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山崎ナオコーラ『母ではなくて、親になる』を読んで

タイトルからも分かる通り性別による役割の押し付けから解放されて”母”ではなくて”親”になろうとする著者と、まだまだ”母”という存在への幻想が根強い世間。ただの育児エッセイにとどまらない社会派エッセイであり、子育てと関係のない生活を送る人でも純粋に読み物として面白いエッセイです。

あらすじ

「自然分娩をしてこそ、母親?」「子どもは”自分の時間”を奪う?」「夫は妻のサポート役?」……37歳で第一子を産んだ人気作家が、”母”というイメージの重圧を捨てて、”親”になって、日々を眺めてみると!? 妊活、健診、保育園落選など、赤ん坊が1歳になるまでの様々な驚きを綴り、大反響を呼んだ出産・子育てエッセイ。

子どもを持つつもりがない人にも読んでもらいたい名作エッセイ

「はいはい、育児エッセイね……」

子どもを持つつもりがない、もしくは当分予定はないという人からすると、育児にまつわるアレコレは自分とは無関係の事柄に感じてしまいますよね。

私も独身の頃は子どもの可愛い動画なんて見向きもしなかったし、ネット上で目にする”育児大変系”のあるあるエッセイマンガも一度も読んだことがありませんでした。

(もともと、あんまり子どもが得意じゃなかったからかもしれないですが……)

しかし!

本書『母ではなくて、親になる』は、そんじょそこらの育児エッセイとは違うのです。

単行本版のあとがきに山崎ナオコーラさんご本人も

育児に関係ない生活をしている人も楽しんでくれる面白い読み物を書きたい」と思いました。数字や商品名はできるだけ省き、あまり参考にならない本にしました。とにかく、心を開いて書きました。もしも、楽しい読書時間を提供できたとしたら、私は幸せです。

と綴ってらっしゃいます。

育児に関する話題で、心を開いて発信するのにはちょっとした勇気がいるものです。

みんな育ってきた環境が違うから子どもへの接し方にもそれぞれの美学みたいなものがあって、それが一致しないと批判を受けてしまうようなデリケートなテーマなのです。

そんな中、山崎ナオコーラさんはとにかく心を開いて書いています。

もちろん私もすべてに対して彼女と同じ考えというわけではありませんが、読んでいて一度も嫌な気持ちにならなかったし、「そんな考え方があるのか! たしかに一理ある!」と学びも多くあったのです。

それはきっと彼女の文章のシンプルで淡々とした雰囲気の中に宿る、ひとりの人間としての”生(なま)”の温かさを感じることができるからなのだと思います。

子育ては自分とは関係ないと感じている人でもひとつの読み物として興味深く楽しめるエッセイです。


”自己責任”なんて冷たいこと言わず、困っている人がいたら黙って手を差し伸べる社会がいい

私個人の話になりますが、産後うつ、育児ノイローゼ、そこから抑うつになってしまい、いまは抗うつ剤を服用しています。

子どもは2歳9か月の息子が一人です。

夫は会社員をしており、私はほんの少しフリーでお仕事をいただいていますがほとんど専業主婦です。

専業主婦なのに子どもを保育園に預けるということにはじめは抵抗がありました。

仕事をしている人たちを押しのけてまで私が息子を保育園に入れることで、もしかしたら退職せざるを得なくなる人がいるかもしれない。私の選択が誰かの人生に、とてつもなく大きな影響を与えてしまうかもしれない

私は、心こそ病気になっているけれど仕事をしていない。

家事と育児しかしていないのだから、やっぱり保育園に入れたいだなんておこがましいのではないか。

大げさじゃないか。

心の中で葛藤を繰り返しましたが、現実として我が家の生活が立ち行かなくなるほど追い込まれていたこともあり、医師の診断書を携え保活をし、運よく一発で保育園に内定が決まりました。


「25 九ヵ月の赤ん坊」の中で山崎ナオコーラさんは保活の”くだらなさ”(この言葉の真意はぜひ本書を手に取って読んでいただきたい)に触れており、

「22 努力」の中では、近年よく見られるようになった”自己責任”の風潮に飲まれることなく困ったときには助けてほしいと手を伸ばしても良いのではないか。困っている人がいたら理由か過程を問うことなく助けるのが本当に成熟した社会ではないか、と考えを述べています。


「心を病むくらいだったらはじめから子どもなんて産むな」

「自分自身で子どもを産むという選択をしたのだろう?」

「だったら育児ノイローゼ、抑うつになってしまったのは自己責任だ

誰から言われたわけでもないのに、私の心の中の世間が私を責め、すべて「自分のせいだ、自分のせいだ」と抱え込んでいました。

私の心の奥底に重たく沈み込んでいたこのわだかまりは、ナオコーラさんのエッセイを読んでゆっくりゆっくり解きほぐされていきました。


子どもと接する時間って、こんなに素朴でまろやかなものだったんだ

自分自身が、当時赤ちゃんだった息子とかかわっている間はただただ必死で、死なせないように、健康に元気に大きくなるように、怪我をしないように、とにかくずっと気を張っていました。

1歳半を過ぎたあたりからちょっとずつ楽になってきて(成長したらしたで別の大変さもあるけれど)、息子が2歳半を過ぎたくらいからこのエッセイを読み始めました。

ナオコーラさんの言葉選びは、育児という営みを新鮮な気持ちで見つめ直させてくれます


この家で、日中は私だけが赤ん坊を見る。おおー、と喜びが湧いてくる、重要な仕事を担った。それも、何かを命じられたり、こなしたりする仕事ではなく、とても自由な仕事だ。(「7 新生児」p.70より)

▲ほとんどの時間を赤ん坊に使うようになるため一般的には「自由を失った」と感じる人が多い中、ナオコーラさんは「とても自由な仕事だ」と喜んでいるところが印象的でした。そうか、私たちはそんな素敵な仕事をしていたんだ。


「ここはいいところだよ」「きっと幸せになるよ」と話しかけてみるが、言葉は通じず、泣き叫び続ける。少しずつわかってきたのは、どうも赤ん坊は「体を縦にしたい」「相手と体を密着させたい」という思いを強く抱いているらしい、ということだ。(「11 二ヵ月の赤ん坊」p.102より)

▲この冷静な描写、なんだか笑ってしまいます。たしかに赤ん坊ってとても不思議な存在でした。私もよく息子の顔を見つめながら「一体何を考えているんだろう……」「一日中寝っ転がっていて、暇ではないのだろうか……」などと考えていたものです。


起きている間、赤ん坊は私と一緒にいることが嬉しくてたまらないみたいだ。少し前までは、私が先に笑うと赤ん坊が笑い返してきたが、今は、私と目が合うと、私が笑っていなくても、赤ん坊の方から笑ってくる。とにかく、私を見る目が熱烈だ。これまでの人生で、私を好きになってくれた人がいなかったわけではないが、こんな風に熱烈に見てくる人は初めてだ。どう考えても、赤ん坊は私のことをものすごく好いている。(「17 五ヵ月の赤ん坊」p.162より)

▲確かに赤ん坊はこちらをじーっと見てくるし、抱っこされると嬉しそうにするけれど、「この子、めっちゃ私のこと好きじゃん……」という目線を持ったことはなかったのでこの描写も面白く感じました。そりゃもう熱烈なんですよね。びえーーーんと大泣きしてパパやママを求めてくる。


あと数か月で3歳になろうという息子は、やはり「ママきて!」「ママ見て!」「ママやって!」「ママだっこ!」「ママここ!」「ママ!ママ!ママァァァーーーー!!!」の日々です。

ちょちょちょ……!!! ちょっと一人にしてくれぇぇぇぇー!!! と叫び出したくなることもありますが、そんなときこそ、この『母ではなくて、親になる』を手に取るのです。

小さくてふわふわしていて頼りなくて、なのに力強くて。

奇跡の連続を重ねていまここにいる不思議な存在、赤ん坊。

あったあった、こんなこと。

私も、僕も、こんなんだったのかな。

そうやって誰もの心を素朴にまろやかに包み込んでくれる、最高のエッセイです。

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