世間って何ぞや


はい、今回はタイトルの通り

世間について解説します。


日常的に使う言葉ですが、この世間を学問的に研究している世間学という学問があります。

日本で日本人として暮らす以上、世間については知っておくことが重要です。

というわけで世間とは何ぞやということをつらつら解説していきます。

かなり長くなりますが最後までお付き合いください。


「世間」って言葉は日常的に聞くし使う言葉ですね。

でもその意味って知ってますか?

辞書的には



自分と共に世界を作る一般の人々



って意味です。

日常では「世間体」「世間の目」とかいう言葉で使いますね。


何にしろ、恐らく「社会」という言葉とほぼ同義としてとらえてる人が多いんじゃないでしょうか。

でも厳密には世間と社会は全く別物だし、対極の存在と言っても過言ではありません。



というのもいくつか理由があります。まず言葉としての側面から。


「社会」という言葉は1877年ごろにSocietyという英語の訳語として生まれた言葉です。それまでの日本には「社会」を意味する言葉は存在していなかったということです。


一方「世間」という言葉は万葉集以前の時代から存在しています。そしてそれらの意味するところは基本的には現在と大きくは変わっておらず、「自分と共に世界を作る人々」というニュアンスです。



このように「世間」という言葉は僕たち日本人にとって非常に長い歴史のあるものです。故に僕たちはそれを当たり前のものとして認識していて、深く理解しようとしません。

なので世間について知っていくと、「いやそりゃそうだろ」ってなるものが非常に多いです。この「当たり前」を論理的に見ていくのが世間学です。



日本で日本人として生きていくのであれば、世間は知っておかなければいけないものと言えます。

まあムリヤリ押し付けようってわけじゃないので、感覚的には社会と同義でもいいんですけどね。



でも実態は社会と同義として捉えることは結構間違ってるんじゃないかと思います。

世間学において世間は

・日本人が集まった時に生じる力

・自分と利害関係にある人たちの中で生まれる環境

と定義しています。


そして世間を構成する要素は主に以下の5つとされています。


1.贈与・互酬の関係

2.長幼の序

3.共通の時間意識

4.神秘性・呪術性

5.排他的で差別的


ひとつずつ見ていきます。




まず1つ目の贈与・互酬の関係について。

これは「何かされたら何かを返さなければいけない」という考え方です。お中元とか年賀状とか、バレンタインデーに対するホワイトデーとかですね。

身に覚えのある方のいると思いますが、こうした贈り物をもらった時、それにお返しをする理由って何ですか?

「もらったから返さなきゃいけない」

とかそんな感じじゃないですか?こうした感覚は日本で暮らす日本人であれば共感できると思います。でも海外では不思議がられるみたいです。海外で暮らしたことないので実態は分かりませんが、そういう傾向があるみたいです。





そして2つ目の長幼の序について。

これは立場の上下関係みたいなものですね。日本においてはその人が何歳なのか、役職は何なのかといったことが重要視されます。名刺交換したらまず相手の役職を見ますね。

特に言葉からこういう傾向が見られます。


例えば日本語の一人称は僕・私・俺・我・朕・吾輩・己・小生など。二人称は君・お前・あなた・貴様・てめえ・うぬ・そなたなど。

現在でも使われているものは少ないけど言葉としては存在しています。これに対して英語ではどうでしょう。一人称は「I」二人称は「YOU」。以上。


同じ意味なのになぜでしょう。


この答えが世間の要素「長幼の序」です。日本で相手の立場によって使う言葉が変わります。相手が先輩や上司なら丁寧な言葉、部下や同僚、友人なら軽い言葉で接しますね。赤の他人でも、年上なら敬語とかの丁寧な言葉。子供ならタメ口。

こんな感じで、相手の立場や年齢によって使う言葉や対応の仕方が変わります。





そして3つ目の共通の時間意識。そのままの意味で、「同じ世間に生きる人はお互いに同じ時間を生きている」という意識です。

ビジネスの場面では「お世話になっております」「今後ともよろしくお願いいたします」とか言いますよね。これらは「現在同じ時間を過ごしている」「これからも同じ時間を生きる」という認識を得るためです。

もっと身近なものだと、二次会とか無駄な会議サビ残とかです。二次会に行かずに帰ろうものなら白い目で見られ、「この会議意味あります?」とか言えば干され、定時で上がれば「みんなやってるのになぜおまえは帰るんだ」とか言われる。

これは「あいつは自分たちと同じ時間を過ごしていない、過ごす気がない」とみなされるからです。一つ目の例で挙げたお歳暮とか年賀状もこうした背景がありますね。


これに付随して、「個人の不在」という考え方があります。「同調圧力」「集団主義」とも言えます。

世間には「個人」という概念が存在しません。何をするにも「みんなと一緒」という考えがあります。

「個人」という言葉が日本にやってきたのは1884年頃です。individualの訳語として入ってきました。

つまりこれ以前には「個人」を意味する言葉が存在していなかったということです。言葉が存在していなければ概念も存在していなかったと考えられます。個人ではなく集団が第一でした。


例えば学校の授業。授業中に手を挙げる人って滅多にいませんよね。みんなが「手を上げない」という行動をしている中で自分だけ違うことをすると好奇の目で見られる。

例えば会議。自分の意見があってもなかなか言えない。多数派と違う意見を言えば変わり者のレッテルを張られる。

など、個人単位での言動ができないのが世間です。同じ時間、同じ環境を壊すことはできない。だったら個人を殺して周りに合わせる。これが同調圧力の正体であり共通の時間意識です。





そして4つ目の神秘性・呪術性について。「よくわからないけど感覚的にこんな感じ」とでも言えますかね。

これは田舎に行くほど強くなります。占いとか迷信ジンクスしきたり言霊などがいい例ですね。論理的な根拠はないけど「そういうものだから」「ずっとそうやってきたから」というだけでそれが正義になります。

田舎というのは外界との関りが多くはありません。なのでその地域で一つの「世間」として存在します。こんな感じで田舎の方が強くなるんですね。


こうした特性が変容し、一般に「察しの文化」と呼ばれるようになりました。





で、最後に5つ目。排他的で差別的

日本人が一番恐れるのは

世間からはじかれること

です。


日本には個人が存在せず集団主義が根底にあります。そんな中で世間という集団からはじかれたらどうなるでしょう。色々ありますが、行きつく先は孤独です。

周囲と違う行動をとり、ルールやしきたり、伝統を汚した者はその世界から排除されたり攻撃されたりします。



有名人が何か不祥事を起こしたときの常套句。

「世間にご迷惑をおかけして∼」「世間をお騒がせして∼」とか。


いや迷惑かかってねぇし。騒いでねぇし。

ってなるでしょ?


これはその有名人にとっての世間が日本全体だからです。

世間とは「自分と共に世界を作る一般の人々」「自分と利害関係にある人々」という意味です。

芸能人でもスポーツ選手でも、不特定多数の人々に影響を与える以上は利害範囲は非常に大きいのでこうした言葉を使います。

世間に対して謝罪しないと復帰できないから。


日本史を勉強した人なら聞いたことがあると思いますが、「村八分」という言葉があります。村の中でルールを犯した人を仲間外れにするってやつです。現代語の「ハブる」はこの村八分が語源です。

これはルールを犯したことで村の中の平穏を侵害したとみなされて、不安因子を排除しようとするからです。

ちなみになぜ「八部」なのかというと、基本的には一切かかわることをやめて除け者にするわけですが、死者の埋葬と火事の消火の二つだけは協力するからです。死体をほっといたら病気が流行るし、火事をほっといたら燃え移るから。合理的でサバサバしてますね。




と、ここまで世間の要素として贈与・互酬の関係長幼の序共通の時間意識神秘性・呪術性差別的で排他的という5つについて解説しました。


しかし現代では世間は崩壊しつつあります。グローバル化の進展などにより、日本独特の世間がもつ影響力が弱ってきているからです。

サビ残が疑問視されてきたり、「とりあえず生」がなくなったり。要所要所でその片鱗が見られます。

このように崩壊して流動化している世間を我々日本人は「空気」と呼んでいます。


そして空気はその場で最も影響力のある存在が作ります。例えばテレビ番組の収録時であればMCなどの進行役が、会社等での会議であれば議長やファシリテーターが、学校のクラスであれば担任の先生かクラスのムードメーカー的キャラのひとがその場の空気を作ります。

誰かが空気を作らないとその場は混沌とします。そして空気が生まれたら他のメンバーはその空気を維持しようとします。いわゆる「空気を読む」ってやつです。これができないとその場は混乱し、空気を乱す人は「空気を読めていない」として排除されます。


先ほど解説した世間と同じですね。世間には明確なルールが、その世間が流動化した空気には変幻自在のルールがある。人々はそのルールに従うような行動をとり、それができないと場が乱れ、ルールに従わない人や空気を読めない人は排除される。

繰り返しですが、世間の構成要素として挙げた5つの要素のうちいくつかが機能しているものが空気です。



世間が流動化、崩壊している理由としてグローバル化がありますね。つまり海外では世間が存在していないということです。存在しているのは社会であり、個人の集合体です。

先程も挙げましたが言葉の面でも考えることができます。

日本に社会や個人という言葉が生まれたのは1800年代後半です。それもSocietyとIndividualの訳語としてです。つまり海外では社会や個人という概念が機能していたということです。


あまりいい例ではありませんが日本と海外の世間、社会の比較としていじめについて考えます。

日本のいじめは特定の一人を他の全員で無視したり叩いたりするような陰湿なものが多く、いじめられっ子には逃げ場や拠り所がありません。一方海外では特定の一人を特定の人が物理的に攻撃しますが、いじめられっ子には逃げ場となる友達などのよりどころがあります。


子供への教育でも考えられます。皆さんも一度は経験があるかもしれません。子供のころ何か悪さをしたときに家から締め出された経験ありませんか?僕は門限破ったり夕飯残したりして締め出されたことがあります。

これは家庭という世間、空気の中でルールを破ったとして、その集団から締め出すというものです。古来から日本では集団から締め出すことが最大の罰だと考えられてきたからです。

一方海外では逆に家に閉じ込めます。自分の家庭内の問題は自分の家庭内で解決し、子供の個人としての存在を認めているからです。広い社会に出す前に自分の子供を一人の個人として教育するために家に閉じ込めます。


他の比較として電車内での様子を取り上げます。

皆さんは電車に乗っています。すると杖をついた老人が乗車してきましたが席は空いていません。さあ席を譲りますか?

普通に考えればマナー的にも譲るでしょう。でも実際どうですか?目を背けたり寝たふりをしたり、他の人が譲るのを待ったりしませんか?

これも世間学的に考えられます。席を譲るのが合理的なのに、他の人がみんな座っているのに自分だけ席を譲ることで均衡を破ることになるからです。目立ちたくないからです。世間では個人が存在できないからです。もしくはその老人は自分と利害関係にある人ではないからです。日本人は周りの目を気にしすぎなのでここまで考えます。

これが外国人だったらスマートに席を譲るでしょう。他の人がどうだろうが人は人、自分は自分という考えだからです。個人が存在しているからです。



また別の例。同じく電車に乗っています。ふと網棚に誰かの忘れ物の荷物が置いてあります。どうしますか?パクりますか?駅員さんに届けますか?放置しますか?

恐らく放置でしょう。やっても届けるぐらいでまさかパクるなんてないですよね。日本人はマナーがいいから。。


違いますね。マナーいいかもしれませんが、これにおいてはマナーは関係ありません。網棚に忘れられた荷物は、自分にとっての世間ではないからです。関係のないものを自分の世界に入れたくないから。そしてその荷物に手を伸ばすことで浮きたくないから。目立ちたくないから。

これが海外だったら間違いなくパクられますね。持ち主のいない荷物なんてまさに「ご自由にどうぞ」状態です。他の乗客も他人の荷物がパクられようがどうだっていいので気にしません。



と、こんな感じで日本には世間が存在し、世間の中では個人の意思が働くことは許されず、世間が絶対です。海外では個人の集合体としての社会が存在し、人々は個人として存在することができます。


言い方を変えれば、日本人は皆すべからく「世間教」の信者と言えます。何をするにも個人の意思ではなく、世間という集団にの意思によって言動が変わります。


諸外国のほとんどには世間は存在していません。1200年代にキリスト教の中で年一回の告解が義務化されました。告解というのは神に自分の罪の許しを請うもので、自分を見つめなおすものです。つまり個人という概念が認められたということです。

キリスト教では個人という概念を確立するにあたって、集団や世間という概念は邪魔でした。キリスト教という一神教が誕生したことによって世間が消滅しました。

つまり諸外国は神を信仰し、日本は世間を信仰しているという対立構造として考えることができます。



しかし現代ではグローバル化の影響で、日本にも個人を尊重する風潮が現れてきました。こういう意味で世間が崩壊し、空気が台頭しているということです。

日本人にとって大切なのは、相手が自分とかかわりがあるかどうかということ、つまり同じ世間に存在するか否かということです。



ここまでが世間に関しての解説です。ざっくりまとめると、



世間とは日本人が集まった時に生じる概念のこと。

そして世間にはいくつかのルールがあり、僕たち日本人は無意識のうちにそのルールにのっとって生きている。

そのルールは合理性に欠けるものが大半であるが「そういうものだから」というだけの理由で従っている。

というのも、世間のルールを犯すと世間から疎外され孤独になるか、誹謗中傷やいじめなどの攻撃を受けることになるから。



といった感じでしょうか。なかなか理屈っぽくてアレなので僕個人的には三点だけ抑えてくれればいいと思います。

第一に、世間では周りと違った行動をとることは認められないということ。第二に、それゆえに個人としての存在は認められず集団主義だということ。第三に、近年は完全な世間が崩壊して空気が台頭しているということ。


以上です。もっと詳しく知りたい方は、

脚本家、演出家の鴻上尚史氏の『「空気」と「世間」』を読んでみてください。わかりやすく読みやすい本です。



それでは今回はこんなところで。

非常に理屈っぽくて長い内容でしたが最後まで読んでくださってありがとうございます。


他にもあと2本ほど記事を書いたので、そっちも読んでくれるとありがたいです。

では。

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