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新義州に向かう音楽少女と人民軍兵士

深夜の訪問者

久々の非番で既に羽目を外しているその男は、ひどく酔っ払っていた。そう酒が強くない彼は、大同江麦酒を数本空けただけで顔が紅潮し、視線が定まらず、うつらうつらしていた。男は暇つぶしにとテレビを惰性で点けたものの、白頭山とその天池が視界に入った瞬間、舌打ちをしながら電源を消した。その日の放送が終わったのだ。仕方ないので不味いタバコ赤い星を一服して眠りにつこうとした時、ドアをノックする音が聞こえた。その瞬間、泥酔状態の彼はなんとか目を覚まそうとして水をがぶ飲みし、洗面所へ急ぎ蛇口を一気にひねる。回らない頭で突然の訪問者が誰なのか考えを巡らせていると、黄土色の水が洗面台に既に溜まっている。一瞬そこに顔を突っ込むことを躊躇したが、眠気と酔気の力を借りて、思い切り顔を振り下ろす。顔を洗面台から上げると、鉄臭さが鼻を突く。その臭気によって募る苛立ちを、夜分遅く訪ねてきた不逞な輩にぶつけてやろうとぶつくさ呟く。訪問者も一向に出ない部屋主に苛ついているのか、かなり大きめの音で、ガン、ガン、ガンと2回目のノックをする。男は拳銃白頭山を取り出し、わざと聞こえるようにマガジンを大げさに装填しスライドを引く。覗き穴に目を近づけると、見慣れた顔がそこに立っていた。

「驚かさないでくださいよ、”おじさんアジョシ”….こんな夜分遅くなんなんですか?もう寝ようとしたんですけど。」
 男は自分より遥か年上の部下である中士(軍曹)に、挨拶代わりに不満をぶつける。面相からも優しいことがわかる軍曹は、微笑みながら答える。
「すみません、”中尉同志”!お酒が苦手なあなたがまさか飲んでるとは思わなかったので、夜中に訪問しても大丈夫かなと思いまして。しかし随分なあいさつじゃないですか。装填の音が聞こえたときは、ドア越しに撃たれるんじゃないかと思いましたよ。」
皮肉たっぷりの中士に対し、男は鬱陶しさと申し訳なさを含ませながら答える。
「”中士同志”、それは・・・すまなかったな。で、用件はなんですか、おじさん。あと非番なんで、敬語はやめてくださいよ。」
「はいはい笑。非番ですまないんだけど、親父からの伝言を頂いてね。」
食い気味に男が聞く。
「仕事ですか?はぁ〜〜〜まじかよ、くそ・・・。おじさん、僕の代わりにやってくれます?」
「いや、親父から直々の依頼だから・・・久々の休みだから代わってあげたいんだけど。」
「くそ・・・それじゃあ僕がやるしかないじゃないですか。」
深くため息をつきながら、男は続ける。
「で、仕事内容はなんですか?わざわざ中尉を引っ張りだすんだから、それなりのことなんでしょう?」
「あー・・・まあ特殊な仕事だよ。ある意味、お前にぴったりの仕事だと思うよ。」
「もったいぶらないで早く言ってくださいよ!」
わかったわかったと言いたげな顔をして、同志おじさん中士は答える。
「実は研修で在日同胞の女の子が今平壌にいるんだけど、彼女が突然新義州に行きたいと騒いでるんだ。」
「それで?」
「話は最後まで聞いてくれ(笑)。行かせるつもりはなかったらしいんだが、引率が折れてね。ただ引率は他の子達も案内しないといけないから、彼女だけについていくわけにもいかない。それでお前が選ばれたわけだ。よかったなぁ、若い女の子と二人っきりだぞ!」
だるいと思いながらも親父直々の依頼だから断るわけにも行かない。肩をバンバンと嬉しそうに叩いてくるおじさん中士に呆れ顔で男は聞く。
「どうせ日本円とセブンスターでももらって買収されたんでしょうね。その女の子、かわいいんですか?」
おじさん中士はニヤッとしながら答えた。
「それは見てからのお楽しみだろ!」
「写真もないんですか・・・ったく。新義州まで電車で5時間くらいですよね?もしブサイクだったら拷問ですよ。」
「可愛い子だといいな(笑)。装備は下の車にあるから、そこで回収してくれ。」
「装備?なぜ?女の子一人引率するだけじゃないんですか?」
「有備無患(備えあれば憂いなし)。軍人が何も持たずに行くわけにはいかないだろ。」
「それは確かにそうですね。」
おじさんと一緒に男は、エレベーターを使って地上階に降りたところ、既に仲間が敬礼をしながら不動の姿勢で待っていた。年上に敬礼されるのが慣れない男は、やめてくれ、と言い彼らを休ませ車に向かう。車のトランクを開けると、そこには必要以上の武装が揃っていた。
「88式に・・・弾倉4個?手榴弾まで・・・手榴弾はやりすぎですよ。小銃だけ持っていきます。今から38線超えとかじゃないですよね?」
「そのままソウルに行くか?ソウル行ってみたいんだよなぁ。ま、これから逆の中国方面に行くんだけど。じゃあおじさんは帰るよ。」
男は弾倉を胸のポーチに入れ、小銃のボルトを少し上げ薬室に弾が入っていないか確認する。その時、あたり一面が真っ暗になった。また停電か、と心の中で男は呟き、車に乗り込んだ。

少女と指導員同志

停電で真っ暗になった街を、一両の車が大通りを爆走している。ガソリンが常に足りていないこの国は、首都の通りですら車を見かけることがあまりない。夜中だとなおさらだ。ターミナルに到着する前に少しでも寝たかった男は、速度を落とすよう運転手に話しかけた。
「運転手同志、ちょっと早すぎるから速度落としてくれ。あと停電で周囲が見えづらいから事故も起きやすい。気をつけてくれ。」
「申し訳ございません、中尉同志。」
過剰に怯えた運転手を見て、そこまで怖がらなくてもいいだろ、と言いたかったが、眠すぎて口を開けることすら面倒だったので、やめた。再び意識が遠くなったものの、いつの間にか平義線の出発地点である、平壌駅に着いてしまった。しかしなぜか車は平壌駅を通り過ぎたため、運転手に尋ねる。
「なあ、ここじゃないのか。」
「中尉同志、西平壌駅に行くよう命令を受けております。」
ああそう、と心の中で返事をした。バックミラーに映る運転手の顔は相変わらず緊張している。そこまで緊張されるとこちらも居心地が悪いので、なんとか場を緩めようとおもむろにバックパックから飴を取り出す。
「これ食べて。」
突然の餞別に運転手は狼狽し、片手で受け取っていいものか、まごついている。
「片手で受け取っていいから、ほら。後ろも向かなくていい。」
「は・・・ありがとうございます、中尉同志。」
「それ食べたら他の甘い物はもしかしたら食べられなくなるかもね。ああ、運転手同志、あなた子息はいる?もしいたら渡しておいて。何も言わず受け取って。」
運転手の掌にどさっと飴玉を置く。上官からもらった右手に溢れんばかりの飴玉を失礼にならないように、いかに”礼儀正しく”置こうか運転手は迷っていた。いちいち許可を口頭で出すのも面倒なので、運転手の宙に浮いた掌に置かれた、行き場を失った飴玉を再度つかみ取り、助手席に優しく放り投げた。運転手は気まずそうにしているだろうが、既に目を閉じているので、彼の様子はわからない。そうこうしている内に西平壌駅が近づいてきた。日が出始め夜が白み、停電で街に一切火が灯っていなくても、建物の輪郭が見えるようになってきた。早朝の通勤者がぽつぽつと駅舎に向かっていく。
「中尉同志、到着いたしました。ご武運を祈念しております。」
「大げさが過ぎるよ、運転手同志。子供に飴、渡しておいて。」
「了解しました、中尉同志。」
まったく、息苦しすぎておちおち眠れやしない、と心の中で悪態をつきながら88式を肩に背負い、車を降りた。電気が回復したのか、アパートの部屋がまばらに灯った。

駅舎に近づくと、お目当ての人間がどこにいるのかすぐに理解した。まだ日が出て間もないのに、人だかりが出来ている。遠くから様子を見ると、オールバックで後ろに髪を結わえた女性が姿勢良く立っており、新調したてのような純白のブラウスと紺色のスーツを身につけその上にカーディガンを羽織っている。そして両手には重そうな大きなスーツケースを、誰にも渡さんとばかりに握っている。早朝にも関わらずやたら埃っぽいこの通りで、悪目立ちするわけだ。おもむろに近づくと艶めかしいシャンプーの匂いまで漂ってくる。長らく嗅いだことがなかった”香り”のために、目元が自然とぴくついた。これじゃ人民に取って食われても文句は言えないな、と物騒な事を考えながら近づいていく。

小銃を持った重武装の軍人が近づいてくるのに気づいた人民たちは、ぎょっとしながら道を開ける。件の女性の隣に立つ、180cmはあるだろう浅黒い顔をした男も気づいたようで恭しく挨拶をした。長身の男を見つける事が殆どないこの国だが、つい女性にだけ目をやっていたため気が付かなかった。興味がなかっただけかもしれない。
「お待ちしておりました、中尉同志。指導員のキムと申します。」
キム指導員に一瞥すると、顔が緊張でこわばっている。同時に困惑さも見て取れる。なぜこんな子供が?とでも思っているのだろう。
「よろしく頼むよ、キム指導員同志。この子を新義州まで連れていけばいいんだな?」ぶっきらぼうに尋ねる。
「そうですが、私も同伴いたします。」
おじさんが言ってたことと違う。一人の女学生に引率が付くことが出来ないから、自分が呼ばれたのではないのか?
「ああ、そう。あなたが同伴するなら、じゃあなぜ私が必要なんだ?夜中に叩き起こされて、こんな重い装備まで持ってきたんだ。この女の子は、尉官を引っ張ってきてまで警護する必要のある要人なのか?それともあなたがそうなのか?納得できる説明をしてもらう。」
予想外の、そして予想以上に辛辣な回答が返ってきたため、キム指導員は慄いている。女子生徒もどうすればいいかわからず、顔を忙しなく左右に振って二人の顔をちらちらと見ている。
「いえ、私は、その、これは予定外の行動であるため、」
大事そうにセブンスターのカートンを抱え、支離滅裂な説明をするキム指導員を詰問する。
「大方、その女の子に外貨と今大事に抱えてる日本の、とても、美味しいタバコで買収されたんだろう。本来ならマスゲームの練習風景の見学を予定していたが、金とタバコに負けて、新義州行きを許した。違うか。」
中尉に気圧された女学生は、今にも泣き出しそうな顔をしながら懇願する。
「軍人同志殿、私、李成華と申します。ど・・・ど、どうしても新義州に行きたいのです。私の親戚がそこに・・・」
「成華同務、心配しないでください。大丈夫ですよ。私が新義州まで付いていきますので、ご安心ください。・・・ということでキム指導員同志、あなたはここに残ってもらおうか。」
過呼吸気味にわかりました、とキム指導員は答えその場をそそくさと離れた。

「赤子より大事そうにタバコを抱えてるなあいつ」
嘲笑混じりに言うと、成華はバツが悪そうに無言で顔をこちらに向けた。
重武装のために物々しい雰囲気を醸し出す自らの形を一瞬で払拭する案は、眠気と酔いは徐々に覚めてきたものの、まだ頭が働かないため、思いつかない。そのため出来るだけ紳士的に取り繕おうとした。
「荷物重いでしょう。私がお持ちしますよ。」
「ありがとうございます・・・そのなんとお呼びすればいいですか?」
「そうですね・・・中尉でいいですよ。」
「お名前は?」
「平凡な名前ですけど、明かせないのです」
「わかりました、中尉、同志。・・・あの、やっぱりオッパと呼んでもいいですか?」
初対面の、しかも軍人相手にオッパと呼ぶ彼女の馴れ馴れしさと蛮勇さは嫌いではなかったが、こちらの年齢が下だった場合そう呼ばれたくても、それは無理な話だ。本来聞くべきではないのだが、率直に中尉は尋ねた。
「あなた、年齢は?」
「19歳です」
「でしたら私があなたをヌナと呼ばなければなりませんね」
「えっ」
「じゃあ行きましょう」
少し気まずいやり取りの後、二人はプラットフォームへと向かった。

新義州へ

みすぼらしい、顔に埃かぶった人民たちを尻目に、プラットフォームへと進んでいく。可憐な女学生と、その顔と若さに似合わない重武装をした兵士という、アンバランスな組み合わせの二人を人々はジロジロ見つめるが、誰も面倒事に巻き込まれたくないのか距離を素早く取り、その場から離れていく。西平壌駅から平義線に乗るのは初めてで、中央ターミナル駅である平壌駅と比べて、より質素な作りだ。外見は見るに堪えるが、中に入ると鉄骨は剥き出しでバラックのような佇まいである。成華を常に視界に収めるよう横並びで歩くが、長らく嗅がず、すっかり忘れていた甘い匂いがいちいち鼻腔を叩いてくる。
「その香り、日本のシャンプーですよね。」
「あ、そうです。いい香りですよね。駄目でしたか?」
「駄目ではないけど、一人で出歩く時にそれは使わないほうがいいですよ。目を引く。」
「すいません。こうやって指導員先生の付添い無しに、個人行動を共和国でするのは初めてだったので・・・」
「じゃあ初めての自由行動ってわけですね。軍人の僕がいるから、完全に自由ってわけではないですが。」
「でも中尉同志は話しかけやすいので、気が楽です。若いからですかね。私より若いと言ってましたけど、おいくつなんですか?」
「成華同務とそう変わりないですよ。」
長らく女性と近い距離で話したことがなかったため、劣情がむくむくと湧いてくるがそれをなんとか抑えつつ、特別一等車両のプラットフォームに足を運ぶ。厚化粧をした女性車掌が二人を待っていた。
「お好きな席へどうぞ。」

特別車両の全座席には白いレースがかかっており、備え付きのテーブルにも白いクロスがかかっている。ミネラルウォーター、梨サイダー、スプライトとコーラ、その隣にみかんと林檎と飴が卓上に置かれていた。中尉は真っ先にコーラを手に取り飲み干し、みかんを一口で食べ、林檎を芯ごと貪る。そして自分が持ってる飴を消費したくがないために、あまり美味しくないがそれでも”甘さ”がある、オブラートに包まれた飴を数個取り、そのまま口の中に放り投げボリボリと咀嚼した。朝食も取らずそのまま任務についたため、これを朝食代わりにと思ったが、しまった。これじゃ人民丸出しじゃないか。豪快な飲み食いの一部始終をきっちり成華に見られた彼は、言い訳がましく言った。
「実は夜中に叩き起こされてそのままこちらに来たので、朝食をまだ摂っていないのですよ。お見苦しいところをお見せしました。」
成華はくすっと笑いながらこう言った。
「朝食まだでしたら、お弁当食べますか?」
「それは施しを受けるようでちょっと情けないですね。なにかもらってきますよ。」
すぐ隣にある食堂車に行き、サンドイッチでもと思ったが、出鼻をくじかれた。カウンター上には、「日本円、ユーロ、米ドル、兌換ウォンのみ」と書かれた案内が置かれている。
「まじかよ・・・。あの、普通のウォンじゃ駄目ですかね。」
販売員同志になんとか説得を試みる。販売員同志はニッコリと笑いながらきっぱりと答える。
「申し訳ございませんが、規則です。」
「ツケじゃ駄目?」
「規則ですので。」

中尉の落胆した顔をみた成華は、日本円を彼に差し出した。
「これでなにか買ってください。」
「夏目漱石が嫌いなんですよ。新渡戸稲造も諭吉も同様に。」
「え、わかるんですか日本円?とにかく私より若いんだから、なにか食べないと駄目ですよ。」
「新義州で何か食べますよ。心配なさらず。」
「いいえ、駄目です。だからお弁当食べましょうよ。」
(情けねぇ〜・・・中尉ともあろうものが女の子から飯たかってどうするんだよ・・・)
卓上から消えたコーラ、みかん、そして林檎と飴に気づいた女性車掌がにっこりとし、「祖国の味をどうぞ」と一言添え、自らの不甲斐なさに追い打ちをかけるかのように飲食物一式を卓上に置いた。
「コーラは祖国の味じゃないんですけどね」
情けなさを誤魔化そうと苦し紛れに皮肉を言うと、成華が思わず吹き出した。
「中尉同志って面白い方なんですね。」
(そんなこと言われたら好きになっちゃうよ・・・)
「そんなこと言われたの初めてですよ。ではお言葉をありがたくいただいてお弁当を・・」
成華は嬉しそうに、はいっ、と弁当を差し出す。
プラスチックの容器に、飯とおかずがギュウギュウ詰めになっている。左半分は雑穀米が溢れんばかりに、右半分には卵焼き、もやしとほうれん草のナムル、肉と菜の炒めもの、そして両サイドを覆うように大きな白身魚の開きが中央に乗っかっている。中尉は餌を前にした犬のような目をして一心不乱にありつこうとしたが、既に崩れかかかった威厳をなんとか保つために、一段落置いて、では、と成華から許しを得て、弁当をかきこみ始めた。
「美味しそうに食べますね。遠足に行くときにこのお弁当持たされるんですけど、みんな不味いって言って食べないんですよ。口が肥えちゃって。私は素朴でこの味好きなんですけどね。・・・(日本語でぼそっと)やっぱり共和国の人は貧しいからなのかな。」
「いや、僕の場合は今日朝飯食ってないし、後、この味は普通に美味しいと思います。日本食云々じゃなくて。貧しいのは実際そうだけど。」
流暢な日本語に切り替えた中尉の発言に、成華は目を丸くして言葉を失っていた。
「え、日本語?話せるんですか?」
「タバコを大事そうにしていたあのバカだって日本語は喋れるでしょう。あまり珍しいことじゃないと思いますよ。」
「バカって笑。いや、それでも、普通の日本人みたいに訛りも無くしゃべるから・・・」
「色々事情があるんですよ。」

かっこよく決めたつもりだったが、ご飯粒が口についてると成華に取ってもらったのなら、それはもう形なしである。ただこの一連のやらかしが、彼女の緊張感を解すのに大変役に立ってくれた。そこからの彼女は自分の身の回りのことを、何から何まで話してくれた。本人が所属している合唱部と舞踊部は四六時中髪をオールバックにしなければならないことに文句を言ったり、部活の先輩がやたら厳しくブランド物を身につけようものなら折檻されたり、その日の終りに行う”一日総括”が面倒だったり、毎朝人民保健体操をしなければいけなかったり、VIP待遇で出されたご飯を不味いと言って手も付けずに部屋に戻っていく学生が多いことに不満を言ったり、組織に進路を委託しろと言われてる等、訪朝中は普段言えないことを、堰を切ったようにまくしたてている。中尉がそれを興味深く聞いていると、一人の中年男性が特別車両に入ってきた。二人がいる座席から左斜上の車両一番奥に座った彼は、女性車掌から注意も受けず何事も無く過ごしていることに、中尉は訝しんだ。人差し指を口にあてる仕草をすると、成華はしまった、という顔をして黙り込んだ。
「あの、すいません。余計なこと喋りすぎました。私、率直すぎて問題児なんです。」
「正直なのはいいことですよ。ただそのことじゃない・・・ちょっとここで待っててください。」

ホルスターから拳銃を取り出し、弾は既に込められているものの、威嚇のために再装填を聞こえるように行う。薬室から溢れる弾を手で受け取り、ポケットに入れる。それを見た成華は青ざめたものの、中尉は彼女に大丈夫、と微笑みながら車両奥へと進んだ。
「こんにちは、同志。」
拳銃を見せびらかす軍人に話しかけられたことで、その男は憮然としている。
「こんにちは。何のようですか中尉同志。」
「なぜこの特別車両にいるのですか?我々しかここに入れないはずですよ。あと腕章も肩章も付けてないのによく中尉だと分かりましたね。」
「その拳銃でわかったのですよ。」
「確かにこの拳銃は尉官しか持っていない。だからといって私が中尉だとは分かるよしもないはずだが。・・・さて、ネズミ野郎保衛部が何の用だ。」
「なんのことですか。」
「とぼけるな。行動が甘いんだよ。潜在的第五列を監視しに来たか。」
「いや、何を言ってるのか・・・」
「ちょうど今、どうやら人民を通常車両に乗せる乗せないで揉めてるようでね。あんたが隠し持ってる棒か何かで、事態を収めてくれないかな。”保衛部同志”。」中尉は拳銃をチラチラと中年男性に見せびらかす。
「わかりました、今すぐ確認します。」
焦った”保衛部”の中年男性は、すぐに列車を降りた。少し経つと、外から彼の怒号が聞こえた。中尉が元いた席に戻ると、成華は心配そうな視線を向け、窓を開け外の様子を見た。列車に乗ろうとする人民達を、保衛部の男は警棒で殴りながら、喚き散らしていた。人民は殴られながらもなんとか一般車両に乗ろうと必死で、窓から体をねじ込み乗車を試みる人もいる。そんな中、はじき出された母親とその子供が、その保衛部の男にタコ殴りにされている。成華がショックで口を両手でおさえ、母子を指差すのを見るやいなや、中尉は車両から降り、拳銃を向けながら保衛部の男に近づく。
「お前がその母子を殺すのと、私がお前を殺すの、どっちが早いと思う?試してみようか。」
ギクッとした保衛部の男は両手を上げ、その場から後ずさっていく。

中尉が母子に近づくと、成華が窓越しに叫んだ。
「その人達を私達の車両に乗せてください!」
よろよろと立ち上がる母親と泣き叫ぶ子供を、中尉が特別車両に乗せると、成華が林檎とみかんを持って駆け寄った。子供に果物をあげ抱きしめ、母親に大丈夫ですか、と話しかける。その母親は涙を流しながら、ありがとうございますと何度も礼を繰り返した。成華は中尉に、母子をこの車両に居させてあげられないかと尋ねたが、中尉は断った。
「気持ちはわかるが、ここに居させるわけにはいかない。」
「なんでですか?私達以外誰も乗っていないじゃないですか!」
「スペースの話じゃない。もしこの母子が特別車両から降りるところを誰かに見られると、最悪の場合逮捕されるかもしれない。そうなったら生命の保証がない。自由主義的なあなたなら分かってくれるはずだ。私が一般車両に連れていきます。」
「・・・それなら私も行きます。」
なんてお転婆なんだ、とため息をつきながらも渋々中尉は承諾した。中尉は母親に肩を貸し、成華は皿に乗っている飴を子供が着るジャケットの内ポケットにザッと入れ、手をつなぎ一般車両へと向かった。一般車両に入ると、埃と汗垢とタバコが入り混じった強烈な匂いが車内に充満している。今まで嗅いだことのない異臭を浴びせられた成華は、思わず手で鼻と口を覆い、うっと後ろを向いてしまう。中尉は気にも留めず、座席に座っている比較的若い男性に金とタバコ一箱を渡し、母子を座らせてあげるよう頼んだところ、「軍人同志殿、喜んで!」と快諾してくれた。中尉はまだえずいている成華の肩に手を回し、特別車両へと戻っていった。電車が、ようやく動き出した。

(保衛部まで出てくるなんて、聞いてないぞ。親父は、わかっていたのか?帰ったら飯でも奢ってもらわないとな・・・)
中尉が考え事をしながら弁当を食べていると、成華が全く弁当に手をつけていないことに気づいた。
「食べないんですか?」
「食欲なくて・・・」
「あの臭いを嗅いだ後じゃ無理もないですよ。」
「それもあるんですけど、駅での光景が衝撃的すぎて・・・」
「それは申し訳なかったです。」
「いえ、あなたはあの母子を守ってくれた。」
中尉は照れ隠しのために、コーラを再び手に取りがぶがぶと飲み、大きくゲップをした。
「無理してでも胃には何か入れた方がいいですよ。」
「私、弁当いらないのであげます。あとこのバナナもあげます。」
「いやいやいや。成華さんが食べてくださいよ。」
「日本に戻ればいくらでも食べられるからいいんです。」
「なら、これから会う親戚にあげればいい。僕もあまり食べ物に不自由はしないから。」
「弁当にそんながっついておいて、説得力ないわよ!」
成華に笑みが少し戻った。二人共、いつの間にか敬語をやめて話していた。平壌を発ち6時間ほど過ぎた頃、列車は新義州に到着した。時刻は正午前だった。

再会と鴨緑江での会話

プラットフォームへ降りると、案内員が5名待機していた。中尉が敵意を孕んだ視線を彼らに向けると、女性指導員が怯えながら近寄り、中尉に報告した。
「中尉同志、お疲れさまです。電報が来てます。」
「見せてください。・・・なるほど。」
親父からの伝言である。書かれてる内容はこうだ。
「非番中の仕事、申し訳ない。新義州への出張旅行、楽しんで。ただ同日中の平壌行きの電車で帰ってこられたし。平壌駅に”おじさん”が待機している。以上。」
指導員の一人にライターを貸してもらい、その場で電報を燃やした。また指導員連中に成華の親戚がどこにいるかだけ聞き出し、後はついてこないよう厳命した。どうやら駅舎を出てすぐのところにいるそうだ。
「成華、君の親戚はすぐそこにいる。ただ今日中に帰らなきゃいけない。次の電車が午後5時発だから、それまでに用件は済ませられるかな。」
「うん、大丈夫。ありがとう。」
プラットフォームは外の道路と地続きだ。駅舎から出ると、女性が立っている。
「成華!」
「叔母さん!」
抱き合う二人の感動の再開を邪魔してはならないと思い、中尉はスーツケースを成華に預けて少し距離を置こうとしたが、腕を彼女に引っ張られ叔母さんに無理やり紹介させられた。叔母は”帰国”した後、散々酷い目にあったせいか、軍人である中尉を不信と軽蔑の眼差しで見つめた。中尉は軽くお辞儀をした。
「この人、人民軍隊の中尉さんで私の付添。すごいいい人なの。ちょっとどんくさいところもあるけど。」
なんて紹介をするんだ、とバッと成華の方に顔を向けると、叔母さんは中尉が日本語を理解するのに気づいたのか、表情を少し崩した。
「成華、人をすぐに信用しないほうがいい。しかも僕たちは初対面なわけだし。」
「あら、私からお弁当もらっておいて、しかも顔にお米粒つけてた人がかっこつけてどうするの。」
ぐうの音もでない。
「時間もないから、早く家に向かいましょう」
中尉は照れ隠しで叔母さんの方を向いてそう言った。関西弁で叔母さんが中尉に尋ねる。
「なんや、あんたも在日か?そんな若いのに帰国したわけでもないんやろ?」
「まあ色々事情がありまして。」
「もったいぶんといて、言うたらええやん」
「まあまあ・・・」
大阪のおばちゃんに気圧されつつも、スーツケースを引き親戚一家が住むアパートへと向かう。

アパート前の広場に到着すると、老人夫婦が日向ぼっこをしている。成華と叔母は住民に対し深くお辞儀をし、アパートへ皆を案内した。体育館倉庫のような臭いがするアパートの玄関の壁には、スローガンがかかっている。
”世界に羨むものはなにもない”。
「少なくともコーラとタバコが輸入できなくなったら羨むよなぁ」
中尉がぼそっと皮肉ると、成華の叔母は手を叩き爆笑した。
「ね、面白い人でしょ?」と成華が言った。
「いやー、あんた最高やわ!」
エレベーターのドアが開くと、中年女性が小さい椅子に座っていた。
「日本から来た親戚です。学生訪問団の一員として祖国訪問中です。」
叔母が成華を紹介する。ただその中年女性は重武装した軍人の冷たい視線に圧倒され、紹介を聞くどころではなさそうだ。

入り口の戸を開けると叔父が待っていた。叔母に無理やり押されながら部屋に入る。
「いや、外で待ちますよ。軍人がいたら気が気じゃないでしょう。」
「ええんや、あんたいい人そうやから。成華のこと守ってくれたんやろ?」
「守ったと言うほどでは・・・ではお言葉に甘えて。ただ別の部屋で待っていますよ。再会に茶々入れるほど野暮ではないので。」
「あらそうなん?じゃあ飲み物持ってくるから待っててな。」
ただ一つ気になった事があった。なぜ成華が平壌での予定を無理やり変えてまで、新義州にいるこの叔母さんに会いたかったのか。そして重いスーツケースに入ってる物は何なのか。
「ねえ」
成華は心を呼んだのか、中尉が話しかける前に話しかけてきた。
「私が渡したかったのは、これなの。」
それはSONYのCDウォークマンだった。そして何枚かのクラシック音楽のCD。なるほど、と言いながら中尉は再び人差し指を口に添える。
成華は事情を察したのか、何も言わず頷いた。
「叔母さん、ちょっと鴨緑江のほとりにでも行きませんか。成華も座りっぱなしだったんで、少し歩きながら話したほうが良いと思うんです。台所で話すにはちょっと狭すぎますし。」
中尉の発言の真意に気づいた叔母は、せやな、と深く頷きながら答えた。
腕時計を確認すると午後1時を指していた。残り4時間。再会の喜びを分かち合うには余りにも少ない時間だ。

川向こうに見える丹東市は車の通行が平壌より活発で、大規模な建設事業が進んでいる事が遠くからでも窺える。中国側から運行する遊覧船に乗る観光客がこちらに向けて手を振っている。
ここなら保衛部による盗聴の危険性はないだろうと思い、中尉が成華に尋ねる。
「あのウォークマンとCD、検閲は通ったの?」
「ううん、だから渡せるとは思わなかった。指導員先生に事前に聞いたんだけど、駄目だって言われて。そしたらあなたが彼を追い払っちゃって。ただ軍人ってもっと厳しそうだから、もう絶対渡せないと思ったんだけど。あなたは普通の共和国の人と違かったから。それで渡せるようになって・・・本当にありがとう。あと他には叔母さん夫婦の子供たち用の服、薬、キッチン道具、あと叔父さんのためのヴァイオリン。安いやつだけど、音楽家だった叔父さんにとってすごい大事なものなの。平壌に住んでた時ヴァイオリン奏者だったんだけど、今はもう・・・」
涙を溜めながら説明する成華に、中尉は深く聞こうとしなかった。
「ほら、叔母さんと子どもたち待ってるから、行ってあげな。あと3時間ちょっとしかない。」
次会えるのはいつになるかわからないから、と言いかけたが、やめた。

「さて」
中尉は、成華と叔母さんたちの会話が聞こえないところまで距離を取り、川べりに腰を掛けた。ふと目を横にやると、人民服を着たおじさんが川に向かって立ち小便をしている。
「ちょっと」
「あ、え、すいません!今すぐやめますので!」
「僕も混ぜてください。どうせなら一緒に。一度やってみたかったんですよ。」
「え!?何を!?一緒に小便するのが!?」
中尉はただくっくっと笑う。
重武装の軍人が何故か連れションを提案してきて、二人揃って川に向かって小便をするという謎過ぎるシチュエーションにおじさんは明らかに混乱している。恐怖以外の何物でもない。
「おじさん、邪魔してごめん。これお詫びにタバコ。」
おじさんは恐る恐るタバコをもらう。そして銘柄を見た瞬間、大喜びしていた。
「最後のセブンスターだったけど、まあいいか・・・」

帰路へ

すっかり泣きつかれた成華は、特別車両の四人がけの座席に横になり眠りについていた。叔母さん家族に全てお土産を渡したので、帰りは身軽だ。帰りの列車は行きとは違い、中国人観光客も同乗している。なにかこちらを見ながらゴソゴソと話し合っている。
「あのー・・・」
「はい。」
「一緒に写真撮ってくれますか?」
たどたどしい朝鮮語で尋ねてくる。
「すいません、それは駄目ですね。」
「じゃあそこの女の子とは?」
中尉が何も言わずホルスターに右手を添えると、彼らは後ずさりした。
車窓に目をやると既に夕日がとっぷりと沈んでいる。眠たいが、成華と一緒に寝てしまっては護衛の意味がない。平壌まであと数時間。なんとか我慢する。

平壌駅に到着すると駅舎は既に真っ暗で、物乞いだか列車を待つ乗客だかわからない人々がたむろしている。まだ眠そうな成華は瞼をこすっている。遠足は帰るまでが遠足だ。最後の最後に彼女に何かあってはならない。警戒しつつ漆黒の中を進むと、一つだけ煌々とライトが灯っている場所がある。
”おじさん中士”だ。
「おじさん!」
「おつかれ!新義州旅行はどうだった?」
おじさんはニヤニヤとしながら肘で中尉の横腹を突っつく。
「知らないおっさんと連れションしたのが一番楽しかったですね」
「おまえ、なんだそれ笑」
おじさんは大笑いしながら、88式を中尉から受け取る。成華を車に乗せると、行きに飴を渡した運転手同志が運転席にいた。
「運転手同志、飴は子供に渡した?」
「はい、中尉同志。とても喜んでおりました。」
「それはよかった。」
一行は成華が寝泊まりしている平壌ホテルに車を走らせた。

平壌ホテルに到着するとキム指導員と数人の学校側の引率教員が待っていた。
「やあキム指導員同志、お疲れ様。」
苦虫を噛んだような顔をしながら、何も言わず中尉に深々とお辞儀をする。
「セブンスターはうまいか?外貨で何か良いもの奥さんに買ってあげた?」
「どうかお許しください・・・」
「それは成華同務に言うんだな。あと先生方、成華のことお願いしますよ。いじめないでくださいね。もし彼女に何かあったらお分かりですね。」
引率教員達は恐怖のあまり、90度の姿勢を維持したまま中尉がいる間、顔をあげずにいた。

「成華、着いたよ。おつかれ。」
中尉は彼女をロビーのソファに座らせ、肩を優しく叩く。
顔を上げる成華。
真っ赤に腫れた瞼と目を中尉に向けながら、成華は紙切れをこっそりポケットに入れた。
「これ、私の日本の住所と電話番号・・・。連絡してね。」
「わかった、連絡するよ。」
「・・・また会えるよね?」
安易に答えたくなかったが、こういう時ぐらい、いいだろう。
「うん、きっとまた会えるよ。」
「・・・最後に、あなたの名前、教えてくれる?」
ふう、と息を吐き、彼は答える。
「僕の名前はーーー」


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