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よくやっちゃう伝え方①許可を出しているつもりで反対に否定して縛り付けちゃっているかも?
「ねえお外に遊びに行っていい?」
「宿題しないと遊びに行っちゃだめよ」
こんな感じの会話ってよくあると思う。
「〜しなければ〜してはいけない」という言い方だ。
自分が1日の中でどれくらい使っているか思い出してほしい。
思いもよらぬほどたくさん言っている思っているという事があるのではないかと思う。
例えば、子どもや部下に対して使っているのではないだろうか。
あるいは何かを管理したり維持する事が求められる立場にある人は使いがちなのではないだろうか?
自分自身も小学校という教育現場でいた時、ふとしたタイミングで使っていた事を思い出す。今だと我が子に投げかけている事もあるなって思う。
この言葉は、「ある範疇(ルールや規範など)を超える何かを相手がしよう」とする場合に釘を刺したり、条件付きで認めるニュアンスを伝える時に使う。
「ある範疇を超える」というのは往々にしてあることだ。
そんな時にどうそれを取り扱うのかというのは自分の立場や状況によっては簡単に認めにくい場合もある。そんな時にふと出てくるのがこの言葉だ。
「ねえお外に遊びに行っていい?」
「(宿題をしようがしまいが)遊びにいっちゃだめよ」
と、単純に全否定をしているわけではない分、「よりマシ」な感じはする。
宿題さえすれば遊びに行っていいのだから。条件付きで認めている。
ただ話す側と受ける側では感覚が異なるかもしれないなと思った。
話す側はここまで書いてきた通り条件付きの許可を出した気持ちや意図が少なからずある。
ただ、受ける側は同じようには聞こえていないかもしれない。
「〜しなければ〜してはいけない」
というのを濵畑的にもうちょい分解すると
「〜しなければ〜してはいけない」
「あなたが〜しない…そうであるならば…あなたは〜してはいけない」
「(否定形)ならば(否定形)」
…となる。
これって許可を出されているように聞こえるだろうか?
むしろ「してはいけない」という縛りを強くされたように聞こえないだろうか?
場合によっては単純に「遊びにいっちゃだめよ」とストレートに言われるよりも否定感の強い言葉に聞こえるかもしれない。文章の内容を冷静に受け止めるよりも先に「〜しない」という否定が一つ聞こえ、さらに追い打ちのように「〜してはいけない」という否定(禁止)が聞こえる。
つまり、二重で否定されたように聞こえてしまうのだ。
これはきっと論理的には条件付きの許可を伝える文章ではあっても感情的な部分に先に訴えかけやすい言葉づかいなんだと思う。
これもただ1回言われただけなら、冷静に聞き取って「条件付きで許可もらったんやな」って思えるかもしれない。けど、こういう言葉って結構な頻度て使ってしまっている事が多い。
もしそうであるなら…言われる側、受けての立場からすると「条件付きの許可をたくさんもらっている」という感覚になるだろか?
きっと「二重の否定」をものすごいたくさん聞かされるという感覚になってしまうんじゃないかなあと思う。
こうなってくると「〜しなければ〜してはいけない」という構文に載せられた文章であると聞こえた瞬間に
「あ〜またあかんのか」とか「禁止された」
と言うように聞こえるようになってしまう。次第には話しを聞く事自体が嫌になってきたりあからさまに言ってくる人の事を避けたりするようになったりする。ごくごく自然な流れだ。
話す側からするとたまったものではない。
「ある範疇を超える」と思われる話しだけど、それをまず受け止めようとした結果として条件付きの許可を出しているわけである。単純に否定しているならいざ知らずこんな結果になるのはなかなか受け入れがたい…。
さてどうするべきだろうか?
「〜しなければ〜してはいけない」と言いたくなる場面ではどうすればいいのだろうか?
可能性のいくつかを示してみたい。
どんな事でもいつでも許可する
まず一つはどんな事でもいつでも許可をするという手がある。
これは読んで字のごとく。きっとこれを読んでいる人の多くは「それができれば苦労はしない」と思っている事だろう。自分もそういう事を感じる立場にいる事が多いので同じ気持ちだ。
けど、これは方法の一つである事は間違いない。
許可をする事によって懸念点でる「範疇を超える」という事は起こるだろう。
けど自分が考えていた範疇が実は全然必要なかった…という事も結果を見ればよくある。
許可をもらえる受け手としてはノーストレスでやりたい事にそのまま向かう事ができるだろうし、話し手に伝えて良かったとも思うようになるかもしれない。
結果的に何でもかんでも良くなる場合が多いのが実はこの方法であったりするが、一方で単純な方法論としてこれを用いる事は難しい方法でもある。
方法を用いる裏側としてどんな信念体系がその人の中にあるかという事に由来するからである。今回はここは深く掘らない。
懸念点を投げかける
次の方法が懸念点を投げかけるという方法だ。
今回の場合だと「宿題をやる」というのを一日の中のどこに置くのか?いつするのか?というのが懸念点になりそうだ。
「遊びに行ってはいけない」という代わりに「宿題はいつするの?」と投げかけるに留める。受け手が後は考えて答えを出す。
「ん〜帰ってからするよ!」
「じゃあ今やってから行くね」
「明日起きてからするよ」
などなど。これについてはどんな答えであっても否定せずに「そうなんだね」と受け止めるのが大事だ。ここで「〜というタイミングで宿題しないといけないでしょ…」と、こんな風に言い出すと元の木阿弥だ。
相手からすると…
「結局自分のタイミングでやれってコントロールするんかい」
となってしまうからである。
何でもかんでも許可をするやり方よりは話し手にとっても受け手にとっても心理的負担が少なくなるため採用しやすい方法だと思う。
それに受け手が考えて選択する事ができるので、ルールに縛り付けられているという感覚を持つよりもむしろ自由があるとも言えるだろう。
また、受け手にとって話し手の懸念点は意識しておくべき事である場合が多い。よくあるのはこんなパターン。
「宿題あったよね〜どうするの??」
「あ、そうだった!忘れてた!先にやっとこ〜。教えてくれてありがとう」
この場合、受け手は忘れていた事を思い出す事ができてむしろ感謝する事ができている。これは双方にとって良い結果なのではないだろうか。
ただよくありがちなのは、「宿題は帰ってからするね〜」みたいに言いつつ結局しないというパターンが起きる事だ。受け手からすると、懸念点を投げかけられるという方法については「とりあえず何か言っておけばその場は逃れられる感があるシチュエーションと捉えられやすいのかもしれない。
こういった事が頻繁に起きると、話し手も受け手の行動の先々を予測して「〜しなければ〜してはいけない」という言い方に変わってくるんだと思う。
肯定形だけで表現してみる
いっその事、二重で否定になる表現を二重の肯定形で表現してみるのはどうだろう。否定+否定でなくなる分、感情的な反発は起きにくいのではないだろうか?
「宿題しないと遊びに行っちゃだめよ」(否定+否定の原文。口語な感じ)
↓
「宿題を ”しない” と 遊びに行ったら ”いけない”」(否定+否定)
↓
「宿題を ”する” と 遊びに行って ”いい”」(否定の部分を肯定形に)
↓
「宿題したら遊びに行けるよ」(口語な感じに変形)
「宿題したら遊びに行けるよ」この表現だったらどう受け止めるだろうか?
「宿題しないと遊びに行っちゃだめよ」に比べると、少なくとも二重否定をされるような感情的反発は起きにくいのではないだろうか?
また元々意図していた条件付きで認めるというニュアンスも肯定形の表現の場合、より感じ取りやすくなっていると思う。
ただ「宿題を今する必要がある」という点は強調されるので、こちらを受け手が強く聞こえていると拘束感のある言葉になるのかもしれないな…と思ったりもする。「遊びに行けるよ!」の許可の方が強く聞こえているなら、そこをモチベーションに宿題をさっさと済まそうとするのではないだろうか。
二重否定に比べるとよほど聞こえがいい気がする。
けれどこれを高頻度で聞かされるとなると…そこまでいい気分がしないかもしれない。
ふ〜む、あともう一歩工夫ができないだろうか?
疑問形を駆使して提案する形にする
肯定形にする事によって随分聞こえ方はよくなってきた。けれど、どこか感じる拘束感をもう少しやわらげつつ伝える事はできないだろうか?
そこで疑問形をうまく使ってみたい。
「宿題したら遊びに行けるよ」(肯定形の原文)
↓
「宿題してから遊びに行ってはどうかな?」(疑問形に)
こうするとどう聞こえるだろう?
もとの肯定形の原文に比べると拘束感が弱まったのではないだろうか?
先に述べた、「懸念点を伝える」時のように、相手が考え選択する余地がここには生まれている。
そのため、聞こえ方としては提案を受けているという形になるだろう。
受け手は提案を受け入れてもいいし、蹴ってもいいし、聞いた上で別の方法を示す事もできる。なにせバトンは受け手の側に回されたという状態になるからこの先は自由にする事ができるのだ。
話し手にとっても伝えたい事を伝える事ができている。これは大きい。
「どんな事でもいつでも許可する」の場合、話し手の意見や考えは全く関係なく事が進む可能性があった。(本当のところそうではないと思っているけど、ここでは割愛)仮に伝えたい事があったとしてもそれをぐっと堪える必要がでてくる。これをどんな時にいつでもあなたはできるだろうか???
それこそ条件付きでは可能であっても、”どんな事でもいつでも”となると中々難しい。そのレベルに到達するには少なくとも方法のレベルではなくて個人の考え方や意識のレベルで変容させていく必要があるんだろうなと思っている。小手先だけでは付け焼き刃にしかならないなって思っている。
そういう意味でも疑問形を駆使して提案する形で伝えるというのはすごく便利な方法だし使い勝手がいい方法だと思う。
この方法自体も別に特別な事ではないとは思う。
何気なく使う言葉だと思うし、よく見聞きするものだろう。
けど意識的に使ってみる事で自分の身の回りの様子が少しずつ変わってくる不思議な言葉でもあると思っている。
ぜひしばらく時間をかけて使ってみてほしい!
なんだか今日は言葉に着目して書いてみたがすごく楽しかった。
伝え方とか聞こえ方とか仕事柄、以前も今も意識する事が多いのでまた書いてみようと思う!
それでは!!
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