レベルゼロからの教育工学。教育界に迷い込んだ「やさしい」あなたのために。

あなたはなぜか教育業界に入ってきた。何も知らないあなたは、教育のハウツー本を読むこともあるだろう。ハウツー本には色々なことが書いてある。役に立つことは大変に多い。けど、ハウツー本はレベル1の人のために書かれてある。実は教育業界における無言の了解事項は記されてない。なので、ここではレベルゼロの教育ノウハウについて語ろうと思う。やさしくて子供好きで「素人」のあなたのために。


生徒の話を聞いてはいけない

「生徒の話を聞け」「カウンセリングマインドを持て」と教育本には書かれてある。けどあれは端的に言えば嘘だ。話を聞いていいのは、まともな人間だけである。わがままな生徒の話を聞いてはいけない。他人のことがわからない、周囲をみていない人間の要望は聞いてはいけない。判断力や思考力のない人間の話は聞いてはいけない。カウンセリングは基本的に大人のためのものだ。認知が自己中心的で、「客観」というものを持てない子供の話は聞いてはいけない。

虐待を受けた子、自閉傾向の子、多動の子。彼らの現実認知は、悲しいことに、壊れている。彼ら生徒の思いは、このクラスの王様になることや、幼児に退行することだったりする。あなたを奴隷のように使役することかもしれない。あなたの注目を集めたいだけの場合も多い。あなたが、彼に注目するとき、あなたは残りの生徒を放置していることがある。あなたが彼の要求を聞いていることが、彼の注目行動を加速させている可能性もある。授業中に彼のバカ話を聞いた結果、授業は行えなくなる。待たされた生徒は暴れ出す。まず話は聞かない。あくまでレベルゼロの話。もしあなたがレベル1になったら、個別指導の場面で、あなたのペースで、話を半分聞いてやろう。もちろんそれは彼の発達特性に応じてだ。


生徒を待ってはいけない

授業の課題や、ちょっとした場所の移動で、「遅い子」がいる。待ってはいけない。彼が10分遅れているとする。あなたは彼を待つ。できるまで待つ。それは美徳だが、やはり待ってはいけない。あなたが10分彼を待つとき、クラスの他の生徒も彼を待つことになる。他の生徒たちは待てない。10分待つと、必ず生徒は暴れ出すと考えたほうがいい。待てない生徒はたいてい多動であり、彼らが暴れると学級が崩壊する。100匹の群れから離れた1匹にあなたは気がかかるだろう。しかし教員は残り99匹の生徒のためにいる。授業や行動を進めよう。

しかしなぜ彼は遅れるのだろうか。発達の特性だろうか。それとも能力だろうか。もちろんその場合もある。だが「わざと遅れて、自分のペースで他人をコントロールしようとしている」という疑いは持ったほうがいい。彼にとって辛い学校を、彼は変えようとしているかもしれない。もちろんその学校とは彼が王様として君臨する学校である。ここまでがレベルゼロの話。
あなたがもしレベル1になったら、99匹の生徒を待てるように教育しよう。遅い子がなぜ遅いかを考えよう。発達特性なのか、能力的なものなのか、意欲なのか、家庭環境なのか、そもそも授業が悪いのか。

あなたは生徒の主人である

人間関係の類型は、主人、奴隷、友人、他人、家族だろう。友人になれるのは対等な関係性を持つ自立した個人同士だけである。生徒が自立した個人、大人とよべるものでなければ友人にはなれない。そしてもしかすると他人にさえもなれない。他人を他人として認められるのも大人にならないとわからない。生徒と家族関係になるのも難しい。なぜなら教員は30人以上の生徒を相手にするからだ。30人を家庭的に面倒をみるのは無理である。教師と生徒とは友人になれない。生徒とは他人同士になれない。生徒を我が子のように面倒を見ることはできない。ゆえに教師と生徒との関係は、主人か奴隷かになる。あなたは主人になりたいのか、奴隷になりたいのか、一度考えてみてほしい。虐待を受けた子には、認知が偏っている子には、人間関係が「主人か、奴隷か」でしか関係性を認識できていない。とても悲しいことだ。彼らは自分が主人になることを望んでいる。もちろん教師は奴隷である。あなたは奴隷になりたいか。

「主人になること」がレベルゼロの目標だ。それが達成できたら「よき主人」になることを考えよう。そして生徒を家族のように面倒がみられるようになろう。生徒が、あなたの友人になれるまで育てよう。他人であるための距離のとり方と礼儀を教えよう。


アクティブラーニングをしてはいけない

授業で話し合いを行う。自由に立ち歩いて意見を交換する。あまりにも高度な教育だ。無理だ。諦めよう。アクティブラーニングは相当な生徒指導力が試される学習だ。学級が崩壊しているのなら、やめたほうがいい。話し合いは、雑談にさえもならず、生徒たちはスマホを片手にダンスを始めるだろう。自由というのも難しい。自由度が高すぎると、生徒は見通しが持てず、なぜかガラスが割れる。そんなときにはクラシカルな授業こそが正しいやり方になる。

まず生徒を維持でも席に座らせる。座らないと立ち歩いた生徒は暴れ出し、なぜか教室が北斗の拳みたいになる。立ち歩きは厳禁だ。話すことも禁止だ。話し合いといっても彼らは授業に関係のない私語をし、しかも生徒をいじめるような発言まではじめる。そして話し合いで教室がうるさくなると指示が通らなくなる。座って黙らせるにはクラシカルな授業スタイルである「チョーク・アンド・トーク」が適している。

大量に黒板に文字を書き、生徒にノートを写させる。板書をノートを写す課題ならば、生徒は黙る。なぜなら人は書きながら話すことが困難だからだ。あれだけうるさかった生徒が板書を写し始めると急に静かになる。板書を書く課題の合格ライン(的確に板書を写す)は、目標と作業が明確だ。自由といわれると生徒は混乱するが、明確な目標では混乱が起きにくい。もちろん「チョーク・アンド・トーク」といった授業のやり方以外にも「プリントを延々とさせる」「テストを行う」「教科書の筆写」「単語の複数回の書き取り」も生徒を座って静かにさせるために有効な古典的なやり方だ。もちろんノートやプリントは毎回提出させチェックもおこなう。ここまでがレベルゼロの話。
 
レベル1になったら、こんなバカみたいなクラシカルな授業からの脱出はしたほうがいい。アクティブラーニングをするならば、話し合いのルールを決めなければならない。どのように話し合いを行うべきか、話し合い途中の教員の指示はどのように伝えるか、生徒が話し合いをする時間は適切か(長いと生徒が飽きて暴れる)など。自由な発想で創造的なアウトプットをするのがアクティブラーニングだが、その自由度は適切なレベルだろうか?自由にできるだけの知識や技能は生徒にどの程度備わっているのか。そしてアクティラーニングをおこなうための課題プリント、視聴覚資料、そのインフラの準備はできているか。要するにアクティブラーニングはしんどいのだ。ゆえに時間がなくて倒れそうなあなたは、クラシカルな授業に回帰して、ちょっと休むべきかもしれない。
 
 

最後に

書いていていい気分にはならない。けど、この感覚は、現場の人間は空気のようにわかっていることなのだ。だれも言語化しないが、肉体化されたような知識群だ。やさしいあなたを俺は見ているのが辛くなる。やさしいあなたのような先生のクラスは必ず学級崩壊していた。やさしいあなたが屈辱にまみれた顔になっていくのをみてきた。ベテランの教師は「生徒は教師を必ず裏切る」と語ったとき、俺は悲しくなった。まるでそれは「人間は恐れる者より、愛情を感じた者を容赦なく傷つける」と語ったマキャベリのようだ。
 
あなたは多分「主人」になるほかないと思う。「奴隷」たちに抗って強くならないといけない。








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