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泥メンコ発…鉛メンコ経由…面バイ行説(ベーゴマ考97)

泥メンコ発

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今から300年前の江戸時代
泥メンコを用いた遊びが大流行し、あまりの加熱ぶりに何度も禁止された。初めは「面打(めんちょう)」と呼ばれる円盤状のもの、
それから江戸後期には、人面や人形をかたどった「芥子面(けしめん)」と呼ばれるものが出てきた。
わたしが拾いにいった、江戸の泥メンコが有名であるが、日本全国でいろんな泥メンコが作られた。
京都の伏見や、和歌山など関西でも作られていた。

作り方が面白かった。

やってみたい。

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 「めんこ」の起源は平安時代の「意銭(いせん)」などの遊戯にあると言われているらしい。「意銭」とは地面に線を引いて、その向こう側に銭をまいて、適当な距離から銭を投げて、敵の指定した銭に打ち当てるという遊びらしい。「銭打(ぜにうち)」とも言われる。江戸時代には「穴一」と呼ばれる遊びがあった。 地面に掘った小さな穴に、貝や木の実などを投げ入れ、穴に収めた者を勝ちとする遊戯である。これは先の「意銭」と同じ系統だと思われる。

銭打で使用されるものが、
銅銭から絵銭に変わりその後
江戸時代の天保年間には「穴一」の遊具として「泥面」を用いることが広まっていたという。
これが粘土を焼いて作った1〜3cmの円形を基本とした「泥面」で、その形態から「面打(めんちょう)」「芥子面(けしめん)」「面模(めんかた)」に分類されるという。円盤状の「面打」、人物の顔や動物をモチーフとした「芥子面」、「面模」とは仮面のことだからお面のようなものだろう。
江戸中期〜幕末にかけてその全盛期を迎えたと言われています。
小型のもの、さまざまな模様のものや当時の人気俳優の紋章、火消しの纏、角力、芝居、江戸の地名など、その種類は様々で数千種類あるとも言われ、
遊び方も様々で、地面に区画を描きそこに面子を投げ入れ、前の者の面子に重なれば自分のものになるというような遊び方や、地面に描いた区画から互いにはじき出したり、投げ合って表が出たものが勝ちとする遊び方もありました。明治時代にはこれらの遊びは「めんこ」と呼ばれるようになり、「泥面」などを用いた遊びは後世になって「泥めんこ」と総称されるようになったという。「泥めんこ」の流行は明治の初期までで、木、練、鉛、紙、ゴム、ガラス製などのものが各地で作られるようになりました。泥メンコは「鉛めんこ」の登場で衰退したと言われている。

鉛メンコ経由

こないだ、東寺のガラクタ市で
まともにじっくりと
鉛メンコを見ることができた。

そこで、見つけたこれ

なにこれ?
って聞いたら、泥めんことの過渡期にあたり、
泥面型に鉛を入れて作ったものだそうだ。

鉛メンコって
薄いやつしかないとおもってた
つまりこういうの

こんなかんじの鉛メンコは
厚さは1mmとかになる。

とりあえずお城型の少し厚いものを買ってみた

もっと厚みがあるものもありそうだな。
と検索すると

あったあった!

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これなんて面バイそっくりや。

明治10年代になると
薄い鉛製のめんこが急速に普及したと言われる。
「泥めんこ」の時と同じように、
ぶつけて飛ばしあっていたが、
しかしやがて鉛という材質に適した「起こし」と呼ばれる遊び方が一般的になったらしい。
「起こし」とは「相手を反転させる」ことで、
今の紙メンコと同じ
「相手をひっくり返す」遊び
が生み出された。

一方で立体的な鉛メンコは
泥メンコの遊び方「穴一」をうけついだ。

1897年頃に日本で販売された炭酸飲料(ラムネ)の栓として使われていたガラス玉を取り出し、玩具として使われ出したのがビー玉遊びの普及の始まりである。初期のビー玉は、クレーターのような大きなくぼみや歪みがあるなど、形がいびつなものが多かった。
1900年に鉛の玩具使用が禁止され
1937年から日中戦争に突入し金属が戦時需要によって子どもたちの前から消える。

一方
1933年頃に駄菓子屋等でビー玉単体が商品として販売され始めた。朝鮮半島でも日本統治時代の1936年頃から売られるようになり、ビー玉遊びが普及した。
同時期「紙めんこ」が登場する。最初は子どもたちが画用紙を幾重にも折って「紙めんこ」を作っていたが、「ボール紙(板紙)」が量産化され、印刷の技術革新もあり「紙めんこ」の普及とともに鉛メンコは廃れていったのであった。

「穴一」遊び側の鉛メンコの要素は
ビー玉が継ぎ、
「おこし」遊び側の鉛メンコの要素は
紙メンコが受け継いだ。

面バイ行

おもちゃ博物館【羽子板•凧•独楽】より

普通に考えて
顔を回す発想はなかなかうまれない。

面バイの
ひょっとこ
おかめ
力士
鉄兜


これに加え、「くずれ顔」がある
はかなり特殊なベーゴマと言える。
異色である故に初期段階で姿を消した。


玩具をどのようにつかうかは
それを手にした子どもたちが工夫するものなのかもしれない。

そう考えると、この「面バイ」も
穴一を行う、泥メンコや鉛メンコの代わりとしても使えるようにその形を継いだのではないか。
そして、一部の子どもは
鉛メンコをベーゴマのように回していた子がいたと仮定したら…

子どもたちのすぐそばに
「穴一」の面子遊びと
バイ回しは並行してあった。
そのため、江戸期に同じ通知文の中で
双方の禁止が記されている

泥メンコは「穴一」などの遊び方のため
ぶつかった時に欠ける
その弱点を鉛にかえることで
強度が増した。

鉛メンコがぶつかって変形することがある
顔の形が曲がるわけだ
その形状のことを「オカチメンコ」とよぶ
一説では雄勝石(宮城石巻)で作ったメンコが
すれて曲がった様子から
といわれるが
雄勝石は硯やスレート(石の屋根材)
などにつかわれる。
薄い板状になるため
加工されやすいがメンコの画像はでてこないし
擦れるとは考えにくい。あって「欠ける」だ

鉛メンコが禁止され作れなくなった際に、
職人がその型に手を加え
ベーゴマの要素も加えた「面バイ」ができたのではないか。

あくまで説であるが
面バイの由来について
調べている人はおらず
大正から昭和の頭のころに関西で突如出現し
異様さもあわさってすぐに消えた。


先日、メンコの収集家に見解をきいたら
やはり泥メンコの流れを汲んだと考えることが自然であろうといわれる。

いろいろしらべても、
面バイは
泥メンコ発→鉛メンコ経由→
面打➕ばいまわし➕職人の技術と遊び心
この流れでできたと
私は考えている。

けど当時の職人さん
明らかに「おかめ」はバランス悪いで。
下膨れ顔のほっぺで相手ぶっ飛ばすとか
狂気の沙汰や。

そして、縁起物を回すなんて…

ん…

あ…

独楽の縁起を足したのか??

福が回る→何度も福がまわってくる。

なるほどこれはありだ。

鉄兜と狗は
狗は後ろに肉弾三勇士があるから
1935年くらいにつくられてる
では戦意高揚のためかな。

鬼は裏面がわからん
力士は有名な相撲取りをモチーフにしたのかな

調査はつづきます。



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