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DISTANCE.mediaのトークイベント「記憶のデザイン」~記憶が消えないうちの記録

2024年3月17日(日)に開催されたDISTANCE.mediaのトークイベント「記憶のデザイン」。記憶が消えないうちの記録を残す。

オープンで集合知的なインターネットが発明されたことと記録メディアの飛躍的な向上によって、無限に記録と記憶が可能な情報環境が実現し、検索ひとつで世界を見晴らせる展望台を獲得できる世界を、私たちは思い描いてきました。しかし、めまぐるしく押し寄せる情報の波は、過去をまたたくまに押し流し、私たちの足場を時々刻々と組み替えています。

さらには、精度の低い情報、偏った情報、誤った情報が流通し、情報環境の劣化・汚染にもさらされています。いわば、記録も記憶もおぼつかない情報環境のなかで、私たちはこれからどのように見晴らしを確保すればいいのでしょうか?

そこで、今回、私たちの足元を再確認するためにも、「記憶のデザイン」をテーマにトークセッションを行います。このテーマは、本メディアの編集委員である山本貴光さんの著書のタイトルでもあり、これまでのDISTANCEの記事でも課題としてとりあげてきました。 (「02 記憶の世話をするメディア/弱いメディアを実験する」)

編集委員である山本さんとドミニク・チェンさんをホストに、ゲストには、場所と記憶をモチーフに小説を生みだされている作家の柴崎友香さん、現在の情報メディア環境のなかで思索と実践に架け橋をかける哲学者の谷川嘉浩さんをお招きして、トークセッションを行います。


<イベント情報>
出演者:柴崎友香(作家)/谷川嘉浩(哲学者)
山本貴光(文筆家・ゲーム作家)/ドミニク・チェン(情報学研究者)

日時:2024年3月17日(日)
開場:12:30 開演:13:00-16:30(予定)
内容:第1部 柴崎友香×山本貴光「記憶と場所」
   第2部 谷川嘉浩×ドミニク・チェン「記憶とメディア」
   第3部 出演者全員によるトークセッション+会場からのQ&A
会場:OPRCT SPACE T (地下3階)
 東京都渋谷区上原1-29-10
 代々木上原駅(小田急線・東京メトロ千代田線)南口1より徒歩1分
 https://www.oprct.com/

https://distance.media/announcement/

【第1部】「記憶と場所」 柴崎友香×山本貴光

会場のミラーボールがいつ回るか。
『記憶とデザイン』の出版。SNSを日々使うが、翌日には内容を忘れる。白昼夢を見る感覚で、覚えていない。
記憶を助けるようにできないか、情報を見晴らせないか、という問題意識。
岸政彦さんとの共著エッセイ『大阪』。こどものころの記憶は、比較的覚えているほう。
時系列によらない濃淡はある。静止画の解像度があがる。
『続きと始まり』『百年と一日』
時間が残酷に進み、場所も変わる。場所がむしろ主人公。記憶が場所とともに刻まれる。
コロナ禍。今となっては、「マンボウ」すら忘れている。日常に寄り添う小説でこそ思い出せるものがある。
他者のからだで体験できる、内側の感覚がある。
BBCのドキュメンタリー。世界一寒い・暑い・乾燥する場所をレポートする。映像より文字のほうが刺さる。
小説を読まないという東工大生向けの言葉として、文学は他人シミュレーターであると伝える。
メディアが記憶と結びつく。スマホと基本構造は同じでも、テレビは受動的。
テレビでは別チャンネルの番組は並行する。並行する時間の世界観が、小説にもつながる。
箱庭のシミュレーションゲーム。背景の世界が動いている。バルザックの人物再登場法の想起。
そういう前提で書いている。どっちを見るかの問題であり、時間は止められない。
テレビは場所が固定されている。スマホは固定されないからこそ夢のように流れてしまう。
場所の記憶は動物的。一方、スマホにより過去が近くなることもある。
電子書籍と紙の本。場所や量の感覚。ページの戻りやすさ。
物理は動物的。記憶のフックになる。
変化のなかで気づくことがある。カメラの機種の違いからも過去を考えることができる。
100年後に復元できる文章。具体性を書く。
ボルヘスらの引用。あらゆることは人間にとって現在にのみ起こる。他人の記憶とも行き来できる。
記憶と知覚は、明確に区別されるものではない。

【第2部】「記憶とメディア」谷川嘉浩×ドミニク・チェン

『スマホ時代の哲学』は、どういう本か。執筆のモチベーションは。
デバイス全盛の時代。複数台を持ち歩けてしまい、しかもマルチタスク。信号待ちでも待てない。
注意が分散する状況に愕然とする。気も漫ろにする教育装置であるスマホとどのように向き合うか。自己啓発本に擬態する。
平易な文体である。失われた孤独がキーワード。
ツイッターを触るのがよくない、とツイッターで呟いている。
哲学の「最近」は100年。悠長さがよい。哲学だからこそできる相対化がある。
ネガティブ・ケイパビリティ。遊び場のような言葉。悠長さを保持する旗印になる。
隠れ吃音の秘密結社。とっさに言い換える。
『どもる体』を通して、回避しなくてもよいという安堵を得る。優雅な吃音。待ち時間との衝突。
『未来をつくる言葉』。脱線の許容。記憶のキーワード。娘のために日本語を忘れたふり。記憶が体験をつくる。記憶を他者と共有する前提がある。あえて記憶を抜くシミュレーションをする。
身体は原初的なメディア。忘れることができる特性がある。GDPRの忘れられる権利。
忘れることと忘れないことの両極。ある種の科学史上主義・エビデンス主義がある。
コンピューターメタファーで人を語る風潮。フランシスコ・ヴァレラは、知性をコンピューター用語で語る間違いを指摘する。
Memex。当初は、コンピューターを人間のようにつくろうとした。
人間は、テクノロジーを通して自己理解する。馬力、エンジン。
思い出す作用は、向こうからきてしまう。黒歴史側にも忘れられる権利があるとよい。
よしながふみ。年齢は記憶を解決してくれない。
からだはバグっている。ネットはコンテクストを見ない。我々は文脈ありき。
ミクシィの黒歴史。たしかに自分だったコンテクストがある。フローによるTwitterのタイムラインでは、結節点すらも流れる。
SNSは物理的表現がない。つくる側もローコンテクストになってくる。
ホラー映像すら細切れ。だから記憶に残らない。
スクリーンタイム。スマホの利用は、ある種のKGBの洗脳訓練のよう。語り直しの契機が生まれづらい。ドッグイヤーや手触りによる情報の場所性。
スマホは精神のコンビニ。安堵感と残念感がある。パリのスタバを避けるときに何が起きているのか。一種のセーブポイントのような感覚。
コンビニに罪はない。紙へのアクセシビリティへの批判もある。”紙”礼讃ではない。
スマホ脳。ゲーム脳。
哲学の視点から考えることに勇気づけられる。新しい言葉とのセットの考えが必要。

【第3部】「記憶のデザイン」柴崎友香×山本貴光×谷川嘉浩×ドミニク・チェン

テレビっ子は1日8時間見る。クラスで視聴時間を問われたとき、2時間で質問が終わったことを残念に思った。
体験の性質の違い。あまりテレビは注視しない。スマホは散漫。
物忘れ。電話番号は忘れた。
ゲームクリエイターでも、ググれば答えがわかるので覚えない、という文化。思い出し耐性が弱くなる。個々の忘れた自慢。
半年遅れでニュースのポッドキャストを聞く。懐かしさすら覚えた。入ってくる情報量が多い。
周辺情報は思い出せるが名前が出てこない。誰と話した内容かを忘れる。(ベイカーベイカーパラドックス)
リモートでは平板化する。コロナ禍では人生からコンテクストが失われる。
人生のコンテクストの材料とは。
からだの移動。身体感覚。記憶の達人はからだで覚える。
新聞の書評委員。異なる人と会う。
区切れの儀式を入れること。フリクションレス。いかにつっかかりをなくすか、という議論自体が悪なのでは。ドゥーム・スクローリング。
スマホ中毒にあらがう工夫。人と会う。映画館。スマホロック。バズりに乗っからない。マイクを向けられている感覚は幻想だと割り切る。
クリス・ベイル。わたしたちはアイデンティティの実験をすることを好む。
新聞は落ち着いているメディア。
スマホを持たず、大きいタブレットを持つ。物理的摩擦をつくる。
イーロン・マスクの対応をオフにできるプラグイン。画面をモノクロにする、というツイッターでみた情報。
『スマホと記憶の生活史』をまとめてもよい。
忘れられないことを書く。記憶の断片の放牧。
庭造り。すくには判断できないので置いておく。「ええ加減」に放っておくこと。フリクションがある状態へは戻れない。
女子学生の自殺問題。ポップアップを挟んで、攻撃的な投稿を避ける。
SNSごとの流行り言葉に乗っかっている感覚。
人間は言葉に憑依される。人の中にも摩擦をつくれないか。読み上げてはじめて送信できるようにする。
人との会話で、言葉を変える瞬間がある。他者によって引き出される言葉に期待する。
スマホは、時間の遠近感だけでなく、関係性の遠近感もぼやかす。
テレビの前のつぶやきも届いている。結局はひとり。勝手に相手を知った気になってしまう。
長い文章は他人につきあうことになる。
朱喜哲さん曰く、最近の陰謀論でもコンテクストが薄い。
西部邁を左翼だという人は、言葉だけで判別する。
人間がテストされている。「私はロボットではありません」。どこまでが信号か問題。
小松左京『神への長い道』。お互い喋り続ける。コンテクストの生成において、自分だけではいけない。
映画にすらネタバレを求める。助走が必要な場合のしんどさとどう付き合うか。
スマホゲームは終わりがない。
終わりのデザイン。違和感と飽きだけでなく、怒りの感情もある。
最近のゲームは、数値化が進んでいて選択の余地がない。テレビもテロップやカウントダウンに嫌気がさす。情報が増えることで、不確実性が減っている。
Xがめちゃめちゃになること、課金されることがないと抜けられない。
戸田ツトムさん曰く、テレビは何も映っていないときに情報量が多い。見る人が参加できている。
身体をともなわず移動できるのか。コンテクストの「コン」のほうが人間のメインなのでは。
心理学と文学に関する北欧の研究。フィクションだけ読んだ人のほうが共感力が上がる。
摩天楼の建築現場の写真でも足がすくむ。
書いている側としては、移動はできないと思っている。人間は一箇所にしか存在できない。
哲学者性の高さに、寝坊だけでなく歩くことがある。近くを歩くことでもよい。まさに哲学の道のような。
想像して参加することが大事。安全に探索できるのが文学なのでは。

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