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丁寧×本音×思いやり=コミュニケーション

楽しく、カジュアルに、弱視難聴の日々を発信しています奈良里紗です。

今日はコミュニケーションについてです。

視覚障害があると、相手の表情を見ることができないために、コミュニケーションの難しさを感じることがあります。
特に、沈黙は苦手。見える人たちは、沈黙の時間も何らかのコミュニケーションをしているのですが、私にはわかりません。そのため、ついつい、発煙が多くなってしまうことも。

視覚障害のある人は社会性が欠如していると指摘されることがありますが、欠如しているのではなく、音声言語だけでコミュニケーションをとっているので、視覚情報を含めてコミュニケーションをとる人とはちょっと異なる部分があると理解してもらいたいのです。

そして、視覚障害のあるこどもの場合、社会性を発達させるためには、見える人たちとの相互作用の環境を整えることが重要とされています。見える人と接することを通じて、社会性の発達を促すのです。

これは異文化理解と置き換えて考えるとよりスムーズに理解できるのではないでしょうか。

大学院生のとき、イスラム教の友人がいました。一人は1日4回のお祈りがあり、それは研究会中であっても、中座して行っていました。その人とかかわることで、私はイスラム教のことについて新たに知ることができました。

別のアジア系のイスラム教の方にも出会いました。その人は、お祈りを1日4回決められた時間に行うことはしませんでした。仲良くなっていろいろな話をする中で、イスラム教にもいろいろな考え方、立場、信仰の仕方があるんだと理解できたのです。

視覚障害のある生徒さんの相談にのっていると、見える人とうまくコミュニケーションがとれないことによく悩んでいます。

私は目が見えるとか見えないとかそういうことは関係なく、人と人がコミュニケーションをとるときに大切なことは、
・丁寧であること
・本音で話すこと
・相手を思いやること
この3つかなと考えています。

日本語だから理解しあえると思っていても、同じ日本語から同じことをイメージしているとは限らない、そこが言語コミュニケーションの落とし穴のように思います。

例えば、視力0.1といったときに、まったく知識のない人が想像する0.1と眼科医のイメージする0.1って異なるんですよね。

私もよくやってしまいがちです。

Aさんに伝わったから、Bさんにも伝わるだろうと思っていたら、Bさんには伝わらなかった、そんなことがよくあります。

丁寧にコミュニケーションをとるためには、それなりに時間的ゆとりがないと難しいと感じています。とにかく、忙しい日本社会で丁寧なコミュニケーションをとるというのは案外難しいことかもしれません。

2つ目のできるだけ本音で話す、これは本音と建て前という言葉がある日本文化の中では難しいことの1つですよね。でも、建前があるからこそ、コミュニケーションに余計に時間がかかったり、すれ違いをうんだりするようにも思います。

本音で話すときに大切になるのが、相手を思いやる気持ちなのではないかと思うのです。
本音だからといって、相手を傷つけるような言葉を使っていいというわけではないと思うのです。人は忙しいと、どうしてもとげとげ下言葉を使ってしまいがちです。私もそうです。自分にとっての正義は、相手からみると理不尽にうつることは、思っているより多いように感じます。

弱視の私は、試験を受けるとき、試験時間を1.3倍から1.5倍に時間延長をしてもらいます。でも、1日24時間を時間延長してもらうことはできないわけです。

視覚障害があると、1つひとつに時間がかかってしょうがない、だから、コミュニケーションをとる時間もできるだけ省エネしたい、その気持ちは痛いほどよくわかるのですが、急がばまわれとはまさにこのことで、遠回りをしているように感じる丁寧な時間は、きっと、自分に戻ってくるのです。

なんで自分だけが?視覚障害があるというだけでこんなにも時間を取られなくてはならないんだ!と感じる視覚障害学生の気持ちもよくわかります。障害のない友達がサークルに、バイトに楽しんでいるのに、自分だけが取り残されているような気持ちになるんですよね。

でも、大丈夫。

その経験はこれからの人生できっと役に立つから。無駄なことなんて何一つないから。あまりにも理不尽でしんどくなったら、いつでも話をきくから、そのときはどうぞ相談してくださいませ。

私もまだまだ未熟で、日々日々、失敗しては学び、成長中。

人を苦しめるのも人。

人を幸せにするのも人。

あなたはどっちの人でありたい?

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