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山崎ナオコーラ『美しい距離』を読んで

点滴だらけでボロボロになった腕や、尿道にカテーテルを通された姿がリアルに想像できてしまい、読みながら苦しい気持ちになりました。

若くて健康な自分とはどこか縁遠い気がしていた”病と向き合う”という出来事が、いつ自分や身近な人の身に降りかかってもおかしくない出来事として読み手に迫ってくる、それでいて優しく穏やかな気持ちになる一冊でした。

あらすじ

ある日、サンドウィッチ屋を営む妻が末期がんと診断された。夫は仕事をしながら、看護のため病院へ通い詰めている。病室を訪れるのは、妻の両親、仕事仲間、医療従事者たち。医者が用意した人生ではなく、妻自身の人生をまっとうしてほしいーーがん患者が最期まで社会人でいられるのかを問う、新しい病院小説。解説・豊﨑由美

こちらの感受性の問題なのだ

生きていれば、何気ない他者の言動が、いちいち癪に触ってしまうことがあります。もしくは相手にとっては悪意のない言動に、深く傷ついてしまうこともあります。

それはこちらの感受性の問題なのです。

もちろん相手に配慮したコミュニケーションというのは生きていくうえで重要ですが、それを他者に要求するのもなにか違う気がします。そうです、こちらの感受性の問題なのです。

ほんの小さな日常の出来事でたとえれば、文末に絵文字が付いていないメッセージを受け取って「なんか怒っているっぽいな……」と感じるかどうかは、相手が別に怒っていなくても(むしろご機嫌でも)関係なく、すべてこちらの感受性の問題なのだ、ということです。


本作の主人公は中年の男性です。妻が末期がんと診断され、病院へ通っています。そんな彼はとても慎重に自分の感情を分析できる人間です。


病院にいると、医療従事者やその他ケアなどを職業としている人にとって、これは日常にすぎないのだ、ということを思い知ります。

(もちろん、それは悪いことではありません。患者さんが亡くなるたびに家族と同じレベルで心を痛めていたら、仕事になりませんから)

主人公にとっては、たった一人の妻が、家族が、そろそろ死んでしまいそうな一大事なのです。

しかし、医者とも、介護ランクの認定調査員とも、いまいち話がかみ合いません。

彼らがこれまで接してきたその他大勢の患者データの中から妻を何かしらのパターンに当てはめて語られることが、主人公にとってはどうも気持ち悪く納得のできないことなのです。

言葉を選んで伝えてみたつもりでも、やっぱり相手の反応にはしっくりこない。

そんなとき主人公は自身を客観視します。

自分はいまイライラしている。

「ひとりの人間としての自分の妻を見てもらいたいというのはあくまで自分の要望であり、相手の医者も認定調査員も決して悪い人ではなくその人たちなりにやろうとしてくれている」ということまで考えを巡らせます。

いち人間として、この客観的視点と冷静な態度は、見習うべきだと感じました。

「美しい距離」とは

印象的なシーンがありました。

妻の容体が急変した日の夜、誰か一人が付き添いで病院に泊まることになります。

主人公はもちろん名乗り出ますが、妻はそれを断り自分の母に泊まってほしいと言います。

夫として、パートナーとしてそばにいたいという気持ちから主人公はわずかにショックを受けます。


私はこのシーンを読み、自身の立ち合い出産を思い出していました。


父として我が子の誕生の瞬間を見届けてほしいという想いや私自身の心細さ、旦那からの要望もあり、立ち合い出産を希望しました。

出産は壮絶です。私はなんと、白目をむいて一瞬気を失ったそうです。

とにかく必死だったのでそのあたりのことはなにも覚えていません。

これは産後に旦那から、「人が気を失うの初めて目の当たりにした」「怖かった」と、聞かされて知った話です。

家族でありパートナーである旦那ですが、もともとは男女として惹かれあった仲です。

そんな相手に醜態をさらしたことを知り、恥ずかしいような、なんだか居心地の悪い気持ちになりました。(もちろん旦那はあれを”醜態”ではなく”雄姿”と捉えてくれているようです)

立ち合い出産が良しとされる風潮がある昨今ですが、それぞれの夫婦にとっての「美しい距離」があるでしょうから、外野がとやかく言うことではないなと改めて思いました。

私は立ち合い出産にしたことを後悔していませんが、旦那さんに出産のあの姿を見られたくない奥さんももちろんいるだろうなぁと思ったのです。


ただただ妻を大切に想い、ひとりの他者として尊重しながら「美しい距離」を保とうとする主人公が、とても素敵でした。

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