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芥川龍之介賞受賞予想2022上半期

今回の芥川賞候補作は、5作品とも作者が女性であることが話題になった。
なぜ話題になってしまうのだろうか。
それだけ男性が優位で当たり前だという表れなのだろうか。
全員女性だったからと気にしていること自体に違和感を覚えた、そんなことがきっかけで、一度はやってみたかった候補作からの受賞作予想をしてみようと思った。
結局、違和感と言いつつ、乗せられていたので、自分も浅い、一人の男なのだと感じている。

全作を読む中で一つ感じたことがあった。
「正しさ」はときに"暴力的"ということだ。
今の自分にとって、そうした視点で見ることが多いからこそ、そのように感じたのだろう。

では候補作の確認と感想をば。

芥川賞候補作

まずは、候補作の確認。

・「家庭用安心坑夫」
小砂川チト著(群像6月号)
・「ギフテッド」
鈴木涼美著(文學界5月号)
・「おいしいごはんが食べられますように」
高瀬隼子著(群像1月号)
・「N/A」〈読み:エヌエー〉
年森瑛著(文學界6月号)
・「あくてえ」
山下紘加著(文藝夏季号)

これらのあらすじ、感想と個人的に推すかどうかを考えてみた。
読了順にあらすじと感想を記して、最後に予想をしたい。
初予想なので、趣味的要素が強いことはご承知あれ。

「ギフテッド」
(鈴木涼美著)

・あらすじ
繁華街に暮らし、風俗にて勤める女性の物語。
その女性の視点から家族や社会に向けて描かれている。
彼女の母はおそらく末期の癌でいつ死を迎えるかわからない状況の中、繁華街の家に来て詩を書きたいという。
それを拒絶はせず、それでいて、歓迎もしない彼女は、風俗関連の友人の死を味わったばかり。
そんななか、死を直視することからか、友人の死の足跡を追い、彼女自身を見つめるようにしていく。

・感想
美点は、錠について繰り返し描き心情を伝えようとしていた部分、そして、彼女の母から与えられた火傷跡について描きすぎずに想像が掻き立てられた部分だろう。
また、母が娘の肌を焼くことにより、母を傷物にすることは実は母の分身とも感じている娘を守る行為だったのだろうと考えさせられる。
これは父と息子ではできないもののように感じていて、母娘のいう視点だからこそこの傷の描き方になっていると感じ、守る守られるという関係についても一考させられた。
文章としても優れていたとは思う。

ただ、欠点としては、母娘の関係性などもかつてから描かれてきたものを、マイナーチェンジしたという感覚で、読み進めることが苦ではないものの、新規性はあまり感じなかった。
個人的に、特にセックスの描写は古臭いと感じるものもあった。
無駄に失敗するような描き方ではないと言えるだろうが、著者の経験等を踏まえると、より斬新な描き方もできたのではないかと感じる点がある。
一部、お金に対しての書き方で、「二百万」と直接に表現している描写ではやや曖昧にした方がそれまでの流れと同様に想像を掻き立てられたと感じている。

推し度合い「△」

「N/A」
(年森瑛著)

・あらすじ
舞台は2020年と思しき、コロナ禍の真っ只中。
主人公「松井まどか」は王子様のように扱われる女子高生。
彼女が嫌いなものは二つ。
生理とカテゴライズされること。
彼女が求めるものは一つ。
「かけがえのない他人」との関係。
彼女は嫌いなものを拒絶し、本当に求めるもののために素直に動こうとする。
しかし、それは多くの人からは病や性的マイノリティに映っていく。
彼女にかけられる声は、「正しい」とされた一般的な言葉ばかり。
その違和感を覚え、何かに分類されていることも嫌う。
彼女の友人の親族にコロナ感染が判明し、そこで彼女がとる行動は「正しさ」に回帰していく。

・感想
ただただひたすらによかったと言いたい。
カテゴライズされていることの違和感、重たい内容でありながら、女子高生を主人公にし、ポップな印象を持たせることで、作品に没入できる仕組み、全てに引き込まれた。

SNSに対する感じ方など、あらゆる点において、現代の考えが入り、近年述べられる多様性の受容を否定ではないが批判するような視点も見られ、思考を整理させられるものだった。

「かけがえのない他人」という、性別も何もかも忘れてずっといい距離で関われる他者を探しているまどかにとって、何かの型に入れ込むことは、自分の求めるものとの距離を作ってしまうことなのだろう。
ただ、それでも人と関わるには一定の範囲に収めていかないと関係を構築することはできない。
全てを特殊にすることができない故の、一般性への拒絶が産んだ結末にも、天晴れ。

まどかは大きなまとまりにするような判断を嫌っているはずなのだが、一度の付き合いで判断してしまっている部分もあり、そうした自己矛盾していることに葛藤がある。
まどかこそがカテゴライズを実は常々しているのではないかと見られることも含めて、皮肉が効いているなということもあり、素晴らしかった。

一部の方にも書かれているが唯一の欠点があるならば、性急にしたように感じるオチの付け方だろうか。
走り抜け、そのまま読後感を残すという意味では、あの終わり方がベターだったように思う。
ベストなものの想像が今はつかない。

推し度合い「○」

「あくてえ」
(山下紘加著)

・あらすじ
3人の女性で一つ屋根の下、東京に暮らす。
主人公、ゆめにとっては、「作家になる」ことが夢で、それが叶うまでは人生は始まらない。
目の前には、不倫により離婚をしている実父の母たる祖母を介護する日々があり、そこからせめても離れようとしていく。
しかしながら、母は祖母を思い、優しく接して今の生活は続いていく。
ゆめには彼氏もいるが、何かを"してやっている"と思われる行動があり、彼女にとって辛いとき彼は「生理のせい」と決めつけることもあり、歯車が噛み合わなくなっていることを感じていく。
そこで祖母の救急搬送に、入院も重なり、より生活の苦痛は深まっていく。
そんな中彼女には、新人賞の二次選考に進むという希望が現れてくる。
生活苦とともに生きる彼女はどう生きていくのか。

・感想
やや歪に見える家庭環境に、主人公「ゆめ」の感じる想いに共感することが多かった。
日常にもある思いとつながるものが言葉にされていたこともあり、読み進めることに苦は全くなかった。
むしろ、気づけば読み終わっていた。

今の自分にとって突き刺さる言葉がいくつもあった。
高卒のゆめと大卒の私では、学歴という視点で見れば一応は違いがあれど、まだ何者でもないという意識がどこかにあり、「自分の人生を生きること」を過大視しているのかもしれない。

ゆめは、小説家になるまで人生は始まっていない。
特別な存在になれるまでは始まっていない。
ただの日常がそこにあり、それは生きていないのと同じなのだろう。
そう考えながらも彼女自身は苦しみを覚え、祖母を殺してしまおうかと思うこともある。
その想いが本物であれば、それこそが人生を始めていることのようにも思う。

結末は小説らしからぬ、というか、逃げ場のない現実を突きつけられ、小説だからこそ小説を批判的に捉えることができるものとして、素晴らしかったと思う。
読後の爽快感だけを求めるなら、読まないことがおすすめだけど。

推し度合い「○」

「おいしいごはんが食べられますように」
(高瀬隼子著)

・あらすじ
二谷は「生きるために食べる」男。
彼には、ひとりの彼女がいた。
彼女は「おいしいもの」を好み、そのために時間を使い、それによって人の笑顔に喜びを覚えている。
そんな彼女は、体が弱く、同僚から気遣われ、優しくされる存在。
しかし、それが故に、彼女を嫌悪する人物、押尾さんがいた。
二人は何度か食事へ行き、一夜を過ごすことに。
そこで、押尾さんは彼女に「いじわる」を画策するのだが……

・感想
この作品を通じて、二谷の彼女である芦川さんは全面的に「正しい」人だった。
また、職場にいる人たちも、大衆として「正しい」言動が多く見られる。
上司にとっては気持ちよく過ごせるように発言をすること、体の弱い相手を気遣うこと、偏った生活をする人間への配慮など、きっと間違いではない。
ただ、その「正しさ」こそが二谷にとっては苦しく、嫌悪感を覚えさせる。

この感覚、誰しもが感じているのではないだろうか。
この感覚、非常に共感するものがあった。
気遣われているということは有り難い一方、ありがた迷惑で、気にしないでくれ、と思うことは多々ある。

そして、二谷やもうひとりの主人公、押尾さんにとっての「怒り」を生むのは、芦川さんの体が弱いことにより無理をしなくていい、そういう配慮で許され続ける事実だろう。
たしかに、無理をさせるべきではない。
その一方で、誰かがその分を背負うことになる。
笑って元気に過ごしているからといって、心も身体も元気なわけでは決してない。
最後の押尾さんの行動には、溜飲が下がる想いがした。

会話が多かったことで、読者の思考の余白がやや少なかったことがどう評価されるか、ということだけが気になったところ。


推し度合い「△」

「家庭用安心坑夫」
(小砂川チト著)

・あらすじ
小波は一見普通に「幸せ」に過ごすはずの女性。
異常なまで周囲に気を遣おうとする彼女にはあらゆることが負担だったのだろう。
東京にて故郷、秋田での過去の思い出の幻覚を見る。
そこで、思い立った彼女は秋田へ出向く。
ついに降り立った地にて、虚言癖の母から父と聞かされていたマネキンと再会し、彼と家族として独り占めしようと試みる。
実際に彼とともに過ごしてみると、自身の行動の意味がわからなくなり、元の暮らしに戻ろうとしてみたのだが……

・感想
今の自分では「読めておらず」理解できなかったというのが素直なところ。
文に圧倒された作品だったというのはある。
読みこなせていないはずなのに、なぜかその作品の中に引き込まれて、気づけば読了していた。
内在するものを外在化させようとする、そんなことをさせているような、小波の心理を投影するものが見えてはきた。

正直なところ、「読めている」と思えないため、なんとも判断しかねるのだが読者を置いてけぼりにしてしまった感もあるのでその点はどう扱われるか…

選評も含めて、再読を最もしなければならないと思っている作品。
他の方の批評なども通じて理解をしていきたいと思っている。


推し度合い「×」

候補予想

  1. 「N/A」

  2. 「あくてえ」

  3. 「おいしいごはんが食べられますように」

  4. 「ギフテッド」

  5. 「家庭用安心坑夫」

初、全作読み切っての予報で、個人的な趣味での順位づけになっているところもある。
一度やってみたかったことをやっとできた。
やり切ることができない、そうやって生きてきた人間だったので、これができたことは本当に嬉しい。
まだまだ評価の仕方なども稚拙で、主観すらも曖昧なのだけど、これからも多様な著作に触れることで、批評していくこともできるだろう。
教育関係で指導をするなら、少しずつ、すこしずつでも自身も成長させなくては。

あとがきに代えて、ただの感想

作品を読みながら、自分ならこうして描いてみるのかな、などと想像を膨らませることがありつつ、やはりこれほどまでに作品として成立させることなどできそうにない、というのが最大の感想だ。
推す推さないなどといいつつも、作品として仕上げた作者の皆様に敬意を表したい。

さて、そうはいえど、読んでみた中で思い入れがある作品というのは生まれるものである。
やはり、自身の置かれた状況や思考に類似点があるもの、影響を与えるものをよしとする傾向があった。
そこで、いくつかの作品から、これは、と感じた言葉をまとめておきたい。

ゆめのように作品を描いてみたいと思いつつ、否定的に捉えられてきたことと、ゆめの父のように「どうせできない」と言われてきた過去から争うことすら億劫になっていた。
文の中で勇気を与えられたのは、「あくてえ」が一番だったと思う。
他にも、文中で記されているものは、そうだった、それを伝えたかったと思う言葉が溢れていた。
特に、二つの文がここ最近の自身の想いを表すことに適していた。
「先に相手を傷つけた方が、自分は傷つかずに済むと信じていた。」
「どうせ、自分の気持ちなどわからない、意味など通じないと高を括って、伝えようとする労力を怠ってきた。いつか、このツケがまわってくるような気がしてならなかった。」
この作品は、また勇気を出すために読むことがあるだろうと感じている。

特に現代性が高かったのは「N/A」だったと感じる。この作品を読むことで、自身の人に対する関わり方にも影響が出たように思う。
その人に向けた言葉づくりをしようとしつつも、結果的に既に誰かに認められた表現をしている。
このことに対する違和感はある。
何せ自分も自分として特別なものとしてみられたいはずで、そう思うからこそ他人にその想いを伝えたいのに、できない。
この感覚を言語化されたことがなによりもこの作品に出会ったありがたみだった。

1ヶ月を通して、一気に5作品を読み終えたこの爽快感はたまらないもの。
また、次回も芥川賞候補作全読破やってみようかな。
なによりも作品に触れることで知らなかった世界観、見えなかった世界観が見えることが嬉しかった。
拙い言葉での表現できない自分のことを恥じるとともに、見習うべき文章に出会うことで、これから少しずつでも表現する力をつけたいと感じるばかり。

実際の選考が終われば、選評を読み、さらに作品への理解を深めていこう。

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