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仮面人

今日はほとんどがただの愚痴
俺自身の「らしさ」と、人間「らしさ」について書いていこうと思う
誰かの役に立つことではないかもしれないけど
こんなダメな奴も世の中にはいると思ってもらえたら嬉しい

仮面をかぶり続ける日々

突然だけど、俺は自身が何を思い、考え、どうしたいのか
そういったいわゆる主張が出来ない
誰にも話すことが出来ない
一番の理由は誰かに話すにしてはあまりにも「後ろ暗すぎる」から

例えば、「トイレに行きたい」くらいの気軽さで
「死にたい」と考えている
そんなこと誰にも、ましてや親や兄弟に言うことなんてできない
もちろん友人にすら
けど死への憧れと渇望は確かにある
誰に話すことが出来るだろうか
医者くらいのものだ
それにしたってどれほど理解されるのかちっとも分からないし
理解なんて本来不可能なものだと思っている

それと同時に
自分には何も出来ないという絶望感
何もしたいことが無い、何をしても無駄だと感じる虚無感
とにかく早くこの地獄を終わらせたい衝動
そんなものにずっと襲われている

物理的な話になると
俺は味覚障害だと思う
いや、味そのものは分かる
けど、それが「美味しい」のかが分からない
だけど美味しいと言わないといけない
誰だってそうだろう?
味覚はあるのだから
この感覚は説明がとても難しい
例えば、楽しいとか幸せとかの定義が難しいように
俺には美味しいの定義が難しい
頭痛や吐き気も結構な頻度であるけど、黙っている
我慢すればいいだけの話だから

そんなふうに俺は自身を殺し続けて生きている
人間の真似をするように生きている
仮面を取り換えながら生きている
果たしてそれは生きているんだろうか
まだ答えは分からないままだ

哲学的ゾンビという話がある
詳しくは以下を読んでいただけたらいいと思う
少し長いので読み飛ばしても大丈夫

「哲学的ゾンビ」は、心の哲学の分野で提起された純粋な理論的なアイデアで、外見は普通の人間と同じように振る舞うが、内面的な経験(意識やクオリア)を持たない存在を指します。具体的には、哲学的ゾンビは肉体的には人間と同じであり、見た目には何も変わりませんが、クオリア(感覚質)が欠けている特徴があります。クオリアとは、自分にしか体験できない主観的な感覚のことで、楽しいと感じる意識や寒いと思う自我など、個人の主観的な意識を指します。哲学的ゾンビは無感情で冷酷ではなく、人間と同じように感情を表現し、脳内物質が発生していますが、実感としての感覚や感情がない存在です。この思考実験は、物理主義的な考え方に反対するために提唱され、意識のハード・プロブレムと呼ばれる問題を考える上で興味深いものです。

簡単に言うと、極限まで人間のふりをしている人外の事だ
俺と哲学的ゾンビ
どう違うのだろうか
ここが今回の「らしさ」の話になる
まるで仮面をかぶり続けて生きているかのようで
息苦しい
なんでこうなってしまっているのかを書いてみよう

脊髄で生きている

俺は他者のイライラしている状態や、ピリピリとした空気に敏感だ
だからいつも誰かの機嫌を伺っている
だってイライラしている人に対して適切な対応をしないといけないし
ピリピリした空気は読まないといけない
発言一つ
行動一つ
全てに神経を使わないといけない
だからいつまで経っても気が休まらない
俺が落ち着けるのは周囲に誰もいない時だ

ちなみにこれを書いている間も一人だ

なぜそこまで神経質なのかだけど
これは自分でも良く分からない
どうも反射的に神経を使っていると思う
自分でも分からないくらい気を遣う
もちろんそうすることで必ず状況が良くなるわけでも無いのだけど
そうやって脊髄反射で他人の行動に対して生きていると
自分という概念がどんどん薄くなる
自分の事に対して「どうでもいいか」とか
「我慢しとけばいいか」
そんな感じで終わらせてしまうことが多い

その結果として
誰といても気を遣うようになり
自分を殺すようになり
果ては特定の他者といる時には体が痙攣し
まともに食事すら出来ないような状態になった
俺にとってまともに他人と過ごす時間は
基本的にこの世の終わりのような時間だ
安らぎなど、あるわけもない

だから俺は友人が少ないし
恋人もいない
家族にすら気を使い続けるのだから

これはもう習性のようなもので、自身では制御することは出来ない
そうなると前述のように、どんどん人としての感覚が消失していく
それをずっと繰り返している

だったら孤独を愛したらいいって?

そういうわけにもいかない
一人になると、それはそれで酷い状態になる
絶望感と虚無感に襲われて無気力になり
まともな生活すら送れなくなる
およそ一人で生きていくのは難しいだろうと思う

誰かに助けてもらえるのは
助けてもらいたい人間だけだ
助けてもらう準備が出来ている人間だけだ

俺のように助けられても困る人間は
助けることが難しいと思う
だって助かりたくないのだから

事実
一人で生活し、仕事もこなし、趣味も楽しみ
そんな生活をしていた時期もあるのだけど
最終的に俺は発狂した
枕をナイフで切り刻み、酒に溺れ、奇行を繰り返した
結果として入院

つまり、俺は誰かと生きることも
一人で生きることも大変に難しい、といえる

らしさ

人間らしく生きようとすると狂う
自分らしく生きようとすると狂う
人間らしく生きることは俺の願いに
俺の憧れであるこの世からのオサラバに反するし
自分らしく生きようとすると誰かに止められる
だってすぐに絶望するから

生きることはこんなにも難しいことなのかと、思う
少なくとも俺にとっては難題だ
生きるためには自分を殺し
仮面を被り
嘘の感情だけで暮らさないといけない
その果てにあるのは鬱であり、自分らしさの消失だ
結局は道化でしかありえない
それは生きているのだろうか?
まだ答えは出ないが、なんとなく違うと思っている

確かに多かれ少なかれ仮面は被るものだ
偽るものだ
俺の場合そこのバランスが取れないんだろうと思う
極端に他人に合わせるか、自分を取るか
二択しかないし、反射でやってるから制御も出来ない
困ったものだ

妥協案

今のところ妥協案を考えている
生きる目的を、「自殺」にすること

例えば海外では安楽死の制度がある国もある
例えば紛争地帯でカメラマンになるなんてことも出来そうだ

生きて何をしたいかと聞かれたら、俺は死にたいと答えるしかないのだから
そういう生き方しか俺には出来ない

だからこれからもずっと死を見つめていようと思う
死と向き合って、生きようと思う
絶望と、虚無と、偽りと、孤独と、失意に塗れながら生きていこうと思う

それが俺の妥協点
いったい俺は後いくつの仮面を被るのだろう
いつ仮面に溺れて潰されるのだろう
自分らしく生きられないのならそれは
死と何が違うのだろうかと、俺は思っている

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