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人間誰しも心の中にツッコミを飼っている話【笑いのカタチ vol.1】

お笑いをとことん愛する我々ですが、お笑いの何をもって笑っているのでしょうか。なぜお笑いを観て笑えているのでしょうか

理由は言わずもがなおもしろいからなんですが、この記事ではさらに、「なぜおもしろいのか」にまで手を伸ばして考えてみたい、という話。

笑いは裏切り、という表現があります。しかしもちろん、すべての笑いが裏切りによって生まれているわけではありません。裏切りと同様に「笑いは○○」と言い表せる笑いのカタチが他にもあるはず。それをうまく分類し、体系的にまとめてみようといった試みです。

とその前に今回は、笑いのカタチを考えるにあたっての定義決めのような話と、前提となる考え方の話をしようと思います。

お笑いについて書くにしてはおもしろおかしさが足りないかもしれませんが、白熱のM-1グランプリ2023でのネタにも触れていますので、ぜひ最後まで読んでいただければ幸いです。よろしくお願いします。


ボケとツッコミ

お笑いの1ページ目であるこの2つの重要用語。そもそもボケとツッコミとは一体なんでしょうか。改めて定義するとなるとどこか難しい気がします。

ここで、役割としてのボケとツッコミ、行為としてのボケとツッコミが混在してわかりにくいため、この記事では、前者の役割・仕事としてのものを、カッコで囲った[ボケ][ツッコミ]と表すことにします。[ボケ]がボケて、[ツッコミ]がツッコむ、といった具合です。

調べ物といえば、Wikipedia。ここでは[ボケ]と[ツッコミ]に対して以下のような説明がなされていました。

「ボケ」は、冗談を言う、話題の中に明らかな間違いや勘違いなどを織り込む、笑いを誘う所作を行う、などの言動によって、観客の笑いを誘うことが期待される役割である。

「ツッコミ」は、ボケの間違いを要所で指摘し、観客に笑いどころを提示する役割である。

Wikipedia「漫才」

概ねこの説明には筆者も同意していて、特に[ボケ]に関してはしっかり言い得ているように思います。

ボケは、違和感のある事を言うこと常識とはズレた事を言うこと。そしてツッコミは、その違和感を否定し訂正すること

いま無理やり簡潔に定義しましたが、やはりこれらをうまく言い表わす言葉をまだ持ち合わせていないため、難しいです。いくつかの例をもって我々の感覚を擦り合わせましょう。あ、でも、あくまで感覚の話なので、ここは読み飛ばしてもらっても構いません

例えばぺこぱの松陰寺さんのこういうのは、筆者の中ではボケです。

松「ヘイ、タクシー!」
シ「ブーーーーン、ドーン!(衝突)」
松「いってぇな!どこ見て運転してんだよ!って言えてる時点で無事で良かった
----時戻し----
松「ヘイ、タクシー!」
シ「ブーーーーン、ドーン!(衝突)」
松「いや2回もぶつかる、ってことは俺が車道側に立っていたのかもしれない

「どこ見て運転してんだよ」とか「なんで2回もぶつかるんだよ」といった、観客が思い浮かべるような普遍的なツッコミをフリにして、その常識からズラしています。松陰寺さんは、[ツッコミ]のテイを装って[ボケ]として働いていることが多いと思います。

あるいは、例えツッコミの中でもこういうものはボケという感覚です。ダウンタウン松本さんの「(大林素子さんに対して)あなたマヨネーズだったら業務用ですよ」とか、くりぃむ上田さんの「マリアナ海溝より深いわ」とか、フット後藤さんの「高低差ありすぎて耳キーンなるわ」とか。

たとえそれがツッコミの発声だったとしても、情報量として多くを自らの中から製出していれば、もしくは遠いところから手繰り寄せている感があれば、ボケ

筆者にとっての曖昧なラインの基準、ボケツッコミの境目・区別のイメージはこういった風です。少し脱線した感じがありますが、まぁこの辺はなんとなく、で。

ではここで、Wikipediaにもあった、[ツッコミ]への「観客に笑いどころを提示する役割」という評価を頭の片隅に置きつつ、ツッコミに関してもう少し深掘りしてみましょう


あなたの心の中の[ツッコミ]

この記事のタイトルにもしているこの考え方、これはお笑いにおける[ツッコミ]の意義にも繋がってくるのですが、いや、そんなことより、

「"私の頭の中の消しゴム"みたいに言うな!」

そう心の中でツッコんだ人がいると思います。みたいに言ってないですよ。でも、そういうことです。

※『私の頭の中の消しゴム』
・・・日本のテレビドラマを原作とした、2004年公開の韓国映画。若年性アルツハイマー病による記憶障害を抱える女性とその夫による夫婦愛を描いた。

どういうことでしょうか。たまたま今挙げたこの例は、情報としての幅が狭いし、そもそもそこまでしっくりくる例えツッコミでもなかった可能性もありますから、共感が得られにくかったかもしれません。もう少し説明します。

当然、筆者は他人と脳を取り替えたことがないので、みなさんがどう考えているかはわかりません。しかしそれでも、人間であれば全員、自分なりに心の中でツッコミをしているだろうと思うのです。

上記のような例えツッコミこそ人によるでしょうが、少なくとも「なんでやねん」とか「逆だろ」とか「そんなわけないでしょ」とか。最低でも「いやいや...w」ぐらいの、"違和感への否定"としてのツッコミをしているはずです。

つまり、我々は心の中に、我々なりの[ツッコミ]を飼っている

そんな我々の心の中の[ツッコミ]たちは、お笑いを観るにあたって大きな役割を果たしていると考えています。

バラエティ番組やネタを観ていて、芸人のツッコミを聞かずとも、ボケのみで笑えている瞬間があると思います。これは、心の中の[ツッコミ]が機能しているからではないでしょうか。

例えば、M-1グランプリ2023から、令和ロマンの2本目『町工場』最初の大爆発。くるまさんが30秒近くかけて「ウィーーンガシャ(機械音)」した後に放った「単純作業ばっかでつまんねぇなぁ」。観ている全員が「どこが!?」とツッコめたからこそ、すぐに笑えています。あの時のケムリさんの「どこが!?」はあくまで添えるだけ。桜木花道の左手と同じです。

わかりやすくツッコミしろがあるボケであったため、我々素人でも簡単にツッコミのベクトルが揃い初速の速い爆笑へと繋がりました。フリの部分の「ウィーーンガシャ」の時間がいかにその土壌を造り上げていたかは、また別のお話。今度言及するかもしれません。

ただ、もしこのように心の中の[ツッコミ]が機能してボケだけで笑える状況が多いのであれば、お笑いにおいて[ツッコミ]芸人という役割は必要ないのではないか?

いえいえ、もちろんそんなわけはありません。つぎに[ツッコミ]芸人の意義について考えてみましょう。


[ツッコミ]芸人の仕事

先ほど挙げた令和ロマンの「単純作業」のように、あるボケに対して、我々受け手の心の中のツッコミが同じ方向を向くことがあります。あるボケに対して、全員が同様のツッコミを心の中で放っていることがあります。ツッコミどころが明らかなときです。

明確なツッコミどころがあるボケに相対した際の[ツッコミ]は、【心の中のツッコミの『代弁』】をする役割として振る舞います。

観客が心の中で発したツッコミを、[ツッコミ]が代わりに[ボケ]に投げることで、観客側は「そうそう!」「よく言ってくれた!」となるわけです。

この場合、[ツッコミ]は「キョウカン(共感)の笑い※」を促す仕事をしていると言えます。先ほどボケだけで笑えている瞬間があると書きましたが、そのボケだけでなく、[ツッコミ]芸人が自分が引っかかっていたポイントにうまくツッコミを刺してくれたときの方が、さらに爽快でおもしろいはずです。
※詳しくは次回の記事(笑いのカタチ vol.2)で。


一方で、その観客ひとりひとりがどれほどツッコミやお笑いと向き合ってきたか、もしくは単に属するコミュニティ・環境・年齢層などの差異によって、心の中の[ツッコミ]に各々オリジナリティが生じ、ツッコミの目線が異なるケースも発生します。

それにより起こるのが、観客それぞれのツッコミどころが一致していないまだツッコミどころを見出せていない観客がいる、あるいは、観客によって別の部分をおもしろがっている、といった現象です。

この状態のときに[ツッコミ]が果たすのが、【笑いどころの『提示』】という役割。これは少し前に触れた、Wikipediaにも示されている役割のことです。漫才やコントのような用意された場所だけでなく、むしろ即興性の高い現場でこそその力を発揮するという認識です。

漫才で言えば、霜降り明星や真空ジェシカ、ママタルト、からし蓮根などは、[ツッコミ]にこの色を強く出すネタをしている印象があります。

例えばM-1での真空ジェシカ『Z画館』より、ガクさんの「エンジンのスマホ使ってる!」や「検索エンジンすぎる!」「左に受け流された」などは、笑いどころを提示する役割を果たしていると思います。川北さんの言動だけではほぼ笑いは来ず、ガクさんのツッコミがあって初めて、観客はその "変" に気づきます。

「映画泥棒が勝った!」まで行くと、ツッコミの言葉に新情報が乗りすぎるので、ボケの一端を担っている・ガクさん含めてひとつのボケ、という感じが出て、少しズレますが。

また、川北さんの「ブィィーン...ドッドッドッドッ」のマイムだけで「こいつエンジンのスマホ使ってるやんおもろ」と思えたお笑いセンサービンビンの人からすれば(筆者は無理ですが)、ガクさんのツッコミは【心の中のツッコミの『代弁』】として振る舞うわけですから、[ツッコミ]芸人の役割はあくまで受け手に委ねられるということも重要なポイントです。

さらに、この[ツッコミ]による【笑いどころの『提示』】をもう少し細かく効果を分類してみると、

(ⅰ)   そのボケにおけるおもしろがるポイント・ツッコミどころを提示する役割
(ⅱ)   笑うタイミングを明確にする役割
(ⅲ)   ボケの状況に関する観客の想像を促進させ、その滑稽さを際立たせる役割

といった感じ。前述の通り( i )の役割が特に重要で、ツッコミを行うことで「このボケ、ここがおもしろポイントですよ。変なこと言ってますよ」を示してあげることができます。( iii )については、vol.3以降で詳しく話します。これを一応先出ししておきたかった。

ここまでをまとめると、[ツッコミ]の仕事としては

① 【心の中のツッコミの『代弁』】

② 【笑いどころの『提示』】

が存在するだろう、ということ。もちろん、広義に捉えれば、あるいはツッコミ自体を漠然と捉えればもっと役割はあるでしょうが、本質的には大きくこのふたつとしてよいと思っています。これから筆者の考えが変わる可能性もあります。

ツッコミとは、
「おもしろ」と「観客」の架け橋である。


芸術的シシガシラ

M-1グランプリ2023にて敗者復活を果たしたシシガシラ、すっっごいネタでしたね。審査員たちも触れておられましたが、記事の根幹である「心の中の[ツッコミ]」に関わる斬新な作りでしたので、最後にそのお話もしておきましょう。

本筋としてはもちろん、脇田さんのハゲイジり。このコンビは、手を替え品を替え一貫してイジり続けます。今回の手段は、有名曲の歌詞。歌詞をハゲとリンクさせて意味を持たせます。テーマとしてもイジり方としても、そこまで突飛ではないように見えます。では、何が斬新だったか

まず、そもそもこのネタに[ボケ]とか[ツッコミ]という役割がほぼ存在しなかったこと。(強いて言えば、ふたりが別軸の[ボケ]?)

記事の前半で[ボケ]と[ツッコミ]の定義みたいなものを決めようとしていましたが、そんなことでは言い表せないあやふやな立ち位置にふたりが居て、その曖昧性が芸術性を生んでいる。それがこのネタの、他の漫才では得られない新感覚に繋がっているはずです。

[ボケ][ツッコミ]がないですから、このネタの見方を理解させるための「髪の毛のことを想って歌ってます?」「偏見も来るとこまで来たな」というボケツッコミ以降、いわゆる "掛け合い" はなく、明確なツッコミ台詞がありませんツッコミを受け手(観客)に委ねているのです。

ツッコミを観客に委ねる。すなわち、観客の心の中の[ツッコミ]たちにボケの受け取り方を任せたのです。

これは簡単にできることではありません。観客たちの心の中のツッコミが、人それぞれにズレてしまう可能性があるからです。

M-1グランプリ2023の決勝でも、たとえばさや香の『見せ算』。あのネタがあの日ハマりきらなかった要因のひとつとして、観客の心の中のツッコミの目線がブレたということが挙げられるでしょう。見せ算の楽しみ方として、新山さんに対して「こいつずっと何言うてんねん」という俯瞰の視点が必要だったはずですが、1本目と前年度にわかりやすくおもしろいネタをしていたせいか、まともに理解しようとしてボケとして受け取りきれなかった観客がいたことが、ああいった結果に繋がったと思います。スタンスを心得ている今見れば、誰が見てもおもしろく笑えるものになっています。

あるいは、ダンビラムーチョ。「一曲目のツッコミまでが長かった」という審査員たちのコメントに対する「長いのがおもろいんだけどなぁ」というフニャオさんのこぼれ落ちる一言も印象的でしたが、彼らに関しても言えることです。熱唱するふたりに「なにやってんねんこれ」「長っ」という心の中のツッコミが観客たちにあればもっとウケるはずだし(実際に準決勝では歌唱中にすでに大爆発だった)、逆に審査員含め決勝の観客にはその目線がなかったということでしょう。これはどちらが観客として優れているかということでは全くなく、単にこのコンビをどれぐらい知っているかだけの違いだと思います。

このように、ある程度そのネタの[ツッコミ]を観客に投げるようなネタである場合、観客それぞれのツッコミの目線を揃えることに困難が生じます。前章で言うところの【笑いどころの『提示』】が難しい状態にあるということです。それを見事にやってのけたのが、シシガシラ。しかも、これまた斬新に。

ネタの構造として、『①髪の毛(あなた)とのリンクをおもしろがる』に加え、『②気づいてない脇田さんをおもしろがる』という2つの大きなボケがあるように見えました。特にの爆発力は異常で、上の写真のくだりでも、脇田さんが気づいていないという状態をベースに、健気に歌う脇田さんを笑う浜中さんという対比のおもしろさ。締めのキョロキョロもコレの仕上げ。

本来であれば、観客の心の中のツッコミのベクトルを揃えるために、【笑いどころの『提示』】としてのツッコミを "言葉にして" 放てば済むように思えます。しかしここで、の制約。その性質上脇田さんに気づかれてはいけないため、簡単に言葉にできるわけでもないのです。

そこで浜中さんがとった選択肢が、表情とジェスチャーをもって【笑いどころの『提示』】をするということ。目を見開き、笑いを堪え、沸く観客をなだめ、目線を揃えます。そのどれもが的確で秀逸。

言葉を発さずとも【笑いどころの『提示』】をし、指揮者のように観客のツッコミのベクトルをコントロールする。さらにその表情で【心の中のツッコミの『代弁』】を行い、浜中さん率いる全員で脇田さんを笑う構図を作っている。

斬新、芸術的、シシガシラ。


『笑いのカタチ』への招待

とても長くなってしまいました。初回となる今回は、ボケとツッコミの定義我々の心の中にいる[ツッコミ]の存在[ツッコミ]芸人の役割、などに関して書かせていただきました。

あっちへ行ったりこっちへ行ったりの駄文でしたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。愛しています。ただ、この記事はあくまで前段です。vol.1です。vol.2も3も4も、どこまで書けるかわかりませんがたくさん読んでほしいです。みなさんの頭に少しでも残るように、そして自分のためのメモがわりにも、今後書く可能性のある記事のキーワードを残しておきます。

・笑いのカタチ(ウラギリ, キョウカン, コッケイ + ヘダタリ, ナットク, ジアイ, コントン)(vol2,3予定)
・想像, 情景(etc...擬人化)という『手段』
・フリの意義
・ツッコミの一手目と二手目の選択
・わかりやすさのギリギリ
・笑い声に関して(笑い声の質とタイミング, 相性)
・気づきの差
・ツッコミの順序(AとBどちらから触れるか)

いちばんはじめに書いたように、この記事のシリーズのメインは『笑いのカタチ』です。次回vol2にて、その考えの一歩目を伝えられればと思います。

改めて、本当にありがとうございました。次回もどうぞよしなに。

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