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自由民権資料館(東京都町田市・鶴川駅)

自由民権という名称を見ると、教科書で学んだ「自由民権運動」が必然的に頭に浮かんでくる。なぜ自由民権と町田が関係しているのか、なぜ自由民権資料館というミュージアムが町田にあるのか、よくわからないまま訪れてみると、意外と町田と自由民権運動には深い関わりのあることがわかってくる。

町田地域は幕末の時代には農兵隊という軍隊が組織されていた。つまり町田地域は古くから民間での運動が盛んな地域だったということが窺える。養蚕業が盛んだった原町田地域は多くの資産家も生まれ、県会議会が誕生するとそれら地元の有力者たちが議員となっている。ちなみに新選組と関わりのあった多摩の名主である富澤政恕も神奈川県会議員として名を連ねている。

町田を代表する民権家には石阪昌孝、村野常右衛門、青木正太郎、細野貴代四郎といった人物がいる。町田地域は神奈川県と東京都の境にあるため、民権運動も当初は神奈川と東京都に分かれていたものの、これらの人物が両地域を結びつけようと尽力したのだという。大日本帝国憲法が生まれるにあたって憲法草案も色々な人から出された。千葉卓三郎の提案した「五日市憲法」などはその中でも有名で、後年になりこちらは彼をサポートした福沢権八の福沢家土蔵から発見されたりしている。

入口のモニュメント

明治政府が主導する政治になり民間の参加が期待されたものの、一向にその傾向がない状況が続く中で、だったら自分達が動かなくては、ということで民間主導で動き始めた政治運動が自由民権運動で、町田でも多くの民権家が活動し、責善会や融貫社など数多くの結社が生まれたのだという。やがて自由民権運動から自由党が結成されるが、大阪事件など政府からの弾圧も苛烈だった。
自由党が解党されると、神奈川県苦楽部を組織し神奈川県通信所なども設けられるが、やがて内部分裂し自由党主流はリーダーの石阪昌孝と北多摩郡正義派の吉野泰三の対立など、死者も出る血生臭い事件も発生している。

彼らに関係する文学者として北村透谷の紹介もしている。透谷は石阪の娘と結婚して、文学から青年たちの思想に一石を投じたという。北村透谷が石阪の娘を想っていた記録もしっかりと残されている。なかなか恥ずかしい。「ラブの堅城、愈固く」と残しつつ、自分は彼女にふさわしいと思い悩んだり、一生中もっとも惨憺たる一週間を過ごしたという青春ど真ん中。これはこれで読み応えがある。本人は死んだ後にこんな日記が公開されるなんて夢にも思わなかったに違いない。有名税ですね。

入口は階段を上った高台にある

展示室は1フロアながらなかなか見応えがある。廊下の奥にある角を曲がると資料室があり、見学者は閲覧も自由である。トイレはウォシュレット式。もともと旧家の土地を利用したミュージアムというのもあって敷地内には旧家(養蚕業)で使用されていた繭の蔵なんかもあったりする。

繭の蔵


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