ターニャの選択/夕闇・刺青
一台の車が入ってきた。朝日を照り返した黒いGクラスベンツ。Dの顔が確認できた。
河川敷に止まった理由。それはAに、宝石店実行役を引き合わせるためだった。おそらく後部座席に若いチンピラが三人いる。
数分もあれば、朝練に通う高校生が姿を見せるだろう。オルガは草むらから銃を構えた。大きなDの背。そこに描いた鮮やかな鯉を仕留める。
銃声は川辺を一瞬で過ぎていった。オルガは車で川を離れた。ハンドルを握るのはナタリアだった。窓の向こうで、Aが歩いていた。
指示役が消えた今、Aは汚れた岩山の頂点に立とうとしていた。
警察へのタレコミは至って簡単だった。日本人のギャングDの娼婦として話し続けた。それで信憑性が生じたわけではかった。オルガは強盗団が使用する銃器の仕入れ先について、後で話すと付け加えた。
一方、ナタリアは同じ金髪を持つ友人、オルガの服を借りた。口紅も、チークも、話し方も同じ。鏡の前ですべて本人に近づけようとした。実行役の青年を誘い、朝焼けが美しい河川敷で恋人を演じた。
計画に狂いはなかった。
扉の中には、狙撃銃M733が一丁、数百発の弾、黒い帽子、その下に茶色の封筒が一通だけあった。
封筒には、数発のNATO弾と一枚の写真が入っていた。小さな公園で遊ぶ、ナタリアとの子供時代が写っていた。七歳。お揃いの赤いリボンを付けて、錆びだらけのブランコを漕ごうとしている。背中を強く押してくれたのは彼女だった。無邪気な、天使のそれと似た笑顔。その日、オルガは灰色の空に届きそうなくらい、飛んだ気がした。
警察がナタリアの部屋に踏み込んだのは、夜が更けてからだった。机には、トランクルームの鍵が一点だけ残っていた。
ついさっき釈放した女の足が、顔つきが、黄金の髪色が、燃えるような赤い街の灯に消えていた。
八月の暑い午後、トビリシ空港で一人の男が新聞を広げた。
男はヘッドライン記事に目を細めた。日本の地方都市で起きた射殺事件を伝えるコラムだった。現地特派員がかなりのページを割いて執筆している。〈極東の村に響いた銃声〉と題し、地元住民がインタビューに答えていた。
ふと男は窓を見た。数台の飛行機が並んでいる。翼は暮れかけた空に照って変色していた。
再び新聞に目を通した。ページをめくる指が次第に早くなった。男は帽子を取り、額の汗を拭った。
4、夕闇
「パンと大きな音が聞こえて……びっくりしました」
赤ん坊を抱え、女性は続けた。
「私たち、引っ越してきてるので。まさかこんなに物騒な地域だなんて」
午後六時過ぎ、破裂音が最初に確認できたという。
「映画とか、漫画だけかと思っていたんですけど……もう夕方に散歩できなくなりました」
女性は表情を曇らせた。赤ん坊はすやすやと眠っている。
「この子を寝かせて、そのあと銃声なんか聞きたくありません。暴力は嫌なんです」
片田舎に走った二発の銃声は、日が暮れる直前に響き渡っている。猟銃の音と捉える住民はいなかった。地域は農家が中心となって発展、現在も広大な稲が生い茂り、秋の収穫を待つ。ここ数年の間、更地に続々と住宅が建ち並び、従来の田園にはなかった光景ができた。住みやすさ、育児のしやすさを目標にした市政がしっかり功を奏している。
「確かに、新しい家は増えたね。でも冬は大変だよ。風も強いし」
男性はいう。
「それに、田舎ゆえのルールもあるからね。若い子はいろいろ面食らうんじゃないのかな。昨日の銃声? 知らない。物騒なこった」
男性は付け加えた。
「血まみれ。それだけ。これ以上聞かないでくれ」
眉間に皺を寄せている。農道に倒れた二人の遺体。普段は乗用車さえ通らないこの道に、銃で撃たれた人間が転がっている。
明け方、散歩途中の男性が発見。110番した。
「野々市と白山の境目だからね。それなりに人は多いよ」
男性は戸の奥から迷惑そうに言った。
遺体の首に銃弾の痕が確認できた。髪色は田舎に不似合いなほど明るいブロンド。二人共に目立たない黒色のジャケットを着ていた。野良犬が食べたのか、一部は食いちぎった形跡がある。赤い死肉から蠅が飛び交っていた。トンビが嘴で肉を突き、得意顔でカラスに対抗していた。朝からの気温上昇のため、臭いは相当なものだった。
「外国人の死体なんかみたことない。変わったね、この辺りも」
戸の向こうから、吐き捨てるような声が飛んだ。
陽が沈み始めていた。金沢市へとつながる国道一五七号線は車の数が増えている。
食品工場の時計は九時を回っていた。
慌ただしくピッキング作業が始まっていた。コンビニ弁当を一斉に籠の中に入れ、トラックの出荷に備える。かつて存在したコンビニエンスストア〈サークルK〉の弁当もここから運んでいた。
全員が同じ動作を強要、厳重なマスクの下では愚痴も許されない。新入りは男女問わず厳しく指導を受け、ある程度の経験を積んだ者に従う。そのため、声がでかい人間との差は埋まりそうになかった。入っては辞め、またアルバイトの若者が訪れる。しかし彼らも横暴で傲慢な主婦たちに辟易し、すぐに去っていった。
新しく入る従業員に、ブロンドの髪を結んだ女性がいた。
瞳は紺碧に光り輝いていた。
「あなた、どこから来たの」
パート従業員が声を掛けた。
「声くらい出しなさいよ。ねえ、聞いているの」
周囲は騒めいている。大人しい新入りは潰す。たとえ異国からの助っ人であっても、従わない者を抑え込む。それが主婦たちのルールだった。
帰り道に立ち寄るコンビニで、決まって買うお菓子がある。袋に入ったポテトチップス。母国ではこれほどの分量は買えない。店内に足を踏み入れる度に遠く離れた国であることを知る。
マイバッグを片手に店を出た。塩分補給のために買ったポテトチップス、ミネラルウォーター。いつもと同じ商品を、同じ時間に購入する。午後の青い空が解放感を運んでいた。ついさっきまで罵声を飛ばした女の声が遠のく。
携帯電話に留守録の声が届いていた。
「アロー」
聞いたことがある男の声だった。
部屋に戻ると、すぐに窓を開けた。猛烈な暑さが充満しているためだった。白い壁に貼った写真を一瞥、一人の中年男性が上機嫌で写っている。
青い目、ロマンスグレーの髪。頬に刻んだ皺。残忍さが隠せない不気味な笑み。テーブルに並ぶ春巻きや餃子に舌鼓を打っている。
留守録の伝言。声の主は男性だった。
「近藤だ。お前の住所を伝えておいた。奴ら、きっと今日にも石川入りする。準備はできてるか? 農道に行けと、俺は伝えたぞ」
男の声はそこで終わっていた。
シャワーから出た後、ターニャはベッド下を覗いた。カブトムシに似た黒いライフルケースが一個、棺桶のように置いてある。
「サハリンに行くんだよ。その後、船で北海道に入る。日本人と会う約束しているんだ」
キーウの射撃場。そこは大人も子供も同じ銃を構え、同じ弾丸を放つ場所だった。
男はカラジッチと名乗った。
「俺たちもアルバニア人のギャングに怯えてる。奴ら、ロンドンやベルリンまで銃器を運んでいるからね。この銃は国を守るためでもあるんだよ」
カラジッチはAK-49を構えた。ターニャの目に黒い刺青が入った。仏陀が隆々とした筋肉の上で座している。これまで目にした様々な刺青の中で飛び切りに妖しく、美しく映った。
「もし日本に来ることがあったら、連絡しなよ。俺が何とかする。セルビア人を頼ったって捕まることないさ」
カラジッチは銃を片手に言った。
大人に混じって弾を撃つ少年も珍しくなかった。銃声に怖気づく者は誰一人いない場所だった。
射撃場での光景を含め、母国で見た様々な光景がターニャの脳裏を掠めた。
空にドローンを目撃した瞬間、大人たちは銃の先を標的に当て、守ろうとしたのだ。ドローンは地上に激突した。真っ赤な火と灰色の煙が舞い上がった。また警報が響いてくる。ロシア軍の戦車がキーウ近郊に接近していた。逃げ惑う子供たちの声が、耳をつんざくほどの誰かの声が、消えずにいた。