村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』を読んで
小学生の女の子同士の友だちの取り合い、仲間外れ。小学4年生くらいから始まる、初潮が早い子と遅い子の絶妙な隔たり。中学生の第二次性徴で膨らむ胸と、膨らまない胸。真っ白なスポブラをつけている子と、ホックを留めるタイプのレースのブラジャーをつけている子。小学生~中学生の女の子が味わう独特のすべてが詰め込まれた物語に息を呑んだ。
息苦しい街。息苦しい学校。どうして中学時代というのはあんなにも暗くてじっとりとしているのだろうか。そしてその嫌な湿度を感じずにカラッと眩しい太陽のように「学校って楽しい!」と過ごせるヒエラルキー上位の子たち”幸せさん”と自分の違いとは、一体何なのだろうか。
村田沙耶香氏の描写が生々しく、私が大嫌いだった教室のあの空気がすぐそこに再現されているみたいだった。目を背けたくなりながらも引き込まれて一気に読んでしまった。
あらすじ
クラスでは目立たない存在の結佳。習字教室が一緒の伊吹陽太と仲良くなるが、次第に彼を「おもちゃ」にしたいという気持ちが高まり、結佳は伊吹にキスをするのだが――女の子が少女へと変化する時間を丹念に描く、静かな衝撃作。第26回三島由紀夫賞受賞。≪解説・西加奈子≫
あの狭い世界で生き残るために
小学生のころ好きだった男の子は走るのが速くて、私より背が低くて、やせっぽちで、いつもみんなの真ん中にいる明るい子だった。
同じクラスになってたまたま隣の席だったその子のことを、私はすぐに好きになった。私はその子に消しゴムを貸してあげたり机をくっつけて教科書を見せてあげたりした。その子は算数が苦手な私に、分かるまで何度も解き方を教えてくれた。そうやって仲良くしていると、その子を好きだという女の子からすぐに嫌われてしまった。
「あいつ男好きだよね」という”大きいひそひそ声”が私の耳に入った。背筋が凍った。このままでは仲間外れにされてしまう、と思った。だから彼のことを好きな気持ちはしまっておくことにした。目で追うだけにして、必要最低限しか話さないようにしよう。
その子が駅伝の選手で給食を別の部屋で食べるという日に、こっそり私がその子の分の配膳をした。幼い恋心は私の中でくすぶっていた。本当はその子に直接、好きだと言いたかった。
反動で中学時代は男の子と喋れなくなった。女の子に嫌われたくないと思った。私がこの狭い世界で居場所を獲得するためには、まず何よりも同性からの支持を得る必要があると判断したのだった。
高校生になった私は小学校時代と変わらず、隣の席になった男の子に教科書を見せてあげたり、数学を教わっていた。それは恋心になるまえの感情だった。中学時代には男の子と喋れなくなってしまったけれど、もう高校生になったのだから男の子とも友だちになりたかった。彼とはこれからもっともっと、まずはちゃんと友だちになりたい、と思っていた。
2学期になって、クラスの中心にいつもいた綺麗な女の子から、「優里は、あいつのこと好きなの?」と聞かれた。ここで「分からないけどこれから好きになるかもしれない」「ちょっといいなと思ってる」と本当の気持ちを言ったら私の高校生活が一瞬で崩れ落ちてしまうのが手に取るように分かった。試されている。この返事次第で私の居場所は簡単になくなってしまう。
もしかしたらもっと仲良くなれたかもしれないけれど、そのまま彼のことを好きになったかもしれないけれど、「え、そんなわけないじゃん! 好きじゃないよ」と笑うしかなかった。私はその日から彼とはなるべく話さないようになった。彼は今まで通り数学の解き方を聞いてこなくなった私を、不思議そうに見ていた。
教室という社会に閉じ込められそのヒエラルキーの中でビクビクしながら生活していた私のような人間にとって、自分の恋心に正直でいるのは実は大変なことだ。大人になってから振り返るとあんな狭い世界での出来事はくだらなく感じるけれど、当時の私のすべてだった。
特に思春期くらいのころはごく一部の男の子に人気が集中してしまう。友だちと好きな人がかぶってしまったら、私はそっとなかったことにして自分の気持ちに蓋をするタイプだった。「実は私もその子のこと好きなんだ」と打ち明ける勇気は私にはなかった。
ヒエラルキーの高い子同士で両想いになるのが一番素敵なことで、ヒエラルキーの低い子が高い子に恋をするのは虚しいことで、ヒエラルキーの低い子同士で両想いになるのは嘲笑されることだった。
私は自分の立ち位置をいつもうまく定められなくて、だから誰を好きになったら安全なのかも、許されるのかも、判然としないまま日々を過ごしていた。私は誰となら釣り合うのか、そして誰と両想いになればみんなから疎まれずにかつあざ笑われずに認めてもらえるのか、分からなかった。
本当は人が人と想い合う気持ちに優劣なんてないのに。他者からの承認なんて必要ないのに。
私が小学生のときに好きだった男の子は本書に登場する伊吹に似ていた。子どもっぽくて無邪気で、屈託がなくて、ヒエラルキーなんて彼には見えていなくてみんなに優しかった。愛されキャラだからちょっと大人びた女子にも可愛がられるし、スポーツ万能だから男子からも一目置かれる。茶目っ気があって先生からも好かれる。そんな男の子だった。
物語の中で主人公の結佳は言う。
誰が上で誰が下か、誰にでもわかると言ったけれど、中にはごく稀に、教室の中にそうした優劣があるということがわかっていない子もいる。本当に稀な、そういった幸福な鈍さを持った子のことを、私は心の中で”幸せさん”と呼んでいた。
私は結佳のように、そんな”幸せさん”な彼に心から憧れていたし、羨ましかったし、恨めしかった。”幸せさん”の持つ正しさは、私のような必死に自分の居場所を守るために計算して動く人間には眩しすぎた。
これは私の物語だ。読みながらそう思った。私の話だ。結佳は私だ。
心の奥底で煮えたぎっていたどす黒いもの
中学生のころ、みんな死ねばいいのにと思って過ごしていた。
手帳の最初のページに、「石の上にも三年」と大きく書いて、これは私の長い人生の中のたった三年間の地獄だから耐えよう、と自分と約束した。
私は冷静に自分を分析しようと試みた。ブスじゃない、デブでもない、バカでもない。今はカースト中位でちょっと気を抜いたらたぶんすぐに転落しちゃう危うい位置だけれど、きっと大人になったらみんなを見返せる。そんなことばかり考えている歪んだ思春期だった。
仲良くしてくれる数少ない友だちと、勉強を熱心に教えてくれる先生たち以外の教室の人間を、全て下に見て過ごした。そうすることでしか自尊心を保てなかった。
なんでこの世界では私よりもブスなやつらが、ブスのくせに私を見下しているんだろう。
なんでこの世界では性的な下ネタに興奮して騒ぎ立てるような低俗な男子たちが、にやにやしながら女の子たちの可愛さをランク付けしているんだろう。
なんでこの世界では下品なバカ共が、ギャーギャー騒いで市民権を得られるのだろう。
そんなことばかり、ぼんやり考えながら、心の奥底で黒いものをグツグツ煮えたぎらせて過ごす日々だった。
「あんたが下に見ている○○さんは、あんたよりも遥かに綺麗な顔してるよ。きっと大人になって社会に出たら、○○さんの方がモテるし先に結婚するよ」
「お前が馬鹿にしている○○くんは確かに運動神経は悪くてカッコ悪いかもしれないけれど、顔は普通だし頭も良いし、絶対お前よりいい高校に入って、いい大学に行って、いい会社に就職して、人生勝ち組だよ」
「私は背も高いし顔も悪くないし頭も悪くはないから、見る人が見たらきっとそんなに悪くない。なんで気が強いだけのあんたたちに媚びてヘラヘラして過ごさなきゃいけないんだよ。いつか絶対に見返してやる」
私の内心を飛び交っていた言葉たちはじっさい発する度胸もなく、やはり心の奥底で黒くくすぶっていた。
そんなんだから、成人式には行けなかった。
中学時代のほんの僅かな友人たちに会える喜びよりも、私にとってトラウマである多くのバカたちに二度と会いたくなかった。
本書の中で信子ちゃんは言った。「私、イメチェンするんだ」「で、小川とか井上とかを見返すの!」「とにかく、私、変わるの。もう前までの私じゃない。教室でも、もう我慢しないの」
信子ちゃんは柚佳のクラスメイトで、見た目の醜さからヒエラルキーの一番下に属しておりみんなからバカにされている。
みんなを見返してやると息巻く信子に対し柚佳は、そうやって見返そうとする時点であいつらと同じ土俵に立ってしまっている、と信子のことを心の中でバカにする。
だけど私は、分かるよ信子ちゃん、と思いながら読んでいた。
見返してやりたいよね、なんであんなやつらが私を見定める立場に居座っているのか意味が分からないから。この世界はおかしいと心から思うから。
高校に進学して、大学に進学して、就職して、子どもを産んで結婚して、暮らしを営むような大人になってやっと、そういうつまらないヒエラルキーから解放された。狭い教室から広大な社会へと足を踏み入れて、中学生時代からコトコト煮込んでいた心の中の黒いものは薄まっていった。
私はスポーツ全般苦手だけれどバカにされることはなくなったし、私より美人にもブスにも上下がないということが本当の意味で分かるようになったし、胸が小さくても女性としての自分の価値が低いわけではないと思えるようになったし、友人の数がその人の素晴らしさを示すわけでもないと認識したし、人はみな尊いということを妊娠出産を通じて身をもって知った。
この小説は、いままさにつらい思いをしている中学生にも、かつて柚佳や信子ちゃんや私のようだった大人にも読んでほしい。きっと救いになる。
私が好きだった男の子や伊吹のような”幸せさん”が読んだらいったいどんな感想になるのだろう。
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