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「僕が読む!」「わたしがよむ!」@絵本をめぐって

《登場人物》
Aくん…2歳児男児
Cちゃん…1歳児女児(話せるようになり始めた)
ひ…ひがし

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ある日の夕方の園舎内にて。
そろそろお迎えの時間帯だった。

A「ね~この絵本読んで~」
C「これよむ~」

二人が同時に絵本を持って、僕の膝に乗ってきた。

A「だめ!ぼくがさきに読むんだよ~!」
C「Cがよむの~!」

こういうとき。
ついつい「じゃあ、○ちゃん先に持ってきたから、□ちゃん待っててね」とか言いたくなるのです。が、これではだめだと気がついて。

最近では、「どっちの気持ちも分かる」をしています。
これがいいのかは分からないけれど。

A「ぼくがさき~!」
ひ「そうだね、Aくん読みたいもんね!」
C「よむの~!」
ひ「そうだよね、Cちゃんも読むもんね~!」

と、二人ともの気持ちを分かるをする。
だって、本当に読みたい気持ちは二人共にあり、
”読みたい”のだから!
僕がそれを裁くのは、なんか違う。

ひ「二人とも読みたいね~、どうしようね~」

と、二人の気持ちを分かるをしていたら。
なんとなくCちゃんの表情が明るくなってきた。
そしてAくんの持つ本を指さしたり、Aくんの本の話をしはじめた。

さらに「でも読みたいよね~」と気持ちを分かるをしていたとき、
なんだか小さい声がする。。。
耳を澄ましてみる。

C「どっち~~~どっち~~~え~~~べすさん♪」

といいながら、二人の絵本を交互に指差しているのだ。
これ、ご存知だろうか。
どっちかを選ぶとき(?)のわらべうたなのだ。
たまに保育者さんが歌っている。それを、ここで歌っているのだ。
なんと、年下のCちゃんがだ。

C・ひ「え~~べすさんに~~きいたら わ・か・る♪」

ゆれるひがし。
なぜかというと、Cちゃんの指が止まったのがAくんの本だったからだ。
しかしCちゃんの表情は明るく、笑っている。

普通は年上が譲るよね。
いやいや、普通ってなんだ!?
こういうとき、どうして僕は”普通”が頭をよぎるのか。

いま、目の前に起きていることだけが事実なはずなのに。

ひ「じゃあ、Aくんの読もうか!」
A・C「うん!」
A「Aくんのよんだら、次はCちゃんのね」
C「うん!」

といって、読み始めた。
読み終わった。

A「次はCちゃんのね。その次は、Aくんのね」
C「うん!」

二人は柔らかい表情だ。
そしてお互い納得している。


こんなことが前にもあった。というかよくある。
なにか揉め事が起きたとき、どっちの気持ちにも「そうだよね!」と
本気でわかろうとしていると。
なぜかそれだけで、お互い気持ちが晴れていく?スッキリしていくのだ。

前に絵本の「よんで!」がっせんがあったときも、
「じゃあ、○○はこっちに座って、僕がこっちに座ればいいんじゃない?」
と、子ども同士で解決してしまったことがあったのも思い出した。


大人は、裁く必要がない。
ひとりひとりの気持ちを本当にわかろうとし、
どっちが「正しく見えても」、どっちかが「間違ってみえても」
それは置いておいて。

「どうしようか」

これだけで、子どもたち自身で考え始める。
今回の場合は、一歳児クラスのCちゃんが考えたのだ。

子どもたちは、考えることが大好きなのだ。
いや、人間は本来、みんな考えたい生き物なのだと思う。

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いろいろやってます~
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