点字ができない、その原因を個人に求めるのはもうやめませんか?
医学モデルから社会モデルへ、
そういわれて久しいのだが、一度、根付いた医学モデルはそうそう抜けていかないものなんだなぁ~としみじみ感じる今日このごろ。
視覚障害の世界は、まだまだ、専門家主導で当事者中心の支援にかけていると私は思う。
専門家の立場からすると、当事者中心にやっているつもりなのかもしれないが・・・。
当事者のニーズに耳を傾ける前に医学的なアセスメント結果ばかりみていないだろうか。
客観的な指標ももちろん、大事だ。
しかし、そこにとらわれてばかりで、本人のニーズはおきざりに。
そのいい具体例が点字をめぐる問題のように思う。
以前は、点字にするか、いわゆる、この普通の文字のことを墨字というのだが、その文字選択は視力0.02あたりを境界視力としていた。
そう、私なんか視力0.01なので、この指標でいうなら点字。
ということで、私も展示指導を受けた。
今となっては、指導を受けたことはよかったと思っている。展示も墨字も読めることで、選択肢が広がるからだ。
何より、私はたった3ヶ月で点字を読めるようになった。
これは私がすごかった!のではないと思う。
指導者の力量が極めて高かったのだと思う。
一方で、私の周りでは多くの視覚障碍者が本人の能力の問題で点字ができないとされている。
しかし、その指導法をきくと、果たして、それで読めるようになるだろうかというようなものばかり。
何事も、人のせいにするのは簡単。
こどもが点数がとれないのは、こどもが勉強をなまけているからだとこどものせいにすることは簡単。
でも、それではなんの解決にもならない。
視覚障害者は密室で専門性の高くない指導者に指導を受け、
「あなたの能力の問題だ。もっと、家で読んでこい」
と言われる。
もう、こういう前時代的な指導は終わりにしませんか?
社会モデルで考えるならば、指導者の力量に原因を求めることも個人モデル的である。
じゃあ、どうしたらいいのか。
高い指導力を有する指導者がきちんと育つ環境、社会の仕組みを作り、
視覚障害者がきちんと専門家から指導を受けられるようにしていけばいいと思う。
展示指導、これは生半可な専門性ではないと思う。
確かに、ニーズは少ないかもしれない。
でも、それでも、生まれつき全盲の子ども、中途失明した人たちに文字をもつ社会保障の形はあってしかるべきなのではないだろうか。
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