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精神障害者にとっての義手・義足ってどんなものか、パラリンピアンを見てふと考えた。

答えはまだ出ていないのですが、これを探していくことには意義があるような気がしています。

身体障害者にとっての義足や義手は、精神障害者にとっての何なんだろう、と、ふと考えたという話。あんまり思いつかないな、と。

きっかけはブレードジャンパー

つい先日、東京パラリンピックが多くの感動と快挙を残して閉会しました。

個人的に注目していた競技はいろいろあったんですが、特に記録に対して興味を持っていたのは、男子走り幅跳び。

ドイツ代表の「ブレードジャンパー」こと、マルクス・レーム選手は、片足が義足ながらも驚異的な跳躍をすることで有名で、なんと自己記録の 8.62m は東京五輪の金メダル記録を超えているとのこと。

さらに彼は、例外的にオリンピックへの出場を希望していると言っていて、画期的であると感じたのと同時にいろんな興味が湧いてきました。

この記録は義足のテクノロジーが生身の人間の進化スピードを凌駕したという証拠なのか。
ただ、走り幅跳びを構成している「走る」ことと「跳ぶ」ことの専門競技である短距離走や高跳びでは、こんなことは起きていない。
レーム選手の基礎身体能力と義足のテクノロジーと年々進化するであろう義足に自分の体をぴったりとシンクロさせて走って跳ぶという動作を完璧にこなす身体操作力が突出しているということではないか。
それはつまり、今この瞬間が義足や義手というある意味人間の形を模した、人間の肉体を超越しすぎない程度の機能を持ったテクノロジーを有したアスリートが、健常者アスリートと対等に競い合える稀有なときなのではないか。(この先は オリ<パラ となり当分逆転しないかもしれない)
だとしたら、やっぱりレーム選手にはオリにも出場してほしかった。

などなど。

さて、身体障害者にとっての義足、義手、車椅子などの、いわゆるギアが、そのテクノロジーの進化によってもはや特定のスポーツにおいては障害が障害でなくなりつつあるのはよくわかったのですが、

障害には他にも沢山あって、精神障害や知的障害に関しては、こういった、障害が障害でなくなるようなもの、あるいは、サービス、技術などなど、は何なのだろう?とふと思いました。

障害とはなにか

話は少し変わりますが、皆さんは「しょうがい」の表記を気にしたことはありますか?

障害者雇用の現場にいる人であれば誰しもが考えたことのあるテーマですが、うちの会社では「障害」で統一しています。

それは、社会モデルと呼ばれる考え方に基づいていて、障害は「何かが人よりも出来ないその人」にあるのではなく、「それによって生活に支障をきたしてしまうような障壁のある社会」に存在する、というものです。

電動車椅子メーカーのWHILLさんの記事が詳しいです。

この考え方に賛同しているため、うちの会社では「障害」という表記を採用し、得意不得意のばらつきが大きな人でも働きやすいような就業規則や仕事の仕組みを作り、運営しています。従業員の個性に合わせて働き方や業務内容をチューニングできる、ということです。

ただ、このような仕組みは、それなりの規模の企業グループの中の特例子会社という立ち位置であるからこそ実現できるものなのかも知れません。また、人員数が多くなると、機能しなくなるのかもしれません。

そんなことを考えていたときに、レーム選手の活躍を見てハッと閃きました。

そうだ、義足を作ればいいのだと。

精神障害者にとっての義手・義足とはどんなものか

先程紹介した「社会モデル」の対義語として、「個人モデル」という言葉があります。

障害は、普通の人には出来ることが普通に出来ない人にある、という考え方です。

△大阪府作成の社会モデル・個人モデルの説明△

社会モデルという考え方が出てくる前は、この個人モデルの考え方が主流で、障害を無くすためのアプローチもこれに基づいたものだったと思います。

例えば、足がない人が歩けるように義足をつける、手がない人が細かい作業を出来るように義手をつける、などです。つまり、健常者と同じ方法で目的を達成することに主観を置いたものです。障害者自身を変える、補助する、というアプローチとも言えます。

一方、社会モデルは、方法は違ってもいいから同じ目的を達成できるようにしよう、というアプローチです。例えば、階段の横にスロープをつける、エレベーターをつける、などです。先ほどと違って、障害者自身は何も変わっておらず、変わっているのは社会(環境)の方です。

一般的には、個人モデルよりも社会モデルの方が優れた考え方である、というのが昨今の潮流のように思えますが、今回、レーム選手の活躍を支えたのは、年々進化している義足、つまり、個人モデルでのアプローチが結実したものでした。

障害者を雇用する会社として出来る限りの環境は整えたと思っており、今後も従業員と対話しながらより良いものにしていこう、それこそが自分の使命であり、それよりも大切なことはない、とある意味盲目的になってしまっていたことに、今回の一件で気がつきました。

もしかしたら、精神障害者や知的障害者にも、"出来ない"を"出来る"に変えられるアプローチがあるのかも知れません。

まだ、現段階ではこれだというものは思いついていませんが、環境を整えるだけではない、障害者雇用の形を探していきたいと思います。

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