目が不自由な方という表現は不適切なのか?

視覚障害者を表す言葉の中に
「目の不自由な方」
というものがある。

健常者からみて、障害者をどのように表現すればよいのか気を遣うところのようで、よくどのように表現するのが適切ですか?と尋ねられることがある。

公的な文章では視覚障害、あるいは視覚障がいと表現されることが多い。

「目の不自由な方」という表現には少し違和感を感じる。
その違和感の原因を探ってみるとそれが何なのかわかった。

不自由と表現される私は不自由をさほど感じることなく生きている。不自由に感じていないのに、不自由な方などといわれてもよいのだろうか、自分の実感と表現との間にあるギャップに違和感を感じたのだと思う。

一方で、私のことを
「目の不自由な方」という人がいたとしても私はそれほど嫌な気持ちはしない。

なぜか。

相手は視覚障害という状態はさぞかし不自由で大変な生活を送っているのだろうと思っているからこそ、私のことを不自由な人と表現するのだと思う。
もし、私と1週間一緒に生活をしたら、きっと、その表現は自然と使わなくなると思う。

不自由どころか、私たちより〇〇ができますよね!
と少し仲良くなった人からはよく言われる。笑

言葉や表現って本当に難しくて、情報発信が容易になったからこそ、より慎重にしなければならない部分もある。

意図しない部分だけを強調して切り取られることで、悪意のない表現が悪意のある分掌に返信することもよくある。

だからこそ、世の中の人がこの表現って果たして適切なのだろうかと立ち止まって考える機会が生まれている。それはそれでいいことだと思う。

一方で、それがいきすぎてしまうと障害などマイノリティに関する内容はなんとなく触れてはいけないもののようになってしまうような気がする。そうはなってほしくないと思う。

どんな便利な時代になろうとも大切なことは、人と人が向き合ってコミュニケーションをとることなのだと思う。私だって、大きな区切りでは障害者だが、障害者のことを全てわかるわけでもない。健常者と言葉でひとくくりにしても、その実態は様々である。

私の周りには幸いなことに、こうして色々なことを知ろうと歩み寄り、尋ねてくれる人がいる。これはとても嬉しいことだし、私も彼らに歩み寄り理解しあえるようなコミュニケーションを心がけたいと思う。

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