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牛肉を愛した偉人たち ⑤・夏目漱石

 夏目漱石(1867~1916年)は帝国大学(現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めたあと、文部省給費留学生としてイギリスへ留学。2月号で紹介した森鷗外とは明治後期から大正初期にかけて斯界を代表する双璧である。鷗外がドイツのベルリンを中心に4都市で精力的に学び、かつ恋愛にも励んだのと違い、漱石のロンドン移住は孤独と苦悩に満ちた約2年(769日)だったらしく、一時は日本国内で漱石発狂説がまことしやかにささやかれた。漱石自身も後年、『文学論』の中でこの留学を「もっとも不愉快の2年なり」と記述している。
 夏目漱石を題材にしてエッセイを書こうというからにはあまりにも有名なあの「名前の無い猫」を冒頭にもってこなくては恰好がつかないだろう。
 
 「ちょいと西川さん、おい西川さんてば、用があるんだよこの人あ。牛肉を一斤いっきんすぐ持って来るんだよ。いいかい、分ったかい、牛肉の堅くないところを一斤だよ」と牛肉注文の声が四隣の寂寞せきばくを破る。「へん年に一遍牛肉をあつらえると思って、いやに大きな声を出しゃあがらあ。牛肉一斤が隣り近所へ自慢なんだから始末に終えねえ阿魔あまだ」と黒はあざりながら四つ足を踏張ふんばる。吾輩は挨拶のしようもないから黙って見ている。「一斤位じゃあ、承知が出来ねえんだが、仕方がねえ、いいから取っときゃ、今に食ってやらあ」と自分の為に誂えたもののごとくいう。「今度は本当の御馳走だ。結構々々」と吾輩はなるべく彼を帰そうとする。「御めっちの知った事じゃねえ。黙っていろ。うるせえや」と云いながら突然後足あとあし霜柱しもばしらくずれた奴を吾輩の頭へばさりと浴びせ掛ける。吾輩が驚ろいて、からだの泥を払っている間に黒は垣根をくぐって、どこかへ姿を隠した。大方西川のぎゅうねらいに行ったものであろう。
 
 これは『吾輩は猫である』の前半部分で吾輩の飼い主である沙弥しゃみ先生の近所に住むお神さんが西川に牛肉一斤いっきんを注文する場面である。黒というのは吾輩の先輩格のべらんめえ口調のボス猫。この西川は当時、一高前に実在した西川牛肉店である。
 漱石は牛肉が大好物で、多くの小説や紀行文などの随所に記述が見られる。
 その辺のいきさつを次男の夏目伸六が著した『父・漱石とその周辺』、「父の家族と卒業祝い」から覗いて見よう。
  
  ところで、父が大学を卒業した時、何かお祝いをしてやろうという高橋の伯母に対して、父は即座に、それなら牛肉を腹一杯食べて見たいといったそうで、早速、 当時の金で一円程の牛肉を買って、馳走したというのだが、果してどれ位の分量があったものか、流石の父も、この時ばかりは食い切れず、遂に半分ほども残してしまったということである。もっとも、それまで、月々二円の食費を払い、十銭のこま切れを、同勢七八人で、一ツ鍋から突ついていた父だから、一時に、そ の食費の半分程の牛肉を、一人で、全部食おうとしても、これは一寸無理な相談で、意慾は如何に旺盛でも、土台腹の皮の方が承知しなかったのに相違ない。唯、長い間、食いたい一心の念願を果し、生まれて始めて、思うさまに、好きな牛肉を飽食したのだから、父にとって、これはまさに何よりの卒業祝いであった筈である。
 
 また漱石が明治42(1909)年の満州・朝鮮旅行をつづった『満漢ところどころ』に、学生時代の描写がある。
 
  橋本左五郎とは、明治十七年の頃、小石川の極楽水の傍で御寺の二階を借りていっしょに自炊をしていた事がある。その時は間代を払って、隔日に牛肉を食って、一等米を焚いて、それで月々二万円ですんだ。もっとも牛肉は大きな鍋へ汁をいっぱい拵えて、その中に浮かして食った。十銭の牛を七人で食うのだから、こうしなければ食いようがなかったのである。飯は釜から杓って食った。高い二階へ大きな釜を揚げるのは難儀であった。
 
 漱石は友人たちと頻繁に牛肉を食した。明治38(1905)年夕方数え39歳の漱石は東京・千駄木の自宅で俳人の高浜虚子と歓談していた。そこへ門弟のひとり、寺田寅彦(*筆者注)が手土産のビール3本さげてやってきた。実は二日前にこんな葉書を出していた。
*「天災は忘れた頃にやってくる」という名言を残した物理学者・随筆家
 
  明後二十五日土曜日、食牛会を催おす。鍋一つ、食うもの曰く奇瓢、曰く伝四、曰く真折、曰く虚子、曰く四方太、曰く寅彦、曰く漱石。午後五時半までにご来会希望致候
 
 この葉書は県立近代文学館に所蔵され、勢いのいい筆致からも、会の楽しさが伝わってくような趣がある。事実、漱石は甘いお菓子と脂っこい洋食には目がなかった。
 
漱石と牛
 漱石は江戸の牛込うしごめ馬場下ばばした横町よこちょう(現在の新宿区喜久井町きくいちょう)に出生したが、この「牛込」という地名は701年の大宝律令により「神崎の牛牧」という文武天皇(701~704)の時代、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もあった。
 大宝元年(701)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするため天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられた。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場だったので、「牛が多く集まる」と言う意味の牛込と呼ばれるようになった。
 
 漱石は生涯におびただし数の手紙を書いている。岩波書店の『漱石全集』にはごく一部の2,502通の手紙がおさめられているが、実際は十万通近く書いたとも言われている。生涯に一通も書かないのがまれではない現代人からすると常軌を逸していると思うかもしれない。漱石は、やがて作家となる芥川龍之介と久米正雄に、亡くなる年(大正5年)の夏の手紙にこう記されている。
 
  この手紙をもう一本君らに上げます。君らの手紙があまりに潑溂としているので、無精の僕ももう一度君らに向かって何かいいたくなったのです。いわば君らの若々しい青春の気が、老人の僕を若返らせたのです。(中略)
牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。僕のような老獪ろうかいのものでも、ただいま牛と馬とつがってはらめる事ある相の子位な程度のものです。
あせっては不可いけません。頭を悪くしては不可せん。根気づくでお出でなさい。世の中は根気の前に頭を下げる事を知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです。それだけです。決して相手を拵えてそれを押しちゃ不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て来ます。そうしてわれわれを悩ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
これから湯に入ります。
 八月二十四日
                   夏目金之助
芥川龍之介様
久米正雄様
 
 漱石はこの手紙をしたためて三月ほどしてから胃潰瘍を悪化させ亡くなる。臨終の間際まぎわに「何か食いたい」言いだし、医者の計らいで一匙の葡萄酒が与えられた。漱石は「うまい」と言い、そして静かに眼を閉じた。
 翌日、なきがらは故人の遺志を汲んだ鏡子夫人の決断で解剖に付された。
重さ1,425グラムと、日本人男子の平均よりちょっと重たい漱石先生の脳と胃は、今も東大医学部標本室に保管されている。

                初出:『肉牛ジャーナル』2023年5月号


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