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滝行いってきた

滝行に行ってきた。

自分の人生の中で滝行などないと思っていた。だって修行する人ってレインボーマンくらいだと思っていたもの。つまりインドの山奥に行くくらいの覚悟があるってことでしょう?

レインボーマンは東宝制作の特撮番組で、放送当時平均視聴率20%を叩き出したおばけ番組です。主題歌も大ヒットしてその冒頭「インドの山奥で~しゅうぎょうをし~て~」は当時のちびっこたちに刷り込まれた。

そのあと歌詞は「ダイバダッタの魂を宿し」と続いていくのだけど、ダイバダッタって仏教でお釈迦様に背いたユダ的な存在なんです。色々レインボーマンはすごい。

つまり修行とはそれだけすごいことなんです。おいそれと一般人が足を突っ込むことはないと思っていたのは自明でしょう。

しかし、ここ数年「修行」が一般の人たちのところに降りてきた(気がする)修行したい人たちの理由は様々なのだろうけど、「日常から離れる」「ふだんと違うことをしたい」「異なる心境になりたい」みたいなことを願っているのではないかと思っています。

実際修行とは日常生活とはかけ離れた所に連れて行ってくれると思う。人は用もなう山に入りませんし、意味なく水をかぶったりしません。あえてそれをやる意味は、つきつめると「新しい自分に出会いたいから」ではないか。

理由はともかく修行したいひとがいて、修行を提供できる立場にいた私は、まず自分が修行を受けてみるという方向へ進んでいったのです。オメー主催のくせに滝行ひとつやってないの?というのは、ほんとに言い訳もできない。正直ぜんぜん乗り気じゃなかったのですけど、吉野・金峯山寺・脳天大神さんへと行ってきました。

脳天さんは比較的新しく開かれたところで、滝行も完備している素晴らしい場所。金峯山寺境内から500段ほど階段を降りて進むあたり、望まなくてももう修行が始まってる感じ。

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そこは別世界。立ち並ぶ杉の木が、金峯山寺もまた聖地であるということをさらに思い起こさせてくれます。

滝行専用の衣装・白衣を貸していただき(2000円)更衣室へ。ここは小さな行場なので、更衣室もひとつしかありません。なので男女きっちり分かれていて、両性いる場合はどちらかが終わるまで待たねばならない。なのでお越しの際は同性同士のほうがよいです。

白衣は素肌の上に身に着けます。更衣室も屋根はあるけど外みたいなものなので、真冬の行はほんとに命がけだと思う。

行場に入るのには「清めの儀式」があり、今回はいつもお世話になっている山伏女将フーちゃんにお願いしました。最初に体を清めるときもどの手から清めるのか?とか全部決まっていて、やはり修行はひとりよがりでは無理だと実感。

単に冷たい水に体をぶつけるだけが滝行でなく、「滝に打たせて頂く」「清浄な場に入らせていたく」ための心得的なことも学べるのが修行というものだと思った次第です。

儀式を終えていざ、滝場へ。これもまた打たせられる前に作法があり、見本を示してもらいながら少しずつ水にふれていきます。

時は8月。まだ残暑きびしいし、修行は嫌だけどある意味涼しさをわけてもらえて嬉しいひととき…と考えていた脳天をまさに「割られる」くらいひんやりした日。やばい‥この天候で滝に打たれるの?とビビりながら滝場へむかっていたのですが、その気持を裏切らずずっとお天気は雨模様。

最初の清めの儀式のときからもう水は冷たく、滝の前で最初に肩にしぶきがあたった時は息を飲む冷たさ。そしていよいよ滝の真下にて、首あたりに流れる滝を受け止めたとき(滝の水は頭でなく首で受ける)正直ぎゃーぎゃー騒いで緩和しようと思っていたのですけど、そういうのは1ミリも出なかった。なぜならこれは修行だから。神聖な場所に入ると、なぜかツツシミの気持ちが出てくるのです。勤行の場で「足をくずしてくださいね~」と言われない限り正座でいてしまうあの気分。

しかしそれにしても滝の水を首にあててその水が全身を伝うって!その伝う水がいちばん冷たいって聞いてない。

これは滝行だと頭でわかっていても肉体は納得していない。ええええ?なんですか?これなんですか?冷たいです痛いです寒いです。ニンゲン、なぜこの場からにげないんですかあああああ?

と肉体が言ってるのが聞こえるような気がする。でも立ち去れない。まだ終わっていない。指導してくださるフーちゃんが般若心経を唱え始める。私も唱える。もう般若心経をとなえるしかこの肉体のパニックを押さえられない。

カンジーザイボーサッツ ギョージンハンニャーハーラーミータッツ

シャウトです。出ました。魂のシャウト。般若心経・ザ・シャウト!!

実際滝に打たれていたのは数分のこと。そして冷たいし寒かったけど、そんな肉体の危機でもなかった。あれくらいで死んだりしない。でも般若心経シャウトしている間、ちょっと死んだ気分でしたね。日常の死。そう、繰り返しますが、人は用もなく山へ入らないし、無意味に冷たい水をかぶったりしないのです。あえてそれをするとき、頭では色々考えているけれど、肉体はそれがわからないのでパニックを起こして一回死ぬのです…。

滝行終了後、お下がりのゆで卵をいただきました。

脳天さんのお使いは蛇さんなので、蛇の好物卵がお供えされ、滝行のあとそれをいただけるのです。

日常いろんな美味しいものを頂いて、贅沢といっていい食生活を送らせてもらっていても、この卵はほんとに美味しかった。それはたぶん、安堵の美味しさ。滝行を無事に終えられたこと、滝行の中で味わった「非日常」から「日常」で戻ってこれたことへの感謝の味。ふつうって素晴らしい。

それにつきます。

修行とは、超人的な人になって誰かのために戦うレインボーマン以外は、「日常こそが素晴らしい」ということを実感するためにあるのではないでしょうか。ひとそれぞれ、思うことは違うと思いますけど、私にとっての修行は日常を意識するためのものでした。

皆さんはどんな感想をもたれるのでしょうか?

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