見出し画像

北海道/北竜町及び札幌近郊で今はなき農村歌舞伎の痕跡を確認する小さな旅:2023年6月末。写真中心(その2:篠路歌舞伎①―札幌市北区・篠路コミュニティ―センター)

その1で書いたように、北竜町から妹背牛駅にタクシーで行き、そこから普通列車で旭川に行き、特急ライラックで札幌に戻った翌日、札幌市北区に集中する農村歌舞伎の痕跡を見るために、篠路コミュニティ―センター、新琴似プラザ、烈々布郷土資料館を訪れた。
この紹介は、学術的なものではなく、見たもののうち印象的なものを自ら写真に撮り(許可を得たもの)、それをストーリー化して並べたもので、対象に関するきちんとした調査は行っていない。いわばその前段階の準備作業である。出来るだけ勝手な想像は排した記述を心掛けるが、それでも誤りは含まれるであろう。読むに当たってはその点に注意してほしい。
なお、ここで(及び次の「その3」で)紹介する篠路歌舞伎については、次のような学術書が出ている。

高橋克依 (2009). 『篠路村烈々布素人芝居』. 響文社.

この本を通読したが、そこには、篠路農村歌舞伎発生の社会的背景、中心人物たる大沼三四郎(芸名、花岡義信)その他の人々の事績に関する詳細な説明等が出ている。本来、このような紹介文を書くに当たっては、この種の本に当たって紹介対象との突合せ等を行う必要があろうが、今回は純粋に私の主観的な小紀行記を書くことを目的とし、その種のことは敢えて行っていない。(本書については後日著書紹介記事を公表する予定である。)
また、札幌市北区では、「伝統文化育成プログラム促進事業」の中で、「北区の歌舞伎を後世に」というプロジェクトが行われているようであり、その中に様々な情報が公開されている。

北区の歌舞伎を後世に1(伝統文化育成プログラム促進事業)/札幌市北区 (city.sapporo.jp)
北区の歌舞伎を後世に2(伝統文化育成プログラム促進事業)/札幌市北区 (city.sapporo.jp)

私も今後それらの情報を探索しようと思っているが、今回は純粋に個人的な小紀行の紹介に撤した。

さて、まず札幌から札沼線に乗り、七つ目の篠路駅で降りて、篠路コミュニティ―センターに行った。2023年6月末のその日はあいにくの雨だったが、篠路の小さな駅に降り立った頃からますます激しい降りとなり、雷も鳴り始めた。地図を見ると駅から歩いて僅か五分程の距離であり、分かりにくい場所ではなかったが、土砂降りの中少し道に迷い、10分以上かかって篠路コミュニティ―センターに着いた。

篠路駅(札沼線は通称学園都市線と呼ばれている)
篠路コミュニティ―センターの建物

篠路コミュニティ―センターは、名前の通り資料館や博物館ではなく、地域の集会等に利用される施設であり、その一角に「篠路歌舞伎」と呼ばれている、かつての農村歌舞伎を偲ぶ痕跡の品々が保管されている。但し、後述するように、多くの土地の農村歌舞伎とは違って、その伝統は現在も「篠路子供歌舞伎」として継承されている。
一階ロビーの一角に農村歌舞伎のための展示jコーナーがあった。

篠路天然藍染の展示も行われている
藍染と篠路歌舞伎の説明パネル

篠路歌舞伎についてのより詳しい説明パネルがあり、「篠路村裂々布」、「大沼三四郎(芸名 花岡勝信)」といった重要な単語が現れる。このパネルから分かるように、篠路歌舞伎は明治35年から昭和9年まで続いたものである。明治35年は1902年、昭和9年は1934年であり、三十年以上の歴史を持つ農村歌舞伎である。

篠路歌舞伎の詳しい説明パネル

多くの展示物は、下の写真のようにガラスケースの中に収蔵されている。

多くの展示物はガラスケースの中に収蔵されている

上の額を拡大すると―

展示ケースと額縁

さらに拡大―

展示ケースの上の額縁

この正体は、『壇浦兜軍記』の阿古屋の文楽人形の顔であった。藍染は篠路のものではなく、徳島のものである。

制作者と説明

一方、壁に当時の写真が懸けられており、実際の歌舞伎上演の様子や役者等が記録されている。
下の写真から、この芝居が「共樂舘」と読める芝居小屋で行われていたことが分かる。『義経千本桜』の中の「すし屋」の場面(の大詰めの方)であろうか。またこの芝居は、上掲パネルに現れていた花岡勝信の引退興行の模様である。とすると昭和9(1934)年の写真であろうか。

花岡義信引退興行の舞台

舞台を客席側から見た写真も何枚かある。下の写真は、これと同じ日かどうかは分からないが、同じ花岡義信引退興行の時の写真である。本格的な芝居であったことが想像される。

客席側からの写真

引退興行時の、花岡義信(大沼三四郎)をはじめとする役者達の写真も残されている。

花岡義信引退興行時の役者達の記念写真

実際の舞台場面の写真はその他にもあり、当時の上演の様子を想像することが出来る。
花岡義信引退興行では、並木宗輔・竹田出雲・三好松洛作『義経千本桜』の他、近松半二・三好松洛ら作『本朝二十四孝』の上演されてようだ。その時の二人の役者の写真も残されている。

花岡引退興行における二人の役者―池田朝作と石橋松太郎

同じく『本朝二十四孝』の一場面。女形。

花岡引退興行における中西正次郎

同じく花岡引退興行における舞台写真。『御所五郎蔵』。

花岡引退興行の一場面

次も花岡引退興行から、平賀源内こと福内鬼外他作『神霊矢口渡』のクライマックスの場面。大沼三四郎(花岡義信)が娘に切りかかろうとしている。
それにしても、あまりに豪華な演目ではないか。

『神霊矢口渡』のクライマックス場面

次は別の舞台上演らしい。引退興行では女形を演じた中西正次郎の、「白波五人男」中の恐らくは名乗りの場か。弁天小僧菊之助の役か。舞台は、共樂舘ではなく、「烈々布倶楽部」と書かれている。後述する烈々布郷土資料館と同じ場所なのか?

烈々布倶楽部で「白波五人男」を演じる中西正次郎

次の写真は、写真から説明文が抜けており、不明である。

篠路歌舞伎の舞台の一場面と思われる

これらの写真を見ると、この篠路歌舞伎と呼ばれている農村歌舞伎が、相当に本格的なものであったことが推測される。正直、こんなものが日常的にやられているのを見られたのは、さぞかし楽しかったろうと思う。
晩年の大沼三四郎氏(花岡義信)の写真もある。カッコいい。

台本や写真に囲まれた大沼三四郎氏(花岡義信)1

もう一枚。これは現役時代のものか。

大沼三四郎氏(花岡義信)2

劇場の模型も展示されていた。この劇場は、上に出て来た「烈々布倶楽部」である。この翌日私は烈々布郷土資料館を訪れたが、今ある公民館を兼ねた建物とは別にあったものと推測される。
(なお、この篠路コミュニティーセンターに所蔵・展示されている資料類は、もともと烈々布郷土資料館にあった資料類であった。実際、烈々布郷土資料館には、上に紹介した舞台写真の幾つかのもののより大きな版が存在した。現在烈々布郷土資料館の運営を行っている中西氏から直接写真撮影と再公開の許可を得て、ここに紹介している次第である。)

篠路歌舞伎が行われていた烈々布倶楽部の模型

次は烈々布倶楽部の実際の写真である。

烈々布倶楽部

上演スタッフの写真も残っている。

篠路歌舞伎上演スタッフ

次の写真は歌舞伎関係かどうか明示されていないが、烈々布村の青年会の集合写真である。

烈々布村青年会の集合写真

さて、下のガラスケースに入った展示物の中で私にとって最も興味深いのは、各種台本であった。以下のように、「台詞帳」としてまとめられている。

篠路歌舞伎で使われた台詞帳1

同じものの写真その2.

篠路歌舞伎で使われた台詞帳2

ガラスが光ってよく見えませんでしたが、少し拡大してみました。舞台写真としての飾られていた、『御所五郎蔵』、『弁天小僧』(白波五人男)、『神霊矢口渡』等の台詞と思われる。

篠路歌舞伎で使われた台詞帳2

次の「烈々布青年会演劇部」による芝居のプログラムと思われるが、これは篠路歌舞伎とは異なるものなのか。上に青年会の人々の集合写真があるが、彼らによる上演かも知れない。演目は歌舞伎ではなく、プーシキンの『大尉の娘』等となっている。

「烈々布青年会演劇部」による上演プログラム

その他、何種類かの色紙が展示されていた。下の写真は、国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会に送られたものである。

国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会への色紙1

下も同じグループのものであろうか。

国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会への色紙2

同じく稚魚の会からの色紙である。

国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会への色紙3

同じく。

国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会への色紙4

もう一枚。上に道成寺と藤娘の絵が見える。

国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会への色紙5

さらに一枚。

国立劇場稚魚の会から篠路歌舞伎保存会への色紙6

以上から、大芝居を支える人々、いわば縁の下の力持ち達のネットワークが存在することが分かる。
猿之助事件等で、歌舞伎はもう終わりだとか興味もない人間がいろいろなことを言うが、歌舞伎は猿之助や團十郎だけに支えられているものではない。まず江戸時代以来の時間の蓄積と記憶、そして膨大な記録によって支えられており、且つ役者のみならず音楽や美術や舞台装置等を支える多くの人々と、そのネットワークによって支えられている。逆に言えば、現代の危機は、かつて全国規模で広がっていたその種のネットワークが衰退してしまっており、いわば裾野が狭まっていることである。
しかし努力も行われている。実際、札幌市北区では、次のような努力が続けられて来た。色紙の宛先となっている篠路歌舞伎保存会の位置付けはここには書かれていないが、恐らくこのような活動の一環であることが推測される。
なお、ここの記されている「新琴似歌舞伎」とは、篠路に近い新琴似で、白の歌舞伎とは別に行われて来た農村歌舞伎であり、その資料類は新琴似プラザに展示されており、私はこの篠路コミュニティーセンター訪問に続いて、新琴似プラザも訪問した。それについては、北海道/北竜町及び札幌近郊で今はなき農村歌舞伎の痕跡を確認する小さな旅―2023年6月末。写真中心―(その3:札幌市北区・新琴似プラザ)で報告・紹介する。

s歌舞伎の裾野拡大の努力―札幌市北区

歌舞伎の裾野を広げる作業の一環として、篠路では、篠路農村歌舞伎の伝統を子供歌舞伎に伝えようとしている。

篠路子供歌舞伎のポスター

『勧進帳』の舞台上演の記録写真も残っている。富樫、弁慶、四天王か。

篠路子供歌舞伎『勧進帳』の舞台上演

篠路と新琴似合同の子供歌舞伎も行われた。

篠路、新琴似合同の子供歌舞伎も舞台

篠路子供歌舞伎用の台本も展示されていた。『勧進帳』の冒頭の場面と思われる。

篠路子供歌舞伎の台本

その他の展示品の中で貴重なのは、実際の舞台や上演で使われた道具類である。下の写真は、篠路歌舞伎の引き幕である。

篠路歌舞伎の引き幕

暖簾や巨大なのぼりもある。花岡義信は播磨屋だったのだろうか?

引き幕、楽屋暖簾、のぼり

楽屋暖簾を持った写真も残っている。二人の人物は、役者中西正次郎の子息である。

篠路歌舞伎の楽屋暖簾

のぼりを拡大した写真。

篠路歌舞伎ののぼり

見学を終わって事務所に立ち寄ると、何種類かの資料類をいただくことが出来た。この篠路歌舞伎と次に報告する新琴似歌舞伎に関する記事を合わせた、表裏2ページの北区の農村歌舞伎ニューズレターが定期的に発行されている。

北区の農村歌舞伎ニューズレター第1号の表ページ

篠路コミュニティ―センターから出ると、雨は上がっていた。再び篠路の駅に戻り、そこから札幌方面の電車に乗って、三つ目の新琴似駅に向かった。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?