僕がおとなに期待したこと

僕がおとなに期待したこと
それは34歳になる今、あまり実感として得られていない。

これは父から得たことかもしれないが

今の社会のおとな、で尊敬ができる人
というのを幼少期はたくさん期待した。

でも今34歳になると、そんな大人はたくさんいない、ということに気がつく。

むしろ「こんなものか」と思う人の方をよく見てきた。

幼少期ながらに期待した「おとな」
小中高と発展してく中で育った真の優秀な「おとな」像に
自分は近づけているだろうか。

諦めたら、おそらくそんな「おとな」にはなれない
幼少期、小中高、大学に行った人は大学、そして社会

あまりにいろいろな環境を理由にすることが許容されているから
小中高の頃に描いた真の優秀な「おとな」というのはどこかに隠れてしまっている気がする

わたしの通っていた中学高校は進学高校で、武道優秀の上、医者や国公立大学に平然と進む先輩の集まる学校だった。
僕もそんな中、テニスに目覚め、文武両道といえるような生活を送っていた。
でも、僕は自分よりも優秀な「おとな」というのを確かに見ていた。自分よりも優れ、社会を見通せ、発信し、社会を変えていくエネルギーに満ちた先輩方を確かに見ていた。

でも、自分はそんな「おとな」になれているだろうか。
大学であまりに多くの関係性を構築する中で、そうした自分の純粋な部分も少し冷えてしまったのだろうか。
でも、こころのどこかで信じている。

そんな「おとな」が社会を動かしている。

社会を動かすというのにもいろいろあって。
僕は、正しく発信し、社会に自分の色を波及させ、そして考えさせるタイプの「おとな」に憧れていた。
そうした人は共通して、スポーツなどで何か集中して努力が結実した経験を持っているタイプの人で、そして同様に文の部分でも自分の専門性を見つけられている人、であった。
そんな「おとな」に自分もなれているだろうか。


今、わたしは「技術者」になった。

昔から、社会の役に立つ仕事、社会の基盤や、生活、インフラ、人のためになれる仕事に憧れがあった。
医術や学術や学問を教える方々、士業の方々はかっこよく頭がよく賢く、スポーツで人を動かすようなタイプであった自分は本をずっと読んでいるような仕事がイメージできなかった。そこまでの学問の追求はイメージができていなかった。
でも、幼少期、小中高、大学、の中で描いていた「おとな」

これにはそうした専門性、頭を冷静にする部分がどこかで必要になるはずだ、そう思っていた。
でも学生時代はテニスに頭が熱くなって、全然そっちに手がつかず、いろいろな人に迷惑をかけた、そう思っている。

今、社会に入って学生時代の反省を活かして、勉強した。本当にたくさん勉強した。
だから、今「おとな」に近づいているだろうか。

だから、今、もしそういう「おとな」になれたらいいな
そう思っている全ての幼少期の少女少年、小中高、大学の学生に自分もさらけ出さないといけないと感じるようになった。
そういう「おとな」ではない、反面教師だったとしても、「おとな」というものを映す人は極端に少なくなっていると感じる。

いよいよ僕らが社会を動かしている時代になっていると思う。

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