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偽情報/ナラティブ情報の起源と本質――クリヴィツキーの『スターリン時代』紹介

【書誌情報】
ワルター・クリヴィツキー 著・根岸隆夫 訳.『スターリン時代――元ソヴィエト諜報機関長の記録 第2版』.みすず書房 (1987).

本書の著者ワルター・クリヴィツキーは、1899年、西ウクライナ(当時ロシア帝国領)の小さな町にユダヤ人として生まれ、ボリシェヴィキとして赤軍で活動した後、ソ連の秘密警察の在西欧ソヴィエト諜報機関長を勤めた体制内部の人だったが、スターリンの大テロルを目の当たりにして――自身の周囲に何人もの犠牲者が出ただけでなく、自分自身にも危険が迫っていた――、スターリン独裁下のソヴィエトの体制に深く根本的な疑念を抱くに至り、1937年10月、パリに亡命し、その後海を渡って米国に移り住んだ。
1939年11月に、ニューヨーク及びロンドンで出版された本(英語訳)――Walter G. Krivitsky, In Stalin’s Secret Service, Harper & Brothers, New York,1939――の日本語訳が、本書に当たる。
ソヴィエト内部の人間としての体験し見聞した、悲惨で残酷なソ連の状況を、国際社会に向けて紹介(告発)するために書かれた本である。
なお、この本の出版から二年もたたない1941年2月、ワシントンのホテルの一室で死体として発見された。拳銃で至近距離から撃ったと思われる弾痕がこめかみにあった。自分で撃ったのか、誰かに撃たれたのかは、いまだに謎のようである。

本書の最後の方で、著者は、「わたしの経験は、一人の忠実なソヴィエト公務員が、一夜にして、銃撃に適した場所ならばところかまわず殺される、国家の犠牲に変貌した個人記録なのである。ソ連では、何千人もの人が、今日は英雄として栄誉を与えられ、明日は裏切者として告発されるということは、よくあることなのだ。」(p.158)と書いている。
国家の未来を信じて真面目に働いた者たちが最後に思い知ったのは、その国家とは、「銃撃に適した場所ならばところかまわず殺される」、そんな国家であったという冷厳な事実であった。
クリヴィツキーは、何とかソ連国外に脱出し、世界に向けて、そんな国家の不合理な現実を告発した。本書の終盤で、それまでスターリンの忠実な僕として真面目に勤務し、国家からの評価も得ていた著者が、一転、日々激しくなる大粛清(テロル)の嵐の中で、スターリンの国家から付け狙われ命を奪われる危険に直面するに至り、スターリンの国家から訣別することを決心するプロセスが描かれる。
クリヴィツキーは、亡命の目的地パリに向かう列車の車室で、「そのほとんど全部が逮捕されたり、射殺されたり、強制収容所に送られたりしたわたしの同僚たち、同志たち、友人たちの運命に思いをめぐらしていた。かれらは、その全生活を、よりよい世界を建設するためにささげ、そして敵の弾によってではなく、スターリンが欲したために、部署についたまま死んで行った。」(p.3)と、感慨に耽る。
あのスターリンの大テロルのさ中にも、当然であるとはいえ、ソ連国内に、自国が行っている蛮行に疑念を抱くだけでなく、その事実を告発しようとする多数の人々がいた。本書の著者自身がその一人なのであるが、著者の友人イグナス・ライスについての記述は印象深い。
ライスもクリヴィツキーと同様ソ連国外の秘密警察で働いていたが、1937年6月11日、ソ連赤軍最大の軍事的功労者トハチェフスキー将軍を含む八名の処刑が報じられた後、辞任の手紙を書いた。その一部が本書に引用されている――「・・・その時、わたしは、沈黙を守った。わたしは、その後いく多の殺人に、抗議の声をあげなかった。したがって、わたしには、大きな責任がある。わたしの罪は重い。だが、わたしは、その償いをするよう、そして、わたしの良心を和らげるよう試みるつもりだ。(改行)今まで、わたしは、諸君に従ってきた。今からは、一歩も従わぬ。われわれの道は、この時になっても、沈黙を守るものは、スターリンの共犯者、労働者階級と社会主義の大義にたいする裏切者となるのだ。」(pp.164-165)。
9月になって、頭に五発、身体に七発の銃弾を撃ち込まれたライスの死体が発見された。

クリヴィツキーは、ライス暗殺に加担するよう、当局から再三にわたり圧力を受けた。これを拒否し続けたことで彼の立場は悪化し、亡命の決断につながっていく。

スターリンの大テロル自体はその後鎮静化して行き、文字通りスターリンの右腕として「辣腕を揮った」エジョフの処刑とともに、大テロルの時代(エジョフシチーナ)は終息して行った。しかし、スターリン治世はその後も15年あまり続き、ソヴィエトの国家システムが崩壊するまでには50年以上の時日を要した。つまり、良心的な人々、まともな人々は、国家内部にも、体制内部にも、おそらく多数いたのだが、レーニンとスターリンが構築した国家の基盤、システムは、その種の声を容易に受け付けない程に、極めて強固・頑丈に作られていたのだ。

ロシア・ウクライナ戦争をひたすら継続している現在のロシア共和国という国家も、明らかにこの伝統、すなわち、極めて強固で頑丈な国家の基盤・システムの伝統を受け継いでいる。
ソ連が崩壊した後のロシアは、狭義の社会主義国、共産主義国とは言えないが、それにもかかわらずソ連の国家的伝統は消えていない。と言うより、21世紀のプーチンの時代になって、再興され、強化されている(プーチンは、ロシア革命とその担い手であったボリシェヴィキへの敵意を隠さず、当時の反革命者達へのシンパシーも公にしているが、その理由は、ソヴィエト連邦がロシア帝国の伝統における良き部分の一部を切断した、という観念にあるのだろう。)
そこから推測されるのは、現在のロシアの国内にも、ロシア・ウクライナ戦争の推進に疑念を抱く人は多数いるが、その声や意見が現実を動かす大きな力にはならない、ということである。
国外の人々をも、一人一人徹底的に調査した上で、着実に暗殺・殺戮することをモットーとするスターリンの方法・技法は、人々の中に、抜きがたい「恐怖」の(敢えて言うなら)「遺伝子」を刻み込んだのだ。

 本書は、

 まえがき
第一章 スターリンはヒトラーを宥和する
第一章   共産主義インターナショナルの最後
第二章   スターリンの内戦干渉
第三章   スターリン、ドル紙幣を偽造する
第四章   オゲペウ
第五章   なぜ、かれらは自白したか?
第六章   なぜ、スターリンは自分の将軍たちを銃殺したのか?
第七章   スターリンとの訣別

から成り、さらに、長大な「訳者解説」(pp.178-238)が付されている。
この「訳者解説」の中で、日本語訳第一版出版時(1962年)に出た、野々村一雄(当時一橋大学教授)による書評の紹介(p.188)が面白い。
訳者の根岸隆夫は、「各誌の書評は、わが国の進歩的文化人とか知識人とかいわれる人達がどんな心理状態だったか、どの程度のソ連史認識だったかを示して、甚だ興味深かった。」と、野々村を含む何人もの書評執筆者達のことを皮肉っている。
野々村は、本書が出た1939年当時、ソ連やロシア人への攻撃は、米国右派指導層の要求に合致した行為であったと述べた上で、著者のクリヴィツキーを米国の「犬」と激しく罵倒しているそうである。
根岸によれば、野々村によるこの「書評」は、一種の「信仰告白」である(p.189)。日本で、それから60年以上もたった現在においても、これと同じカテゴリーに含まれるイデオロギー的信仰が消滅してはいないのを見るのは、かなり衝撃的なことではある。ある種の知識人・ジャーナリスト・マスコミが相当頑張って来たおかげなのだろうか。

それはともかく、ある種の革命的なものへの志向性と関連する感性は、日本において、現在も根強く残存していると考えて良い。
本書を通じて私が最も興味を持ったのは、ロシアのチェーカー(本書ではチェカ)の系譜の秘密警察による、逮捕者を「自白」に導くシステマティックな方法や、「スターリン総合演出」に成る、総合的な演劇(芝居)としての「見せ物裁判」の特徴や本質を巡る議論、「偽情報」の特質――「当事者の視点からの偽情報の認識」――に関する議論などの話題が、数多くちりばめられている点であった。

例えば、「偽情報」を、真偽の対立の相の下に見ることは、我々の価値観に基づくと一面的な見方に過ぎないということが、理論としてではなく、当時のソ連の秘密警察に働く現場の人々にとっては、全くの前提、単なる常識に過ぎなかったということを、著者は述べている。

このアイディアは、当然見せ物裁判にもつながって来る。そこで戦わされ展開されるのは、真偽・正誤を巡る議論なのではなく、いわば「革命的情熱」を巡る一種の審判劇なのである。
はじめから脚本に書かれている通り、裁判に敗れ去り、銃殺され、あるいは運が良ければ強制収容所に移送され収監されることになる大部分の人々が、裁判を通じて演じなければならないのは、自身の死を賭けてでも守らなければならない革命の大義への殉教者としての役柄・役割なのであり、強制されたリハーサルをさえ通じて、犠牲者達は、その役柄を全うすることを、求められるのである。
真偽を基準とするスキーマをもってしては、この壮大で滑稽な、しかし限りなく真面目で真剣な猿芝居を理解・解釈することなど、到底出来る筈もない。

本書に限らず、例えばスターリンの各種の伝記を見ても、人々の弾圧・抑圧のための具体的な方法や技術・技法に関する記述が数多く含まれている。それらは、体系化された方法の組織的記述となっていないことが多いので、記述内容を改めて整理・分類することが求められるが、多くの本が、スターリンもしくはソ連の全体主義的弾圧の具体的方法の多量な記述を提供している。本書もまたその類の書物の中に含まれる。

なお昨年中公新書の一冊として出版された、保坂三四郎氏の『諜報国家ロシア』は、広狭含めたロシア型偽情報ないし偽情報戦に関わる情報、特に具体的なその方法や技法について、チェーカー以来の秘密警察の組織的特質との関係において、系統的に論述した本である。

こういう観点から見る時、特に興味をそそったのは、第四章(オゲペウ)、第五章(なぜ、かれらは自白したか?)、第六章(なぜ、スターリンは自分の将軍たちを銃殺したのか?)の三つの章であった。本書の記述は、基本的に時間順序に基づく著者の生活や経験を中心としているが、後半になると、秘密警察(この当時はOGPU――本書では「オゲペウ」と訳されている――)の特徴の他、見せ物裁判の方法、そして秘密警察が対象となった人々を自白に追い込む特有の方法が、特別にそれぞれの章を取って詳細に論述される。

 「システマティックな自白の方法」(捕まえた人をシステマティックに自白させる方法)に関する記述は、既に第四章の中に現れる。稀代の勉強家・知識人であったスターリン(このことは、断片的には、フレヴニュークの『スターリン』に描かれていたが、ジェフリー・ロバーツは、好著『スターリンの図書室』において、まさにスターリンの2万5千冊とも言われる蔵書(の一部)の森の中に踏み込み、偉大な読書人・研究家そして文筆家としてのスターリンの一面――おそらくは極めて重要な一面――の世界へと踏み込んでいる)は、アメリカのフォード方式のことをよく研究し、「自白のシステム化」にそれを応用しようとしていたらしい。しかしながら、なるほどソ連における「自白」のメカニズムが殆ど産業化されていたことは確かでありながら、それは、それに携わる従事者・作業員の負荷を減らしつつ全体を効率化するようなシステムとしては、成立していなかった。

 「オゲペウ」と題された第五章の最初の部分で、1926年1月、「当時ソヴィエト軍事諜報部第三課の中央ヨーロッパ班長」で会った著書が、容疑者としてはじめて秘密警察(当時OGPU:オゲペウ)と「知り合い」になった経緯が語られる。「紛失した印章を盗んだ」という容疑で、結局著者は難を逃れたのだが、故意の事件――「事件のでっち上げ」――と著者はみなしている。
著者によれば、この種のでっち上げはオゲペウの特徴であり、「犯罪調査と何らの関係もない目的で、この種の「尋問」を始めたうえは、記録のために、犠牲者を見つける」(p.93)のが、オゲペウの最も恐ろしい特徴だと言う。「最高支配者が、異った意見のあらゆる表現を、直接の脅威とみなす国にあっては、秘密警察が、ほとんど、支配者自身の支配者になる。」(pp.93-94)

オゲペウは、1917年12月、レーニンがジェルジンスキーに、反革命・投機・怠業を取り締まる非常委員会の設置を持ちかけたことに始まり、チェカと呼ばれ、1918年には、テロと大量処刑の道具に発展した。
こうした展開の由来が最終的にレーニンにあることは確かだが、それによく答えたジェルジンスキーの情熱や使命の果たす役割も特筆すべきものだったのだろう。著者によれば、ジェルジンスキーは、「ソヴィエト政権を、その階級的から救う道は他にないと確信する、残酷だが全く清廉な革命家」(p.94)と形容し、また、チェカは、革命への狂熱的な情勢のみにより支えられていたとも述べる。やがて、テロルが目的自体となる、ソヴィエト国家の屋台骨がチェカに始まる秘密警察であった。

容疑者を自白に追い込む取り調べの方法に関しての説明と考察は、既にこの章から始まっている。それは、20時間から40時間にもわたるぶっつづけの作業になったので、取り調べる側にとっても非常な重労働で、取調室の「家具のなかで、いちばん大切なものは、寝椅子」(p.95)であった。また取調官は何でも屋で、囚人の尋問から処刑(自分で決めた死刑執行)まで、何でもこなさなければならなかった。自白に導く取り調べがいわば産業化されていたのは確かだが、どの程度システム化されていたかは、謎である。

人を捕まえるためには、どんな手も使われた。
このような笑い話が著者によって紹介される――大テロルの初期に活躍したヤゴダは、後任としてスターリンに白羽の矢を立てられたあのエジェフによって逮捕され、銃殺されるのだが(勿論エジェフも後に、「やり過ぎた」とスターリンに非難されて、銃殺される。あれだけの人数の人々を機械的・組織的に殺し続けたエジェフの、自分の死を前にしての醜態の描写は、いろいろな本に出ている。滑稽、悲しさ、疑問―いろいろな感情を引き起こす。本当の実状は、見たこともないので、分からないが)、そのエジェフがヤゴダを逮捕する時、ヤゴダが1907年に、ロシア帝国の秘密警察オフラナで働いていた話が持ち出された。その時ヤゴダはまだ十歳の子供だった。

エジェフがスターリンの下で展開した1937年から1938年にかけてのこの大テロルが、チェカの伝統にとって一つの山場であったが、自ら経験したこの時代の雰囲気を、「ソヴィエト政府は、巨大な狂人病院になりはてた。」/「誰もが、他の誰かを裏切者として暴露することによって、反証を立てぬ限り、裏切者なのだった。」(p.99)等と、描写している。

自白を巡る非常に興味深く、瞠目すべき記述があるので、少し長いが引用する(下線は筆者によるもの)――「わたしは、スターリンの粛清が開始されたとき、オゲペウでは、罪の概念そのものが、消え去ったのだというわたしの確信を、読者に証明したいのである。ある人間の逮捕理由は、彼が起訴された罪名とは何の関係もなかった。誰も逮捕理由をあてにしなかった。誰もそれを尋ねはしなかった。真実は、まったく見当ちがいのものとなった。わたしがソヴィエト政府が一大狂人病院になったというとき、わたしはそれを文字通りに意味しているのである。わたしがアメリカ人に、実際に起ったこのようなばかげたこと――それで一巻の書物をみたせるほどだ――をいくつか話すと、かれらは笑う。しかし、われわれにとっては、笑いごとではなかったのだ。諸君の生涯の友人たちや同志たちが、夜、忽然と消え、諸君のまわりで死んでゆくとき、それは面白いことではないのだ。どうか、わたしが、あの巨大な狂人病院の在院者だったことを忘れないでいただきたい……」(p.104)
また次のようにも言っている(下線筆者)――「外国では、ひとびとは、オゲペウがひきだした自白が、真実かどうかと議論している。オゲペウの内部社会では疑問はほとんどおこらなかった。調査が何についてかは、問題なのではないのだ。」(p.105)

「見せ物裁判」は、自白を巡る一つの壮大な芝居であり、それはまさに「芝居の方法」、演劇の方法に支えられていた。見せ物裁判についての豊富な記述は寧ろ次の第六章にあるが、ここで言及しておきたい。モスクワで行われた第一次見せ物裁判においては、登場人物と主役が決められ、事前にリハーサルまで行われていた。主役は、ジノヴィエフとカーメネフの二人で、古くからのスターリンの同僚であった。

また見せ物裁判の「本質」について、著者は次のように語る――「西欧世界は、ソヴィエトの見せ物裁判が裁判とは縁もゆかりもなく、政治闘争の武器以外の何ものでもなかったということを、一部も十分に理解しなかった。スターリンの登頂以降、ソヴィエトの内輪の世界では誰一人として、劇的な自白をきかせる見せ物裁判を、政治的策略以外の何かであるとみなしてはいなかったし、司法行政と何らかの関係があるものとも考えなかった。ボリシェヴィキ党が危機に直面するときには、必ずいけにえを束にして見せ物裁判にかけて、国民に捧げた。これらの裁判は、もはや正義にも、慈悲にも何のゆかりもなかった。」(p.122)

これらの記述を通して、自白へ誘導する取り調べや見せ物裁判は、真偽や正誤を巡る事態なのではない、ということが、少なくとも体制の内部では当然の前提として認識されていた、ということが分かる。

これは、遠い過去の思い出ではなく、現在のロシアの――さらにそれに影響を受けたその他の国々の――偽情報やナラティブ(物語)情報に接する時、我々が留意しなければならない、最も重要な「本質」である。この意味で、偽情報・ナラティブ情報は、歴史的基盤を持つ一つの伝統なのである。

さて第五章の最後の方に、秘密警察による、何でもあり、真偽・正誤無関係の自白誘導技法を土台とした、一つの頂点としての大テロルの犠牲者の、恐ろしい内訳リストが掲げられている。
それによれば、「千九三四年に創設された軍事ソヴィエト評議会の八〇名のほとんど全員、スターリン自身の中央委員会と統制委員会の構成員の大多数、ソヴィエト中央執行委員会、人民委員会議、労働・国防評議会、共産主義インターナショナルの指導者たちの多く、オゲペウの責任者および副責任者の全部、大使や外交官多数、ソ連の地方自治共和国の幹部たち、将校団に属する三五、〇〇〇名、プラウダとイスヴェスチャのほとんどすべての編集者、作家、音楽家、劇場支配人の多数、さらには、スターリンの最大の忠誠が期待されていた世代の精華、青年共産同盟の指導者の大部分が、エジェフの犠牲者の部分的名簿に含まれていた。」(p.116)

この引用の最後に記されるように、これはあくまで「部分的名簿」である。しかし著者によれば、最も恐ろしいものは、スターリンが行った膨大な数の子供たちに対する粛清であった。これらの子供たちが、最も悲惨な犠牲者であった。
1932年から1933年にかけての強制移住や大飢饉と飢餓――ウクライナにおける飢餓を我々は今ホロドモールという言葉で認識している――の結果、親や家を失った浮浪児が増大し、犯罪や病気が恐るべき勢いで増加して行った。
これに対してスターリンは、彼らの再教育や更生ではない、極めて残酷な方法で対応した。すなわち、1935年4月8日、「未成年者間の犯罪と闘う措置」という法令を出し、ごく軽微な犯罪から叛逆罪に至るまで、12歳以下の子供に、死刑の適用を拡大した。この指令に基づいて、秘密警察は、何十万人の子供を処刑し、強制収容所送りにし、あるいは集団労働に就かせた。
そして、スターリンが、「カメラの前で、ロシアの子供たちの名付親としてポーズをとりはじめたのは、まさにこの恐怖が起きているときなのだった。」(p.117) 著者はそのことを指摘している。

第六章には、「なぜ、かれらは自白したか?」という、単刀直入のタイトルが付けられているが、上の記述から分かるように、ソ連秘密警察の「自白誘導システム」の伝統については、既に第五章から多くの記述がある。ここでは初めに、スターリンが1937年に大テロルを開始するに至るまでのプロセスや、その目的意識についての論述を、短く紹介する。その後、「自白誘導システム」についても長い解説を紹介する。

本書によれば、レーニンは、ボリシェヴィキ党員への死刑適用を禁忌とし、これは15年間守られた。しかしスターリンは、1931年に、この禁忌・禁止を破る動きに出始めた。
この時代、「無数の農民大衆だけにとどまらず、その最良の将軍たちを含む軍隊の大部分、政治委員の大多数、工場長の九割、党機関の九割が、程度の差こそあれ、スターリンの独裁に激しく反対していた」(p.121) 
しかし、著者に言わせれば、「この時期に、指導者と綱領が与えられていたならば、かれらは、スターリンを打倒できたのだ。このような指導者は、ボリシェヴィキ古参親衛隊、つまりレーニンの同僚たちのなか以外にはいなかったが、スターリンは、かれらを降伏させ、「自分たちの誤謬を自白」させ、かれを「誤りなき指導者」と認めさせることによって、何年間もの間にわたって完全に叩きつぶしていた。」(p.119)

一つの事件がスターリンに影響を与え、そしてもう一つの事件がスターリンを決定的に転換させた。
前者は、1934年6月30日夜に起こったヒトラーによる血の粛清事件であり、後者は、1934年12月1日の、セルゲイ・キーロフ暗殺事件である。
著者によれば、ボリシェヴィキへの死刑適用への反対者としてのキーロフの死は、大テロルへの門扉を開くものであり、スターリンの生涯の「転換点」になったものであった。
前者との関連では、スターリンの目的は、ヒトラーとは違って、表面的・直接的な反対者を叩き潰すことではなく、「権力の座から自分を除く可能性のある運動のあらゆる潜在的指導者を全部、倒すことだった。」(p.122) 

ここで、「潜在的」という言葉が、恐ろしい意味を持っているのだろう。これは、「実際に起こっていない」罪状によって、人を捕まえることができる、ということを意味している。従って、誰でも捕まえることができる。当然、この場合、何か「起こったこと」に対する真偽や正誤など、全く無意味になるだろう。「何も起こっていない」のだから。スターリンとその直系の秘密警察が、「起こるかも知れない」と、決定した罪状こそが、自動的に自白内容となるのだ。その人自身の意思や意見など、全く関係ない。すべてを見通しているのは、窮極の独裁者としての、スターリンただ一人なのだから。

ここで、「自白」の問題が、再び前面に出て来る。
著者が何度も繰り返し述べるのは、西欧人にとって、ソ連における自白は大いなる謎であったが、著者らのように、スターリン組織の体制内部の人間にとっては、自白は何ら謎ではなかった、ということであるが、何度も聞かされているうち、その意味が、読者にも徐々に伝わって来る。
自白させられる方の人々は、「結局、それが自分たちに残された唯一の党と革命への奉仕だという確信にもとづいて自白をしたのだ。」(p.123) 
そのような使命感という抽象的レベルにおける理由に支えられた上で、秘密警察の取調官の巧みな手中に陥った時、何が起こるのか想像してみれば、自白は、もはや何ら謎ではない。

第六章では、「古参ボリシェヴィキが嘘の自白をする」上での、「性格的要素」として、四つの事柄が説明される。

第一の重要要素は、肉体的・精神的拷問の苛烈さである。スターリンが考案したこの取り調べ方法は、「第三級」と呼ばれ、アメリカの最新の大量生産方式を模範とした、「流れ作業方式」とされ、尋問者を複数の段階を経て、最終結果にまで導いて行く方式だとされる。

第二の要素は、スターリンの「秘密文庫」に関連するとされるもので、著者が最も注目していると思われる要素である。
スターリンはいわば「活字の人」で、その読者量は並大抵のものではなかったし、数多くの論文類を執筆している。しかも私的な読書はいわば「公的な読書」以外の時間に為されたものである。
公的な読書の中には、日々の決済等に関わる文書や、法的な文書類の他、人々の行動や思想に関わる記録としての文書も含まれていた。この秘密文庫は、そのようなものに相当する。
つまり、スターリンの個人的なスパイ網を使って収集・記録された大量の情報であり、人々を尋問し、「自白」を引き出す際の最も強力な切り札となった。

第三の要素が、種々の「でっち上げ」である。単なる陰謀だけでなく、でっち上げの連鎖という手法も使われた。つまり、ある人から自白を引き出すために、本人も脅迫されている挑発者が監獄などに送り込まれ、証人や共犯者としての役割を演じた。こういう手法を使えば、嘘芝居の範囲はどんどん広がって行く。

第四に、囚人とスターリンとの間の取引さえあった。家族や友人に危害が及ぶのを回避するために、自白を行い、さらに他の重要人物を連座させることを条件にすることもあったという。

実際、スターリン時代を舞台とした小説や記録を読むと(例えば、グロスマンの『人生と運命』)、多くの人々が、スターリン本人に手紙を書いている。その内容は、時に、本人の釈明や助命嘆願であったり、家族や友人に塁が及ぶことのないようにすることを頼むものであったりする。人々は、取引について知っていたのだろう。ただ、実際の成功率がどの程度だったのか、その点について、私(評者)は知らない。

 第七章では、1937年6月、革命期ロシア最大の軍事的功労者にしてシャープな軍事理論家として著名なトゥハチェフスキーを含む、八名の赤軍高級将校らが秘密裁判にかけられた後処刑された事件が取り上げられる。

この内容はここでは省略するが、「逆情報」という概念についての説明があるので、紹介する。
それは、敵の士気を阻喪させるために広く流布する偽情報である。ドイツ参謀本部は、第一次世界大戦中、逆情報部の部局を設けていたという。
逆情報では、例えば、専門家達が、一見尤もらしい秘密の軍事情報や司令内容(の偽情報)を作成し、それをあたかも本物の文書であるかのように偽装して、敵の手に渡す。上記ドイツの例では、味方自身が、逆情報を、本物と信じて保持していたこともあるという。

もう一つこの章で興味深いのは、言うなれば「スターリンの精神構造の一特徴」に関する記述の部分である (pp.155-156)。ここで著者は、赤軍の古参将校の大量虐殺に至るスターリンの心の中を覗いている。
それによれば、「赤軍首脳部との古い意見の相違は、かれの記憶のなかでは、「反対」として留まっていた。この「反対」はオゲペウ機関の網にさらわれた時に、「陰謀」に化した。このような、いくつも「陰謀」は、スターリンが絶対権力によじ登るはしごの段なのである。この過程で、批判者は「敵」となり、まじめな反対者は「裏切者」となり、正直で熱烈な反対意見の総ては――オゲペウの専門的な手助けをかりて――「組織的陰謀」となった。自分の元の同志、同僚、革命家、ソヴィエト国家の創健者、建設者たちの死骸のうえを、スターリンは、ロシア人民を独り支配するために、一歩一歩のぼっていったのである。」
スターリンにおける段階的な世界の見方の変容が、その時代のソ連とロシアでは、世界そのものの変容に化し、人々はスターリンが見る世界という舞台における、目にも見得ないような、小人のような演者に、(スターリンの視角からは、)完全に化していたのである。
はじめから世界の構図は完全に決まっているのだから、嘘と誠の区別などは、意味を持たない。その舞台の世界が虚構的な狂人病院であると感じた数多くの人がいたが、虚構の中に生きる身として考えると、現実そのものの苦痛や悲しみが存在した。それらの存在は、決して虚構ではなかった。

第八章で、著者、スターリンとの訣別を決意し、決死の覚悟でまずフランスに逃亡する。逃亡に成功した著者は、さらに海を渡ってアメリカに行った。この短評の最初の部分に書いたように、本書はアメリカで書かれた。
こうして著者は、何度もスターリンからの逃亡に成功する。そして本書の最後の部分で、逃亡成功の一つのエピソードが紹介される。
1939年3月7日(本書の出版は同じ年の11月)、著者は、ニューヨークのあるレストランで食事中、旧知の秘密警察員に遭遇し、短い言葉を交わす。言うまでもなく、国外への逃亡後であっても、尾行され、追跡されていたのだ。この時、著者は秘密警察の追跡から逃れることが出来た。

そこで本書は終わっているが、最初に書いたように、著者は、それから二年もたたない1941年2月に、謎の死を迎える。

スターリンは、ある意味で、すべてのロシア人(ソ連人)のことを、心配していたのだ。海外に逃亡した人々の記録や、論文や著書も、きちんと収集し、調査し、読んでいたという。そしてロシア(ソ連)のためにならないと思った人々に白羽の矢を立て、着実に消して行った。
メキシコで暗殺した宿敵トロツキーの著書も、「スターリンの図書室」の中に、多数含まれていたという。そして明らかに、スターリンは革命家にして理論家、トロツキーを高く評価していた。
「暗殺してあげた」のかも知れない。

本書――それに加えて特にスターリンに関する様々な書物――を読んでいると、第二次ロシア・ウクライナ戦争勃発を契機に、ようやく日本でも真面目に注目されるようになったロシア的偽情報(そしてナラティブ・物語情報)の大きな伝統と蓄積を知るためには、スターリン(さらにはレーニン)や秘密警察に遡ることが近道であると、感じられて来る。そういう意味では、本書やその他の類書は、単に、既に過ぎ去った時代の歴史的記録ではない。

最後に今後の研究プログラムとの関連で述べれば、理論的な文献を渉猟すると共に、ある程度の量の書物を集め、偽情報やナラティブ情報に関連する記述を収集・記録し、これを整理・分類することを通じて、偽情報・ナラティブ情報の方法や技法の「体系」に近付ける道もあると考えられる。

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