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拉麺ポチチ都知事7「飛ぶよ文化でどこまでも」

もう1週前ほどになるが、私が参加している音楽一座のHEAVENESEで明治神宮にて行われた『東日本大震災10年 慰霊鎮魂奉納演奏 奏上』にて演奏を奉納した。とても荘厳/ 光栄で、なんとも考えさせられる空間だった。動画は以下(現場のテクニカル的な都合で音質は良くない)。

10年前のあの日の空は忘れられない。禍々しい色の曇り空。私は何事もなかったかの様にサキソフォンの練習に向かっていたが、やる気も失せて帰宅難民になっていたジャズ研の後輩と合流した。そして道すがらに「この世の終わりだなあ」と話しながら、焼肉を食べたのを覚えている(味はとっくに忘れた)。

それ以降の数日、津波の映像をYouTubeで見ながら備蓄していたはずの菓子パンを貪ってしまい相当に太った。当時の私は何にも分かっていなかったのだ。生意気に文章を綴り、ツイートをしていたものの、やり場のない気持ちをどこへも昇華できずに、安直に食欲を満たすことによって発散していただけだ。若気の至りでしかない。

その時の心情が旧ブログに書かれていたので引用する。

“僕にはクールぶって「こんな時こそライヴするんだ立ち上がろう」などとはとてもじゃありませんが言える度胸は無く、もう音楽さえ聴きたくない、演奏などもっての他よ。というほどの重たい出来事でありました(気付いておられる方は少ないとは思いますが震災以降3日ほどはTVや街角からもBGMがほぼ全て無くなってしまったのです。あの津波や原発の映像にどんな音楽が当てられようか。どんな音も吐き気に見舞われるだろう)。

golbケイコヤオナ(旧ブログ)2011年3月24日「不謹慎を」
https://naoyakoike.hatenablog.com/entry/20110324/1300914201より

一読して分かる通り、私は有事に対する音楽や文化の有効性を懐疑していたのである。

しかし手も足も出なかった20代前半の私でも、しばしば子ども向けのイベントやHEAVENESEで被災地支援に通わせていただいたことは本当によかった。具体的な支援をすることや現地を見たり、人々と触れあったことで自分のできること、するべきことを考えたし、学ぶことができた。

この10年で他にも色々なものを見たし体験してきた。今は災害を前に楽しい音楽を聴いてハッピーになろうとは思わないだろうが、この状況や心境を以て何らかの創造をしていたいと思うだろう。

それを先人が積み重ねてきたこそ時空を越えて、アートや音楽が自分に届いている。もし彼らが戦争や災害で音楽を辞していたら。少なくとも新京交響楽団の曾祖父(ヴィオラ)から始まり、私に至る音楽的な遺伝子は受け継がれることがなかったかもしれない。

“(1945年)3月14、16、17日の3日間にわたり、惨状の中にポツンと焼け残った日比谷公会堂で、わたしはチャイコフスキーの「4番」と、ストラビンスキーの「火の鳥」を振った。今日のように平和な時代に、「音楽がなければ、われわれは生きてゆけない」などと言ったら、大げさに聞こえるだろう。だが、あの時は、客席を埋めつくす大勢の大衆を見て、わたしは、まさにこのことを実感した。空襲からわずか4日後、あたり一面焼土と化し、食べ物も何もない極限の状態においてすら、心から音楽を愛し求める人が万難を排し、熱気をもって会場に来てくれたのである”

指揮者・山田一雄氏の回想
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/zakki/music/music.htmより

大きい視点で見れば、このバトンはナショナリティや遺伝子、ジェンダーを軽々と飛び越える。

例えばジャズミュージックは連綿と続いてきた西洋音楽の和声や、アフリカやラテンアメリカのビートなどなどが混血したミクスチュア。それが今のファンクやR&B、ヒップホップなどのブラックミュージックの源流のひとつなのである。

確かに白人至上主義の覇権により、クラシック音楽の理論や楽器編成を主要な土台にして現行ポップス史は積み重ねられてきたのは事実だ。しかし、もはや我々自身を滅ぼす以外に血肉化したバッハやショパンをキャンセルすることは難しいだろう。たとえブラック・ライヴズ・マターやイエロー・ライヴズ・マターと叫んでも、現行の音楽をある特定の人種が生み出したものとして還元することは不可能である。これについては嘆くよりも、それを知って乗り越えていく方が賢明ではないだろうか。

誰でも受け取れば国や人種、性別は問われない。それこそが個人的に見出した文化総体のヤバさだ。私は日本人のDNAを保持しつつ、ヨーロッパやアフリカ、アメリカなど国内外に存在したヒーローたちの知識や技術の文脈を勝手に継承してしまった。このおかげで私はいつでも30年代から40年代のアメリカに想いを馳せることができるし、60s公民権運動の志士たちに同意し、90sイギリスにおけるレアグルーヴ運動に興奮することができるのである。これについては微力ながらも発展させ、次代へ繋いでいかなくては恩を返すことはできない。

私は死ぬまで食べ続けるだろう。しかし、有事に食っているだけの馬鹿に成り下がるのはもう御免である。それが私があの震災をきっかけに学んだ大きなことのひとつなのだった。そして今タイミング良くバランスを欠いた食事によって胃を壊し、胃薬を飲んでいる。やはり「暴食に逃げてはいけない」というお告げかもしれない。


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