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【書籍】民主主義とは何か③ 第二章 ヨーロッパへの「継承」_1

古代ギリシアで民主主義が生まれたとすれば、その重要な条件として「対面社会であったこと」「すべての公職が原則として抽選で選ばれたこと」が挙げられる。しかし、現代の我々が民主主義と捉えているものは、これとは大きく異なる政治体制にみえる。実際、我々は自ら国会に赴いて、国政について他の市民と議論を交わし、意思決定することはない。公職についても、選挙で代表を選んでおり、抽選ではない。ただし、アリストテレスによると、選挙はむしろ貴族政に近い仕組みであると述べ、抽選こそが民主主義にふさわしいと考えていた。では、我々が日常的に民主主義と呼んでいるものは、本当に民主主義と言えるだろうか。古代ギリシアの民主主義を、近代ヨーロッパが本当に継承したといえるか、改めて考えなおしていく。


イタリアの都市国家

十一世紀頃、北・中部イタリアではコムーネと呼ばれる都市国家が発展。コムーネの都市貴族たちは封建領主と戦い、自治権を獲得していく。その後、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ一世と戦い、最終的にレニャーノの戦いにおいて勝利した都市国家連合は、コンスタンツの和約によって、その自治権を正式に承認させた。コムーネの中核をなしたのは、中下級の都市貴族たちであったが、このような貴族たちによる寡頭的な門閥支配は、やがて揺らぎ始める。混乱したコムーネでは、一人制の執政官職であるポデスタ制が採用された。利害関係のない外国人の貴族がポデスタに任命されることで、コムーネは安定した。さらに興味深いことに、コムーネの内部ではやがて平民(ポポロ)が台頭していったことだ。平民は、都市を支配する旧来の貴族と対決し、自分たちの組織をもつようになる。アルテと呼ばれるギルド組織がそれであり、その最高委員であるプリオーリが都市の政府に加わる。
このように、初期には貴族たちが独自の評議会をもつ統治組織を構成し、やがて平民の地位が向上するにつれ、その参加が制度化されていった。ここに古代ギリシアにおける公共的な議論による意思決定であった「政治」と、人民の政治参加と責任追及システムである「民主主義」がイタリア半島において復活する可能性が生じた。
しかし、このような都市共和国を、直ちに民主主義とは呼べない。たしかに、各アルテはその代表者であるプリオーリを政府に送り出したため、代表制の萌芽をみることはできる。が、これは、複数の集団が代表を通じて、互いの利害を調整していたに留まり、市民の直接的な政治参加がなかった。しかも、その後は党派争いが続き、最終的にはシニョーリア制と呼ばれる有力貴族による独裁制が成立し、コムーネは自己解体していった。民主主義の経験として見る限り、イタリアの都市国家は失敗に終わったとみる。

起源としての身分制議会

議会制そのものは、必ずしも民主的であるとはいえない。西欧の議会制は、元々は身分制議会であった。貴族や聖職者などの諸身分の代表者で、課税問題などをめぐって王権と交渉を行う場が議会であり、西欧の封建社会に由来する仕組みである。封建社会において、王権は存在するものの、実質的な権力は各地に散らばる封建領主の間で分割されていた。領主は、軍事力をもち、司法を行い、秩序を維持。国王に対しては奉仕義務をもち、戦時には自ら群を率いて貢献することが求められた。一方、戦時以外の平時では、国王の歳入のほとんどは、自らの直営地から得たものだけ。つまり、国王が大規模な常備軍や官僚制をもてない状態であった。
王権は前述のようなものから始まったが、初期は司法権の掌握を通じて権力を拡大。その後は戦争に応じて、領土全体への徴税権を拡大していった。このように、初期の国家は、国王の個人的資産から成っていたものが、次第に人々からの納税によって支えられる国家へと成長を遂げる。国家は税を課すことができるようになるが、そのためには身分制議会による承認が必要。身分ごとの代表を召集した議会に、課税を正当化するための承諾を求めていった。
これがうまく進まなかったことで、悪名高いのがイングランドのジョン王。ジョン王の相次ぐ課税要求に対して貴族たちが反乱を起こし、1215年には「マグナ・カルタ(大憲章)」を結ぶことになる。貴族たちは、自らの自由と権利を王に承認させ、王権に制限を課すことに成功。国王といえども、権力は無限ではなく、臣民の自由と権利を守り、法の支配に服する限りで、支配は正当化される、ということが確認された。
このような国家システムが整備される中、身分制議会は、当初は特権者のための機関であったが、国家に対する抵抗の拠点になっていく。国家が一方的に強くなり社会を従属させてしまうと専制国家になる。逆に、国家が弱体で社会の抵抗だけが強くなれば無秩序になる。両者の間に均衡がある場合にのみ、国家は社会に対して一定の説明責任をもつことになった。
政治学者のフランシス・フクヤマは「集権化する国家とそれに抵抗する社会集団の間の対決の物語」「国家と抵抗勢力の均衡がとれているときに、説明責任を果たす政府が生まれた」と論じている。また、経済学者のダロン・アセモグル、政治学者のジェイムズ・ロビンソンによると、国家と社会が危うい均衡を実現することを「狭い回廊」と呼び、この「狭い回廊」を潜り抜けた国だけが、自由と繁栄に近づいていったと主張。

イングランドの近代化

17世紀前半、イングランドでは王権と議会の対立から内戦が生じ、一時的に王政が廃止され、議会制の共和国が成立。この時期の最大の政治思想家であるトマス・ホッブズが、「リヴァイアサン」を執筆。個人の生存権を保証するためには、無秩序状態を克服できる存在に、全員が各々の自由な権利を委ねることが必要であると説き、その譲渡先として強力な空想上の生き物であるリヴァイアサン=国家が必要だとした。
 その後、イングランドでは王政が復古するが、宗教問題を契機に王位継承法危機が生じ、議会派主導の下で、再び名誉革命が実現。この時に議会派のリーダーの下にいたのがジョン・ロック。彼の「統治二論」は、この時代背景にして書かれたもの。強力なリヴァイアサンを打ち立てる一方で、それを制約し、枠付ける議会の力も確立したのがイングランドであったと。結果的に、いち早く「狭い回廊」をくぐり抜けた。

(続く)

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