彼が銃を持った理由 あるいはショートフィルムについての本音

はじめに、下の写真を見てほしい。モノクロ画面の中、スタンドの明かりが線を描いている。何やら手元の本に夢中のようである。

スナップショット 2 (2020-06-28 5-08)

この写真から、フィルムノワールの影響あり、と見る人はどれくらいいるだろう。たとえ名作映画を引っ張りださなくても、光と影のコントラストは誰が見ても明らかだ。

ここ数か月、私は日本国内のショートフィルムについて沈黙を守ってきた。クリエイターの端くれとして、あれこれ批判するなんてかっこ悪いと思っていたからだ。しかし、映画の歴史を踏まえてもまるで無意味であるかのような態度に、いよいよ我慢できなくなってきた。日本の酷暑に、ルイス・ブニュエルもフリッツ・ラングも似合わないだろうが、一人くらい「ロベール・ブレッソンに近いね」と声を挙げてもいいのではないか。そういう審査員が一人でもいれば、こんなにも長文を書く必要はないはずだ。

ここ2か月の間、映画に関する本を読んだ。マイク・フィギス「デジタル・フィルムメイキング」(フィルムアート社)は、製作の上で実に興味深い内容だった。ビデオカメラの歴史から、PCでのポスプロ、さらには自らの手による配給まで、余すところなく綴っている。大変に読みやすく、この本1冊でだいたいのことはわかる。そして、もしオーソン・ウェルズがスマートフォンで映画を撮ったら、なんて妄想も容易くなる。

私は10代後半から、洋の東西を問わず映画と接してきた。「死刑台のエレベーター」からマイルス・デイヴィスを知り、繰り返しサントラ版を聴いた。時代をさらに戻して、「アタラント号」に乗船した日も覚えている。ジャン・ヴィゴの生涯を描いた映画も見た。殺し屋アラン・ドロンのトレンチコートから、同じ監督の「仁義」「リスボン特急」を立て続けに見る。極めつけは渋谷シネマヴェーラで「アンダルシアの犬」を体験したことだろうか。わずか15分の短編を見るために、わざわざお金を払ったのは無職の私だ。

先ほど、ルイス・ブニュエルの名前を出したのも、映画館での出会いがあったからだ。世界の映画はオリジナリティでいっぱいだ。それが映画を作る動機になったのである。

反抗期の女子高生と、父親を描いた話だって見せ方があるはずだ。時系列を変えるのも良し、二人それぞれの視点から描くのも良し。サイレントも、もちろんアリだ。デジタルカメラは何も珍しいものでもなく、映画を撮るには最適の道具だからこそ、ここで原点に戻るのは大切なことだと思う。オープニングに曲を流した時点でアウト。泣き叫んだ時点でアウト。シナリオでは、そういう強い決意で挑むべきなのだ。間違っても、どこかにいる男子と体が入れ替わるとか、考えてはいけない。彗星が近づく、という設定では、レオス・カラックスの「汚れた血」の方が数倍いい。しかし、ライトノベルやその周辺の文庫本がどれもこれも似てしまうのはなぜだろう。およそダリの絵とはかけ離れた印象だ。

海外のショートフィルムを見て思うのは、アイデアを生かしているという点だ。「lights Out」はその名の通りスイッチオン、オフを巧に使用していたし、5分なら5分、10分なら10分の見せ方があると痛感する。昨日までの「異色」が、映画祭を通して異色ではなくなる。作り手にとってこれほど名誉なことはない。「異端で悪いか、このやろう」と叫ぶために、彼らは応募する。コンペティションはその受け皿にあると思うのだが、どうやら我が国ではそうじゃないようだ。

棘もなく、棘抜きの道具すら見当たらず……カリガリ博士の出る幕もなく、ノスフェラトゥが暴れるには、あまりに画面が明るすぎる(シネフィルであることを許してほしい。私は本気で怒っている)。かつて大林宣彦監督が映画「ヒッチコック」のインタビューを受けていた。そのとき、「映画は、まやかしだ」と仰っていた。そうだ。嘘でいいのだ。JKを走らせる前に、やはり考えることはありそうだ。

冒頭の写真に戻そう。「峡谷より」というタイトルで、あるコンペに送った映画の一枚だ。名画座通り、と名に惹かれて応募したはずが、いつのまにか通り過ぎたようである。とりあえず急な坂道から、ベビーカーに乗った赤ん坊を引き留めてみようか。

「アマチュアという言葉は死語になりつつある」とフィギスは言う。果たして、何人の審査員の耳に届くだろうか。個性やオリジナリティを見抜けないなら、コンペ自体辞めればいい。

さて窓の外を覗く彼の手に、実は狙撃銃がある。その理由をぜひ確かめてほしい。私は古い洋画が好きだ。あいにくトレンチコートを羽織るには、いろんな意味で早すぎるようである。