自己認知を捨てて成長したい

もう自分を信じるのを辞めなきゃなと思いました。
そして全ての思い込みを疑う必要性も感じました。

本記事では「人間は・・・」とか言う書き方を多用していますが、大抵自分の事です。他の人のことは知りません。「私は・・・」と書くにはあまりにも現実が重すぎて逃げた表現をしているだけです。



想像の力と呪縛の解除

まずそもそも人間って・・・って話をしてみます。
人間って、他の生物には無い「想像する力」が備わっているんですね。
想像する力とは、実際には目に見えないのにそこに在ると信じる力の事です。
例えば、神・愛情・友情・信用・幸福・権利・正義・平等性・夢や目標・ 善悪や道徳など。

これらが本当に存在しないかどうかはさておき、「パッと目の前に提示して証明できる物」ではないですね。
しかしこういった概念によって人類は生物の頂点に立ったわけで、「物理的な形で観測できない抽象的な概念を信じる事ができる」という能力こそが人間を人間たらしめていると言えます。

一方でこの人間としての強みが、私を小さな人間に留めているように感じます。
人は、「私は〇〇なんてしない」「私は〇〇が嫌い」とか言う風に、自分を自分で理解した気になっています。けど、人間の考えって小さなキッカケで結構コロコロ変わるんですね。

嫌いだったものが好きになったり、できないと思っていたことができるようになったりする。でもそのキッカケって、本当に小さなことだったりします。その小さなこととは、「何かを体験すること」だと思います。
新しい概念を取り入れることで、「あれ、、意外と良いじゃん、、」とか「あれ、、案外こんなもんか、、」みたいな変化が起きる。
そのささやかな変化を期待して、「やってみろよ!食ってみろよ!じゃないと人生半分損してるよ」なんてよく言いますね。

これらを踏まえた上で、これまでの自分に変化が訪れたタイミングを考えてみると、「外部から与えられた刺激」が多いと気づきました。「新しい友人と出会って誘って貰えたこと」や、「人が言ってたから試してみたこと」などです。

人から言われれば「まあそれくらいなら・そんなに言うならやってみるか」という程度の小さな行動が、思いのほか自発的にはできないんですね。
それは、「私はこういう属性の人間だから」と思い込んでいるせいです。
想像の呪縛ですね。
新しい物に触れ合わない期間が続けば続くほど、それは凝り固まっていきます。新しい人と出会わない期間が続けば続くほど、その自己認知は揺ぎ無い物になっていきます。
本当はそうではないのに、「何年もそう思ってきたからそうだ」と思うわけです。

この呪縛が多い人って、大抵つまらない人間だと思います。
この呪縛が少ない人って、多くの事ができる人間だと思います。

だからこそ、外部の影響に頼らずに、自らの力で新しい環境に飛び込む姿勢を大事にしたいし、否定的な意見にも耳を傾けたいし、自分の興味の範囲外の物事に触れる機会を増やしたいと思っている。



知った気になる自己認知

これまでの話は、まあそんなもんだよねーと思いながら結構意識して生きてきました。しかし最近、もうひとつの落とし穴に気が付きました。
それは、長く続ければ続ける程その事について知った気になるし、ある程度自分の限界を想像してしまうということです。

新しいことを始める前って、頑張ればある程度上位に行けそうな気がするんですね。
そして初めのうちは、どんどん新しい事を吸収して、世界が変わったように感じて、自分の成長や変化が目に見えて、楽しくてたまらない日々が続きます。1を受けたら10を成長する感覚。これまでの経験を通して様々な事を理解することで、自分なりに落とし込んで表現していく。例えば「みんなはこうやってるけど、こっちの方が自分に合ってそうだ」とか、「これを組み合わせたら新しい事ができるんじゃないか」とかいった風に、独自のやり方を身に着けつつ、新たなジャンルでの基礎が磨かれていく。

しかしある程度成熟したタイミングで、10を受けても1も成長しない場面がでてくるんですね。そうすると人は、その辺りが自分の限界だと思い込みます。思い込みたいんだと思います。
10回やっても1つも成長しなくても、11回やれば1つ成長するかもしれない。次は50回挑戦したら1つ成長するかもしれない。しないかもしれない。
こうやって、だんだん成長の感覚が広がっていくんですね。この感覚は上位に行けば行くほど広がっていき、世界レベルではコンマ数秒を争ったりしています。普通の人はそこまでストイックになれないし、なる必要もないから、成長することに飽きてしまう。

多分、「そのジャンルで上位に入りたい理由」がなくて、「自分の成長のため」という観点だけで考えれば、同じことをやり続けるよりも、新しい事を始め続ける方がコスパが良かったりします。
しかし、粘り強くやったからこそ見えてくるものもあるだろうし、その辺りのコスパ理論は明確に区分けする事ができそうにないです。



継続という概念から逃げる

成長を基準にコスパの話をしましたが、成長をコスパで考えて生きている人なんて殆どいないでしょう。たまに、寝る時間を惜しんでだとか、通勤時間を有効活用してとか、マルチタスクして、、なんて話を聞きますが、そんな意識の高いモチベは長くは続かないし、それで大成功した人なんて孫正義くらいしか知りません。

そこまで「ストイックになれ」とは言わないけれど、やはり人間は楽な方に流れるもので、継続しても成長の実感が少ない時、その現実から目を逸らしがちだと感じました。

新しい事を始めた瞬間の目新しさは世界を色付けて見せてくれるけど、だんだんと成長の鈍さにやられてその世界は灰色化していきます。
人間の脳って、自分の行動を合理化したがるんですね。だから今の成長できない環境を諦めて、「ここじゃないどこか」に行こうとしたがったりします。
・自分が成功できていないのは環境が合っていないから
・この能力は他に活かせる場所がある
・新しいところに行けば全てが変わってくる
なんて妄想をしがち。

灰色化した世界で戦い続けるのって大変なんですよね。
けど、一度好きだと思ったこと、一度真実だと思ったこと、それをやり続ける強さについて最近知りました。

様々な事を経験した人間って興味深くて面白いんですよね。色んな知見があって、柔軟性と適応力が高くて、優れた洞察力もあり、問題解決能力も磨かれていたりします。
けど、深みがないんですよね。芯がない。重みがない。

やっぱり、自分の軸を作るという観点で考えた時に、ひとつの事を粘り強くやり続ける力というのは必須だと感じました。



最近の自分の愚かさ

これらを踏まえた上で自分が陥った愚かな思考の履歴を紹介します。

最近、「やらなきゃいけない事を着実に終わらせてスッキリしているはずなのに、なんかずっとモヤモヤして心が忙しない状態」が続いていました。溜まっていた仕事が片付くにつれて、もっとココロオドルような解放感があるかと思っていました。
それは、時間的な余裕を作る事で新しい何かが入ってきて、その新しい何かが自分を成長させてくれると信じていたからです。

それなのに、時間的な余裕ができても何故か全然余裕がないし、新しいことを受け入れられない状態でした。むしろこの余裕のなさに焦りを感じていたりする。

原因を考えた時に、時間的な余裕はあるけど、気持ち的な余裕がないんだと気づきました。そうはいっても、このままでは何も変わらないのは分かっていました。
新しい事は、余裕を作って待っていても入ってこない。新しい事は、こちらから受け入れに行く必要がある。そう思って、新しい事を色々初めてみた。
新しいことは既存のナニカと結び付き、更なる新しいナニカを生み出す。そうやって人生が楽しくなることを知っているから。

「新しい事を始めなくなったら人は終わりだなあ」なんて思って色んな事に手を出したけど、これまでのような新しく色付いた世界が見えなかった。

そんな事を友達に相談しているとひとつの答えが見えてきた。
「だるさから逃げる事はなくなってきたけど、難しさからは逃げてしまうね。」って。良い事を言ってくれる。
「あーたぶんいま自分はその状態なんだなって」と思った。

その時に、自己認知の歪みに気づいた。
「人生に行き詰まったり面白味を感じなくなった時は、とにかく新しい事を始めるしかない。」という理論を元にこれまで成長してきて、成功してきたつもりだった。だから私は「新しい事をやる教」の信者で、それこそが人生を色付ける唯一の方法だなんて思って生きてきた。

その唯一の教典に縋って生きて来たから、「時間的な余裕を作って新しい事を始めているのにモヤモヤが晴れない」なんていう意味の分からない状況に混乱していました。
たぶん、「何をやってもうまくいかないし人生手詰まりのように感じている人」ってこんな感覚なのかなあとか妄想しました。

そんなこんなで私はこの宗教の綻びに気づきました。
まだ何者でもない人間は外部から新しい何かを取り込み続ける必要があるけれど、新しい何かを取り込み続けた次は、「何を生み出すか」というのが次のステップであると気づきました。

結局わたしは、この宗教を言い訳に、ひとつの事を追求する努力から逃げていたんですね。実は本当にやらなければいけない事は頭では分かっていたんです。けどそれを実行するのが苦しいから、気持ちに折り合いがつかずにモヤモヤしていたんです。
このモヤモヤを晴らす方法は、新しい事を始めることでもなければ、美味しいご飯を食べることでもないし、綺麗な景色を見る事でもないし、ゆっくり過ごす時間を作る事でもないんですね。
ただ目の前にある、「すぐには答えが出ないけど考え続ける必要があること」と向き合う時が来たということです。「お前はこれからコンマ数秒を競うような厳しい世界に飛び込む覚悟があるのか」という問いに対して、YESと答える瞬間が来たというわけです。



動けば変わるけど、遅い。

結局今回のモヤモヤというのは解決して、ただ覚悟を決める結果となったのだが、なんともまあ遠回りしたなと感じました。

思考の履歴の通り、悩んで、新しい事をやって、絶望して、また新しい事をして、それだけでひと月くらい経ったと思います。
私はただ自分の思い込みを捨てて、シンプルな正解を選ぶだけで良かったのに。

最後になりましたが、なんでこんなことを記事にしたかって。
それは、仕事もそうだけど、被写体活動もまた手が止まっているからです。
やり続けましょう。



書いてて思ったけど、この内容ってplay jobだなって。
良い本ですよ、play job。何回も読みました。
読んでみてください。

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