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容器文化ミュージアム(東京都品川区・大崎駅)

国内の容器メーカーではトップシェアを誇る東洋製罐。その本社ビルの1階にあるのが容器文化ミュージアムである。容器の歴史を辿るかたちで、実物の展示や製品を使ったクイズ形式などで学ぶこともできる。

https://package-museum.jp/

容器の歴史は人類の歴史とも重なる。集団で生活するようになり収穫したものが一度に食べきれなくなると保存や交換をしたことがきっかけである。木の葉や貝殻など自然にあるものを利用して容器にし、「入れる」だけではなく「運ぶ」ための容器としてそのうち土を焼いたり草を編んだりして工夫するようになる。

よく見ると「C」「A」「N」の形をしている

保存食として代表的な缶詰は19世紀にフランスのニコラ・アペールがその原理を考案した。ナポレオン率いるフランス政府から食料貯蔵法の公募を受けたアペールは、腐敗の原因が空気にあると考え、ガラス瓶に食料を詰めて密封し空気を抜くため煮沸して長期的な保存を可能にしたのである。のちに細菌学者のパスツールによって腐敗の原因が細菌だと判明されることになるけれども、この保存の際に加熱したことは結果的に正しかったといえるかもしれない。

アペールが発明した製造方法のBIN詰め

この後にイギリスのピーター・デュランドがブリキを使った缶詰を発明することになる。当初は缶詰を開ける時にはノミとハンマーが必要だったが、缶切りが発明されて以降、アメリカの南北戦争での軍用食料として使われたことも相まって缶詰が本格的に普及することになる。ちなみにビール瓶などの栓になっている王冠はイギリス人のウィリアム・ペインターが考案したことによる。

日本最古のCAN詰め

国内における缶詰は明治になってから。実業家の松田雅典がフランス人から缶詰の存在と作り方を教わり、長崎で魚の缶詰を始めたことによる。明治政府は北海道開拓のために現地で採れる鮭を缶詰にして輸出するようになり、次々に缶詰工場ができるようになった。やはり爆発的な流行は戦争によるもので、日清戦争、日露戦争で軍用食料として缶詰が多く作られるようになった。

これは…もしかして蟹工船?

東洋製罐高碕達之助が造った国内初の容器専門会社である。それまで手作業だった製造が機械化され戦争特需によって重工業が発展、近代国家へと変貌したのである。軍用食料だった缶詰が一般的に認知されるようになったのは関東大震災の時。各国からの救援物資の中に缶詰があったことで緊急食糧として認知され、主に輸出に使われていた缶詰が一般家庭に浸透することになっている。

食品だけじゃなくいろいろな用途に

敗戦を経て1960年代の高度経済成長の時期になると容器は缶詰メインからプラスチック容器が増えるようになる。レトルトパウチのボンカレーなどもこの頃。コンビニエンスストアーの発展もあってインスタント食品や缶入り飲料が生活に浸透、1980年代にはペットボトルが登場する。この辺りを契機にして環境への意識が表面化、包装容器の新たな課題はまだ山積みなのである。

容器の昔と今を比べたり

1フロアながら歴史パネルと実物展示などのほか、映像で説明があったりもするのでじっくり見ればそれなりに時間を費やすミュージアムである。トイレはなし。

打検体験で楽しもう


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