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西加奈子『うつくしい人』を読んで

あらすじを読んだら主人公の名前が自分と同じだった。それだけで思わず本を手に取ってしまうことってありませんか?

この物語の主人公・百合は他人の目を気にしすぎてしまう女性。(そして実は私の名前も”ゆり”と言います。漢字は優里です)

この行動は社会的にどうか? 他人からどう見えているか? 嫌われないか? 自分の立ち位置が脅かされないか?

そんなことばかり考えて生きている百合と自分を重ね、百合が出会いを通して解放されていく様子にこちらの心もほぐれていく、そんな物語です。

人生という長い道のりを想い途方もない気持ちになったときや、”自分”ってなんなんだろう? と訳が分からなくなったとき、私ちょっと疲れているかもしれないと感じたときに、また手に取りたい本です。

あらすじ

他人の目を気にして、びくびくと生きている百合は、単純なミスがきっかけで会社をやめてしまう。発作的に旅立った離島のホテルで出会ったのはノーデリカシーなバーテン坂崎とドイツ人マティアス。ある夜、三人はホテルの図書室で写真を探すことに。片っ端から本をめくるうち、百合は自分の縮んだ心がゆっくりとほどけていくのを感じていた――。

「疲れてるのね。」

「疲れてる?」と聞かれるのが嫌になったのはいつ頃からだっただろう。

大人になってからの”疲れた”は、学生時代に部活でたくさん走ったあとのような、爽快感を伴う疲労とは種類の違うそれだと感じます。

もっとどろっとしていてどす黒くて重たいもの。


「痩せた?」

「寝れてる?」

「少しやつれたね」

心配してくれているのだろうけれど、私ってそんなにゲッソリしているのかしら……、生命力が薄れてきてしまっているのかも。

そんな風に感じてしまうので、できれば他人から疲れているように見られたくないのです。

特に妊娠・出産を経てからは、生命力に満ち溢れた赤ん坊という存在に、私のすべてのエネルギーを吸収されているような感覚がありました。

つわりや授乳などすべての赤ん坊に関する営みが、私の血肉、栄養、パワーをすべて削り取ることで成り立つもののように感じていたのでした。

泣く子どもを抱きかかえた自分がふと街のガラスに映ったとき、「あぁ私、なんて疲れた顔をしているんだろう……」と悲しくなる気持ち。


私とはまったく状況が異なりますが、ある日の会社でのミスが引き金となって張りつめていた糸がプツンとキレてしまった主人公の百合。

泣き崩れてしまったうえ、上司から困ったように「疲れているのね。」と声をかけられたことがトドメとなり、打ちのめされてしまいます。

私は疲れてないんていない、私は疲れてなんていない。

大丈夫、大丈夫。と言い聞かせる姿に胸が痛くなります。

吸収するだけじゃなくて、置いていくことも必要かもしれない

思い切って離島の豪華なホテルへの滞在を決めた百合。

そこで中年のバーテンダー・坂崎と、美青年のドイツ人・マティアスと出合います。

このどこか掴みどころがなく、いい意味で他人に興味を持たない二人の男性がとても魅力的な登場人物なのです。

二人との関わりを通して、自分を客観視し過ぎてしまい立場を守るために必死に武装していた百合の心がすこしずつほどけていきます。鎧をまとうことすら馬鹿馬鹿しくなってくるのです。

この三人の嚙み合っているんだかいないんだか分からない不思議なやりとりを見ていると、こちらの心も軽くなります。

さて、ここで見出しにした「吸収するだけじゃなくて、置いていくことも必要かもしれない」というのはバーテンダー坂崎の言葉です。

それを受けて百合は「吸収すること、身につけることだけが、人間にとって尊い行為なのではない。何かをかなぐり捨て、忘れていくことも大切なのだ」と納得します。

自分が満タンになってしまった、もういっぱいいっぱいだ、と感じたときには、背負っているものをいっそのことぽーんと捨ててしまっても良いのではないか。

感情が、涙が、溢れだしてしまったら。

ちょっとくらい、溢れさせておいても良いのではないか。

溢れて零れ落ちた分はもう潔く捨ててしまって、忘れてしまっても良いのではないか。

私がこれまで「なんで出てくるんだろう? なんで止まらないんだろう?」と思っていたあの涙もこの涙も、そのときの私が満タンになってしまって溢れ出たものだったんだと納得しました。

私はただの「ゆりちゃん」になれるだろうか

肩書き、役割、立ち位置などを捨て、ただの”自分”としてそこに存在するのは意外と難しいことです。

クラスでの立場が脅かされるのが怖くていじめを黙殺してしまう、自分の価値基準が曖昧になって社会的地位がある男性でないと好きになれない、親族から褒められたくて大企業に就職する……。

他者からの視線に怯えた人生の選択を繰り返していると、”自分”がなんなのか、その輪郭がぼんやりして掴めなくなってしまいます。

百合ほどではありませんが、私自身も多かれ少なかれ他者の視線を気にして生きてきました。きっとほとんどの人がそうだと思います。

あんまりマンガやアニメが好きだと言うとオタクだと思われるかもしれないから黙っておこう、本当は興味がないけれど流行ってるし話題についていけないと困るから自分も見ておこう、先生のこと良い人だと思っているけれど場をしらけさせたくないからみんなの悪口も笑って聞き流しておこう……。

そうやって自分を殺すたびに、これでいいのだろうか、私の生き方って正しいのだろうか、自問自答して苦虫を噛み潰したような顔をするしかありませんでした。

百合は、泣きたいときにはよく泣いて、おねえちゃんに甘えられたあの頃の「ゆりちゃん」に戻れるのでしょうか。

坂崎とマティアスとの出会いを通じて、きっと戻れるでしょう。

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