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なんか全部ぐっちゃぐちゃになる感じがすき

最近あらためて「被写体ってなんだー」って考え込んでた。
被写体というモノが言語化されてなさすぎて存在がふわふわ。。。
それと同時に自分の存在もふわふわ。
被写体なんてものはこの世に必要ないから明確に言語化されていないのか、それとも認知度が低くて言語化しにくい物なのか。
そんな被写体について、熟考に熟考を重ねて思考も自分もぐっちゃぐちゃ。



自分の中身を全部吐きだすという体験

本気になるのが怖い瞬間がある。
それって、本気になったのに叶わなかったり、本気になったのに勝てなかったり、本気になったのに評価されないことがダサくて惨めでみっともなくて恥ずかしいからだ。
自分より頑張らなくても自分より結果を出す人なんて山ほどいて、頑張っても達成できないことも山ほどあって、けどそれに対して人生を懸けて立ち向かったのかと言われると違うくて、けど人生懸けれなかった時の言い訳はいっぱいあって。

だから大人になるとだんだん戦わないし競わないし表現しなくなる。
自我を捨てて流されて、その流れが多少しんどくても自分でハッキリ答えを出すよりも随分と心地がよくて。
それは人のせいにできるからで、世間のせいにできるからで、時代のせいにできるから。
だからそうなった後の人生は何かに立ち向かうこともなく、自分の現状を十分に嘆いて、いかにわたしという存在が報われていないかを語るだけで良い。(もしくは現状を十分に幸せだと捉えることもできるが、そのどちらも停滞だ。)

そんな生き方をしようと決めたわけじゃないけど、「頑張ろうと決意して頑張る人生」以外の場合だと大体そんな感じになる。
気づいた時には自分を表現する環境すら無くなってるし、どうやって表現したらいいのかさえ分からなくなっている。
そうなってから行う付け焼刃の自分探しなんて意味が無いし、常に自分と向き合い続けたとしても毎回見えてくる自分は違う。
向き合った結果見えてきた「違う自分」を気に入るのか、それとも改善する必要があるのかという判断は都度変わってくるが、それを繰り返すことで少しずつ自分という存在が浮き彫りになってくるのは間違いない。

いまの私にとって被写体とはそういうものだ。

被写体とはただ良い顔をして良い服を着て良いシチュエーションで撮るだけではない。
その時の心情とか全部顔にでるし、不安定なままではありきたりなモノしか生まれないし、目的を持って取り組まないと新しい意味は生まれない。

撮影する度に今の自分が透けて見える。
一枚一枚の写真から不安だったり自信だったり楽しさだったり退屈さだったりが見える。
作品として掲載するのはその中でもポジティブな表現が叶ったものだけだ。
1000枚撮って掲載は10枚。100分の1だ。
その捨てられた100分の99の中にも全て自分の感情がある。

これほどまでに自分の内面を表現して見透かされる体験はなかなかない。



ありのままの自分とは

わたしはよくnoteで「被写体とはありのままを表現するもの」と書いているが、ありのままってなんなのか。
この答えこそが自分と向き合い続けた結果であり、被写体として自分にしかできない表現なんだと思う。

その自分にしかできない表現を行うためには多分、被写体らしさっていうのを追求したらダメなんだと思う。その「らしさ」って、不特定な誰かを示しているから。
それはどれも自分ではないし、人のらしさを真似しても自分らしさにはならないから。

徹底的に自分と向き合い続けて自分を高め続けて最高の自分である努力をしてようやく満足できるんじゃないかと思う。
けどその満足も数日たてば過去のモノになり、新しい何かを取り入れた新しい自分になるためにまた藻掻く日々が始まる。

だから被写体初心者が良くやってる、モデルみたいに着飾ったポーズってむしろ真逆の自分で、それはモデルの仕事であって、それのどこに自分らしさがあるのか。
そんなモデル様から拝借してきたキメッキメなポーズをこれまでの自分の人生でやったことがあるのかと。
そうやって新しい自分を表現しようとする感じが全然「らしく」ない。
もし普段からそういうキャラであったり、もしくはそれに激しく憧れてそうなりたいのであれば構わないが、そうじゃないなら全くもってナンセンスだ。

結局自分って等身大の自分にしかなれなくて、でもその姿が良くって。
自分の癖みたいなものを含めて全部自分で、その癖を含めて自分をさらけ出す。
けど撮り続けていると同じような癖ばかり、同じような表現ばかりしている事に気がづく。それは自分が成長していないという証拠だ。
それは、新しいポーズを取り入れるとか、新しい場所で撮ってみるとか、新しい服を着てみるとかそういったことじゃない。
むしろそれは自分の見え方を誤魔化すだけで、また少し「らしさ」から遠ざかるように感じる。
”妙な”新しさだけは手に入るだろう。



愚かだなー情けないなーって

自分と向き合うたびに思う。
この世の中に自分だけが圧倒的な1位で在り続けられるものなんてひとつもないから、そのちっぽけさに虚しさを感じる。

けどどうしようもないからこそ伸びしろが見えて頑張れる。
もしも世界中の人からちやほやされて自分の愚かさに気づく事ができなかったらどんどんダメな人間になるんだろうなと思いながら、愚かさに気づける自分に感謝して成長していきたい。

「自分なんて」って本気で思ってるからこそ、いつかは謙遜なんて一切しない人になりたいとも思う。「まあ俺だからあたりまえだろ」って。
そうやって自信に満ちた自分を表現することも私にとってのひとつのゴールだ。

でも実際は人として謙遜すべきだし他人も思いやるべきだし時と場合にもよるしいつだって自分が最強モードで居られるわけではない。
けどせめてこの写真の中では最強な自分で居たいなーと思う。

その最強な自分を見て誰かが評価してくれれば、その人にとっての、なにかの枠組みの中で1位にはなれるかもしれない。
少しずつ誰かに評価されたいなーとか思いながら、でもその評価さえも結局は自分と向き合うための手段なんだよなって思う。

他人に評価されて、自分自身でも評価して、自分の内面をさらけ出して、自分の事すらよくわからない部分があって、なんか全部ぐっちゃぐちゃになって。
けどぐっちゃぐちゃになってからじゃないと気づけない事もあって、おもちゃ箱を全部ひっくり返した時に箱の底にあるカスまで床に落ちる時みたいに隅々まで自分の事をひっくり返してようやく新し自分が見えてきたする。

だから全部ひっくり返して自分と向き合ってぐっちゃぐちゃになって良くわからない状態から立ち直ってまた少し強い自分になってっていうその過程も含めて全部すき。 

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