「見えない」っていっていいんだ!と気づく瞬間って大事。

こんにちは。弱視難聴の奈良里紗です。

私は弱視(ロービジョン)で難聴という、とーっても中途半端な見え方と聞こえ方をしています。

「見える!」わけでもないし、「全く見えないわけでもない」。
「聞こえる」ときもあれば、「全く聞こえないとき」もあります。

そして、何より、見た目が障害者っぽくないのです。笑

最初、弱視(ロービジョン)になりたてのころは、
「私は目が見えないんです」
っていっちゃいけないという、なぞのメンタルブロックががちがちにかかっていました。

じゃあ、どうしてたか?

「私は弱視で・・・」

と素直に伝え、

「弱視?ってなんですか?」

と聞かれて、うろたえるみたいな日々でした。

なんですか?と聞かれても、これこれこうでって答えられないから困ってしまうんですね。

アメリカにいったとき、弱視の友人が自分のことを

「I’m blind」

と表現していたのを聞いてちょっとびっくりしたのです。

私は英語でも一生懸命、弱視であることを伝えようとしていたわけですが、なんと、視力0.1以下は法的な盲人として表現できること、当然、視力0.01の私はアメリカではblindっていい存在なわけで。

それからもいろいろな経験を通じて、

「私は弱視なんです」

というよりも、

「私は目が見えないので」

といったほうが伝わるということを実体験として学び、今となっては、

「私は目が見えなくて、耳が聞こえないんです」

と最初はいうようにしています。

嘘といわれようが、おおげさといわれようが、見えている人のようには見えてないし、聞こえる人のようには聞こえてない、この中途半端な弱視難聴の状態をわかりやすく伝えるのはそれが一番いいんじゃない?というのが今のところの私の見解。

本日の私の規範意識からの解放体験、
それは、自分のことを「弱視」と正確にいわなければならないという規範意識からの解放でした。

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最後は、記事を購入してくださった方向けのおまけ。
「ねばならない」意識にまつわる目の術後のこどものエピソードを1つ。

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