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春の雫、あるいは半自伝的短編 

 川沿いの絵に足を止めたことがある。
 散歩のついで、度々立ち寄っては眺めるようになった。石の上に描いた色鮮やかな生き物たち。蟹もいれば、大きな魚もいる。近くの小学校が卒業生のために建てた記念碑らしかった。
 周囲を見渡すと、川を隔てた先に綱島のマンションが確認できる。鉄橋には東横線急行列車が走り、遊歩道から乗客に手を振る子供もいた。釣りを楽しむ人や、少年野球の練習場もある。長閑で、どこまでも澄んだ空ばかりが目に入った。私は九年間、ここ横浜市の港北区綱島に住んでいた。
 羽田空港へ足を延ばしている間も、絵が頭から離れない。結婚している子、朝からハンドルを握って荷物を届ける子、綱島を離れてそれぞれの道に就いているはずだった。 
 男に出会ったのは、搭乗口までの長い道の途中だ。
 花を育てるため、人を借りているという。花を脅かす雑草の処理。それを道行く人に依頼している、と話した。
 目の前に立って微笑み、旧友を訪ねるような顔だった。見覚えはない。
「こっちだ」
 男は歩き始めた。足元から砂利を踏み締める音が聞こえた。男の背を追うと、同じく砂利のうるさい音がした。そのまま畔道を追う。狭い道が延々と続いていた。知らない道だった。人影もなく、周囲は静まり返っている。住宅らしき建物もない。ぽつんと、ビニールハウスだけが目に入った。
「あれです、今からお願いしますよ」
 入口に、ブーツが二足用意してある。これを履いて作業する。
「とりあえず草、刈ってください。さあ、これを」
 鎌を手渡した。
 私はブーツに履き替え、ハウス内へと踏んだ。陽が降り注いでいた。膝を落とすと地面が焼けるくらい熱い。黒々とした土が広がっている。その上に夥しい草が茂っている。
 刈り始めた途端、ミミズが踊りながら土の中へと入ろうとする。視界の外から泥色のカエルが飛び跳ねてくる。冬眠中を起こしたのか、突然の光に驚いていた。
 ハウス内はどの方角も透明なため、太陽をめいっぱい吸収していた。首の皮を焦がすほどだった。
 鎌を持つ手が休むことなく動いた。
「今度は大根を引き抜いてください」
 男の指示に従い、ハウスを出た。
 緑色の葉が綺麗に並んでいる。両手で一気に引き抜くと、生まれた子供くらいの大きさの大根が顔を出した。
「引っこ抜かないのか、お前」
 私は言った。
「なぜ俺を使った? こんなクソめんどくさい作業になぜ呼んだ? 言ってみろ」 
 男は何も言わなかった。
「聞いてくれよ。横浜から東京スカイツリーが見えたんだ。人差し指でつまむくらいに。指の間に入るんだよ。散歩の途中、ジョギングのついでに触れるんだ。そこはたくさんの家の屋根が広がってさ、電車が横切っていくんだ。ボウリングのピンも見えて、あれはパチンコ屋の印だってわかる。夜に なると、眩しいくらい灯りを放ってさ。よく見ると、地平線に建つその塔まで光っているんだ。夜景を目に焼き付けておけば道に迷うこともないだろうって思った。夏の夜も、冬の朝も歩いた。梅が咲く公園には、いつも人がいない。がらんとしてる。もしあの日の俺に会いに行けるなら、なんて会話ができる? それでも俺を雇ってみたいか? 知らない土地に連れて、顎先で人を使ってみたいか? 俺は川の見える場所に着いた。広い川だった。犬の散歩と、健康のために走る人がいた。ある日コンクリートのオブジェを見つけたんだ。子供たちの絵だった」
 人の足が通り過ぎていく。私は大きく息を吸った。
「どうぞ」
 男が差し出した煙草を払いのけ、胸倉をつかんだ。その瞬間、薄紫の花が空港の床を埋め尽くした。リラの花だった。眩暈がして、自分の足元を支えるのがやっとだった。
 男は花びらの床の底に消えていなくなった。(つづく)