快である。
勿論、爽快な事象が展開している場面ではなく、この後主人公は母にも友人にも軽蔑され、破滅への道を突っ走って行くのである。
しかし、この疾走する場面の爽快さは、否定出来ない。
三島自身は、戦後社会の中で一度エリートとしての道を歩み始めたが、挫折して小説家というヤクザな商売に転じた。
その意味では、『青の時代』の主人公と、三島とは同類である。
良く考えて見れば、この後、いろいろあったが、マイナスの方向に突っ走った、という意味でも、同類である。
殆ど直後に出た『仮面の告白』の影に隠れてしまっているが、こう見て来ると、この小説も、三島由紀夫自身の自伝と解釈して良いのかも、知れない。

『夏子の冒険』

あまり読んだことのない人のイメージに反して、三島由紀夫は、「純文学」ばかり書いていた作者ではない。
芝居の脚本や評論の類もたくさん書いた、という意味ではなく、『仮面の告白』や『金閣寺』や『午後の曳航』や『春の雪』のような、広い意味での「純文学」をのみ書いていた作者ではない、ということを、このことは意味している。
三島は、20代の頃から、一連の娯楽小説、エンターテインメント小説を、定期的に、書き続けた。
『音楽』、『永すぎた春』、『命売ります』等、良く知られている作品も、この中に含まれている。

ここで疾走する小説の一例として取り上げたいのは、『夏子の冒険』という、恐らく三島が書いた最初のエンターテインメント小説である。

このグループの小説も私は全部読んだが、一番好きなのが、この『夏子の冒険』である。
『夏子の冒険』の主人公、夏子は、行動的な若い女性である。
しかしそもそもが、函館の修道院に入る、と宣言して、東京から北海道に冒険の旅に出るのだから、行動的なのか、何か分からない。
しかし北海道に来てからの夏子は、まさに行動的である。
確か上野駅で見かけたアイヌの青年と、北海道で再開し、その青年の婚約者の少女を殺した熊を退治する青年の復讐を手伝う。
この共同作業を通じて、意気投合し、相思相愛の関係になった二人は、結婚の約束をする。
これで夏子が修道院に入るなどという妄想を捨てたのだと思った家族も、大賛成する。
めでたしめでたしの大団円が訪れるかと思われた時・・・・・ネタばらしになるので、もう遅いかも知れないが、ここからは書かない。

なお、三島と親しかった作家の武田泰淳は、北海道のアイヌに取材した長編小説『森と湖のまつり』を書いている。

ここで強調したのは、ストーリーではなく、この疾走する物語展開の方である。
一種の爽快さがある。
文庫本で出ているので、是非読んでみてください。バカバカしくもあり、面白い、文字通り、気楽に楽しめる娯楽小説である。
三島特有の少し気取った文章も、今の読者にとっては新鮮かも知れない。

ところで三島由紀夫は、この種のエンターテインメントの小説を通じて、小説や物語の実験をしていたのではないかと言われている。
形式上の実験だけではなく、内容的な予行演習のものもしていた可能性もある。
例えば、『夏子の冒険』の結末は(上でははっきりとは書かなかったが)、後に、『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の終局の場面として、展開される。
これもネタバレになるのでここで書くのは遠慮するが、興味のある読者は、二つの小説を読み比べて見るのも、楽しいかも知れない。
そして少なくとも、ここで強調する「疾走する小説」という意味では、『夏子の冒険』の方が、『春の雪』よりも上を行っている。

『鰯売恋曳網』

三島由紀夫は、少年時代から歌舞伎に親しみ、戦時中の観劇日記である『芝居日記』を読むことも出来る。
その後、幸いなことに、作者側に転じ、幾つかの作品を書いた。
三島由紀夫の歌舞伎作品についての、以下のような、木谷真紀子氏による研究書があるので、詳しくはその本を参照してください。(この本の表紙カバーの写真は、勘三郎と玉三郎の鰯売りの一場面である。)

三島歌舞伎の中で、ここに、疾走する物語として紹介する、『鰯売恋曳網』は、歌舞伎喜劇の大傑作である。
 
文庫本や単行本をアマゾンで探したが、見つからなかった。
私は、その脚本を全集で読んだ。
しかし、芝居全体に言えることであるが、確かに脚本を読む楽しみというものはあるが、舞台で見た方が、面白い場合がある。
特に、この『鰯売恋曳網』は、そう頻繁にやるものではないが、時々は上演されるので、観劇の機会があったら、是非見てみると良いと思う。
歌舞伎を見たことのない人でも、三島の舞台作品を見たことのない人でも、多くの人が楽しめる作品だと思う。
勿論好き嫌いというものもあるが、少しでも興味があれば、上演の機会を逃さない方が良い。
 
私の場合は、最初、中村勘三郎と坂東玉三郎の鰯売りを見た。
涙が出る程笑える、というのは、この作品の形容として、最も相応しいのではないか。
脚本の優秀さと、勘三郎と玉三郎という、不世出の二人の歌舞伎役者によるこの上演は、まさに傑作であった。
最後の場面では、会場中が爆笑の渦に包まれた。
同時に、その後味の中に、これ程嫌味なものが含まれていない作品も、珍しい。
これを見たら、三島由紀夫という作家の印象が、再度変わるに違いない。
勘三郎亡き後、その息子達―中村勘九郎と中村七之助による上演も見た。多くの観客は、勘九郎の中に、父親の面影を求めていたのだと思う。それはともかく、この上演も、掛け値なしに楽しめた。笑えた。会場中が爆笑に包まれた。そして、みんな、少ししんみりとした。
繰り返すが、これ程後味の良い見物は、滅多にない。
 
三島の創造者としての能力は、本当に凄い。
 
さて、この物語も、私の分類では、三島由紀夫の中の「疾走する物語」である。
上演時間は多分、二時間程度。
歌舞伎の一場としては、程よい長さだ。しかもこれで完結。
無論、いろいろな背景知識を知っていた方が良いが、全く知らなくても、物語の面白さ、そして早い展開に、呑み込まれるようにして、座席に座っていると、笑いと涙の間を、物語の力が、ぐいぐいと引っ張って行ってくれる。
役者達も、この物語の力に負けないように、持てるすべての力を発揮する。
 
「伊勢の国に阿漕ヶ浦の猿源氏が鰯かうえい」という、鰯売りの男猿源氏の声に惹かれた遊郭の女蛍火―実はさる由緒正しいお城のお姫様の、『夏子の冒険』の冒険とは異なる、もう一つの冒険だと、この物語の構図を、見ることも出来る。
そこに、殿様に化けた猿源氏が現れ、滑稽な殿様芝居が演じられる。この場面が、物語における大きな部分を形成するが、終盤で、この男が鰯売りではないのに幻滅した遊女実は姫が、自害しようとする。
慌てて止める猿源氏。そして、自分の正体が実はあの鰯売りだと告白。
蛍火は喜び、城から身請けにやって来た家来達を決然と振り切り、猿源氏の女房になることを、自ら選び取る。
そして二人は、疾走するかの如く、「伊勢の国に阿漕ヶ浦の猿源氏が鰯かうえい」と二人して唱和しつつ、花道を駆け抜けて行く。
 
こう書いて行くと、この物語の女性も、『夏子の冒険』の夏子や、『春の雪』の聡子と同じように(但し、別の方向において)、自分の人生を自分で決然と選び取るタイプの女性であった、ということに気付く。
この女性のタイプは、私の中では、遠く『源氏物語』における最後のヒロイン、浮舟を思い起こさせる。
薫と匂宮という二人の男性に翻弄され、宇治川に身を投げ自殺を図った後、浮舟は救われた僧都の寺で手習に励む。そして、繰り返し浮舟を訪ねる薫に決して靡くことなく、薫を拒否し続ける。















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