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大学ミスコンをなくしたい

1年前、このような記事を書きました。

当時は今と比べても視野が狭かったし、かなり感情的な書き方をしてしまいました。そこで今回は、大学ミスコン(ミスターコンを含む)がなぜ問題であるかについて改めて書いてみようと思います。

※最初に断っておきますが、私は、ミスコンに参加している個人ではなく、あくまでミスコンの構造や主催団体に問題がある、という立場です。当記事では主に、私が在籍する千葉大の名を冠するミスコンの話を交えつつ、その問題点を取り上げました。



ルッキズムの再生産

まずミスコンの問題点として近年強く言われているのが、ルッキズム(外見至上主義)を再生産している、という点です。

ミスコンのグランプリを決めるプロセス等を経て「こういう身体を目指すべき!」という基準のようなものが提示されると、我々はそれを内面化してしまいますし、それに合致しない人々はさまざまなところで不利益を被ることになります。また、うちの大学のミスコンではファイナリスト全員に同じような服装をさせているようなのですが、これも身体的な外見の差異を明らかにする慣習のひとつです。

うちは外見以外を重視して選考していますよ、と主張する団体もあるけれど、ファイナリストの選考基準が公開されていない以上、その真偽は分かりません。その上、グランプリの選定は一般投票で行われるため、その結果は外見という要因を排除したものであるとは言い難いです。

二元的ジェンダー・異性愛規範の拡散

大学ミスコンはもっぱらミスコン(女性)・ミスターコン(男性)の2部門で開催されます。そこでは人間の多様なジェンダーのあり方が無視される上、旧来的な「女らしさ」と「男らしさ」が再生産されます。

そういった意味で、上の記事のような試みは希望的なものといえます。しかし一方で、男女2部門制である限り、どうしたってノンバイナリー(ジェンダー・アイデンティティが男性・女性のいずれでもない人々)を透明化します。

また、うちの大学の参加者プロフィールには「ドキッとする異性の仕草」などという項目がいまだに存在するようですが、異性愛者でないすべての人々が存在しないかのような言い方であり、正直に言ってすごく遅れている表現であるといえます。

目的・コンセプトが不明

そもそも大学ミスコンは何のためにあるのでしょうか。記事の最初に取り上げた公式サイトのどこを見ても、その目的やコンセプトのようなものは明記されていません。加えて、大学で開催することや、大学の名前を使うことの理由や意味もよく分からない、というのが正直なところです。

「学生が頑張る姿を見られるのが良いんじゃないか!」という声もあるかもしれません。が、そんなものは「規範の祭典」ことミスコンである必要はありません。我々はこんなクソみたいなお祭りに乗っからなくたって努力できるし、それを発信することができます。

また、これはあくまで体感の話ですが、最近うちの大学ではミスコンの知名度と人気はかなり下火になっているような気がします(多分、みんなあんまり興味ない)。それは、ミスコンがもう学生の興味を引くものたりえないからではないでしょうか。

構造は変えられる

我々に必要なのは、既存の仕組みに便乗し傍観することではなく、自らの手で構造を作り変えたり、無くしたりしていくことです。
例えば、東京藝術大学ではミスコンの在り方が学生らの目線から問われてきた過去があり、それは「藝コレ」という自らのアウトプットをぶつけ合って競う形式へと変化しています。

おわりに

大学ミスコンに参加している人の中には「何が何でも芸能の世界に入りたい!」と思っている人がいるのかもしれません(ミスコンは芸能界に入るためのルートでもある)。そういう人が藁にもすがる思いで大学ミスコンに参加するのはしょうがないかな、とも思います。我々もまた構造の中にいるので。
でもミスコンに参加するなら、せめて問題的構造と再生産に加担している自覚をもって、できればそれを発信してほしい。ミスコン参加者はきっと、ミスコンの構造に疑問を持たない人々に向かって発信することができる。

というかそもそも、ミスコンは企業が運営しているものなので、おそらくカネになるんです。つまり、学生の「特別な経験をしたい」とか「自己表現をしてみたい」といった思いを利用することで利益を上げ、社会に不利益を与えているということです。ムカつきますね。

私は、自分の大学からミスコンを無くしたい。

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