先生って、いる?いらない?

先生、学校、教育、という文脈を考えるとき、いつも2つのことが浮かぶ。

1つは、子どもは自ら学ぶんだ。ということ。生きる上で自分で必要だと思う、やりたいと思うことを自分でどんどん身につけていくという過程に対する興味と確信。

もう1つは、「先生」「教師」というものが、子どもたち、学級(つまり集団)対して及ぼす影響と、その可能性。

この2つの感覚の中でとても揺れる。揺れている。

前者は、子どもをどっぷり信じている感覚からきている。むしろ彼らは俺たちの未来を生きる、創っていく方々なので、そういう意味では、自分より常にに新しいものを持っているのだな、という感じでいる。負けたくない、と思うけど。笑

後者はもっと、リーダーシップや組織論的な感覚からきている。イノセントなその芽がどんな風に展開していくか、と言うことに関して、適切な栄養剤や、支え木になることができるのでは、そのための振る舞いや顔つきというのは、どういったものなんだろう?ということである。それはときに、本当に上手な(つまり、本当に他者の存在を尊重できる)ファシリテーターに感じるものであり、周りを強制することなく、ぶわっと巻き込んでインスパイアしてしまう人にも感じるものである。何か、仕切る、というか中心になったり、前に立つことで、何かの影響を人に与える、という営みが確実に発生しているような気がする。

では、教師とはなにか。ということである。

前者(子どもは自分で育っていく)の視点に立つと、ぶっちゃけ(既存の)学校も先生もいらなくない?という感覚になる。それを実際に体現してるのが、サドベリーバレースクールである。(と思っている。)

youtube参照:https://www.youtube.com/watch?v=IsUXAW3UpNs 

子どもたちが本当に夢中になっているときに、人は一番学ぶ。そしてそれで成立していく、という過程がこの動画を見ると一端感じることができる(一端、というのはそこまで俺が踏み込んで知っているわけではないから)

一方で後者の視点に立つと、先生や教師という存在は本当に本当に重要な存在だなと感じる。それはむしろ、植物が育つときの日光のような、不可欠な感じすらある。そしてときに成長の曲線をおしあげる栄養剤のような感じもある。この後者の視点に立つとき、俺はいつもTeach For Japanという団体にいたときのことを思い出す。

Teach For Japanは、[モチベーティブな若者を学校教育に派遣して、2年間先生をやってもらう]、というプログラムで、教員免許を保持していなくても、臨時免許を発行して教師をすることができる仕組みである。(Teach For Japanについてはこちら)これはもともとアメリカでできたプログラムで、優秀層の学生を、貧困地区の学校の先生として派遣する、というのがモデルの元になっている。このプログラムのスローガンになっているものの1つがTeaching as leadershipという言葉である。教えることって、リーダーシップだよね、ということ。俺はぶっちゃけこれを最初に聞いた時、ふーん、くらいにしか思っていなかったのだけど、実際に現場で先生を2年間やってみて、本当にそうじゃん、と思った。それはTeach For Japanがあるからそう思った、というよりも、あまねく先生って、リーダーなんだな、というもっと直接的な感覚だった。「リーダー」っていう概念自体がとても広くて、ここで触れるには収集がつかなくなる話題なんだけど、そんな感覚がいまだにある。かなりね、グっとあります。とても重要なことな気がしています。

この感覚が、前者の「先生も学校もいらなくね?」という考えにストップをかける感じがある。誰かが関わって、その人の人生形成に影響がある、速まる、大きく変化する、というのは先生と生徒という関係にとどまらず、どんなところにもある。まして、社会、とか世の中、についての情報がだ乏しくて、それを手探りで確かめているような立場の子どもたちからすると、それが与える影響というのも大きいと考えるのはそんなに難しくない。

ていうか、前者のサドベリーだって、運営してるのもしようと思ったのも大人だし、環境設定ってある程度大人が関わらないとできなくない?とか、結局なんかぐるぐるしてくる。

ぐるぐるしてきて、まとまらなくなってきたので、ここら辺で一旦やめます。これから遅めのランチに行ってきます。

なおや

https://www.facebook.com/naoya.shirata

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