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『それでも僕はここで生きる』 #29 激夢

29.激夢

いそいそと過ぎ去る毎日に少し疲れた僕は久しぶりにマスターのバーに行った。
僕はカウンターに座っていつものように酒を飲んだ。その日はマスターがなかなか僕のところに顔を出さなかった。1時間ほど経過した時、マスターが僕のもとにやってきて、僕らは話し始めた。
「久しぶりだね、忙しかったの?」と、マスター。
「本格的に南を探し始めて、引っ越しをしたんです…」僕はこれまでの経緯を話した。
「なるほどねえ、大変そうだ。みつかりそうなの?」珍しくマスターが些か軽率な質問を飛ばしてくる。
「わかりません。ですが、かなり近づいていると思います。明確な指標があるわけではなく、感覚的はありますけど。まるで空で時間を測る時のように。かなりいい線を行く時もありますが、検討外れの数字になる時もありますから。」と僕。
「ほうほう。かなり曖昧だね。失われたものの捜索はやはり険しいね。人生をかけた行動は決して無駄にならないと思う。だけど、努力はときには簡単に裏切るから気をつけた方が良い」マスターは言った。
「努力はときには簡単に裏切る。なるほど、僕は確信を持って人生を努力してきたといえないです」と僕。
「これからすれば良いんだ、現に今、しているじゃないか」と、マスター。
かなり勇気づけられる言葉だ。僕は気づくとかなりの数のタバコを吸っていた。最近禁煙をしていたのだが。マスターと会話したことによる、ストレスからの急激な解放が無意識的に僕にそうさせたのかもしれない。僕はかなり酔いが回っていた。
店を出て、近くにホテルをとっていたのでそこに帰った。ホテルにつき、ベッドに横たわると、すぐに眠気に襲われ、そのまま眠ってしまった。
眠っている間、僕は短い夢を何個かみた。

僕は真っ暗な部屋にいた。そこには南と松下もいた。学生の頃の姿だ。ちょうど南がいなくなってしまった頃の姿のようだった。その暗い部屋は次第に電車の中からの風景を映し出し、僕らはいつの間にか電車の車内におり、座席に座っていた。
この光景は、南がいなくなった後、悲しみに暮れていた僕がみた景色と全く同じだった。車内からは、海が見えた。あの忌まわしき海だ。僕は発狂しそうだった。
そのとき、夢は変わった。

僕は一人でベッドの上にいた。どこかはわからないベッドの上だ。病院のようにも見える。僕は仰向けで天井を見ている。
その部屋に、僕が現れた。僕は自分の体を見た。僕の体は『広瀬南』の体だった。つまり、僕は彼女の視点から僕を見ているのだ。彼女は目を開いていないはずだが、僕が見える。夢なので、多少違和感はあるだろう。
 ここで夢は再び変わった。

 僕はまたベッドの上にいた。今度は薄暗い部屋だ。そこには再び僕が現れた。あの以前謎の女に連れられていったモーテルのバスルームから現れたのだ。僕は自らを鏡で見た。僕はあの女の体だった。つまり、あの女の視点から、自らを見ていたということだ。
 不思議な夢はここで途切れた。
 朝になり、起床しても僕はその夢を鮮明に覚えていた。
 南が僕に与えることのできる影響が強くなっているのか?確実にこの夢は僕のものではない。僕はまた新たな命題を背負ってしまった。

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