SNSの時代と謙虚さの凋落
そうであるかと聞かれると自信を持って答えられないが、謙虚でありたいと常々思っている。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
子供の頃からそう教えられてきたし、そのような生き方を尊敬してきた。今でも成果や実力に慢心せず、ひたむきな努力を続ける人を見ると「立派だな、ああなりたいものだな」と感じる。
だが、SNSの時代に、「謙虚さ」というものは価値がないと思われはじめているのかもしれない。
わかりやすいすごさ vs わかりづらいすごさ
「映え (ばえ)」に象徴されるように、SNSでは「わかりやすいすごさ」が重視されている。
実際楽しかったか、実際にすごいのか、実際においしいのかは別として、ビジュアルとしてわかりやすい「楽しさ」「すごさ」「おいしさ」の演出を競う。
それはアテンション・エコノミーの時代に価値をもたらすからだ。
アテンション・エコノミーというのはアクセスできる情報量が増え続け、膨大となった近年、有限である認知の希少性が高まり耳目を集める事自体に価値が生まれ取引される、ということだ。
たくさんの人の注目を集めれば、それを広告化してモノを売ったり、その人気を第三者に転売したりできる。
「謙虚さ」は、すごさをむしろわかりづらくするので、文化・価値観としては対局的である。
そのため近年、謙虚さは美徳どころか非合理で無駄なことと思われているのかもしれない。
謙虚さは七難を隠す
謙虚さは、人を無用な争いから遠ざけ、心の平穏をもたらす。
その知恵を持つ人は、自分より「下」に見える相手に対しても丁寧に振る舞う。人のことを「雑魚」や「バカ」と軽々しく蔑んだりしない。たとえそう見えても。
人の素晴らしさの尺度というものは色々あり、ある尺度では「下」に見えても (例えば年齢や学歴) 、別の尺度では「上」であったりする (例えば専門性や能力)。価値というのは時代や前提によって大きく変わるものだ。
また、現在の己 (おのれ) 自身もさまざまな人と人との関係性の中で生かされており、個であると同人に全体であるということを忘れてはならない。
自らの価値観だけで世界を測り、その中における優位性を安易に振りかざすのは「驕り」である。人の世がつながっている限り、狭小な価値観に収まりきらない多様性の反発は巡り巡って自らに跳ね返ってくるだろう。
慢心しない企業は成長し続ける
謙虚さは、企業活動においてもプラスの面がある。
組織は「慢心」した瞬間に停滞が始まる。
逆に「慢心」しない企業は 知の探索 が活発であり、その活動は企業の持続的な発展に寄与する。組織認知が拡大することで外部環境の変化に敏感になりトレンドを機会として取り入れやすくする。未知の競合に市場をさらわれるリスクも低減される。
派手な話題、エモーショナルなコンテンツ、チャーミングな企業文化をぶち上げ、デジタルの文脈に乗せてすごさを競い合うのはトレンドに対する順張りであり、やりすぎれば消耗してしまう。
昨今の外部環境の急激な変化に危機感をもって望む企業は多いが、本質的に必要なのは「成長」や「進歩」である。そのために謙虚な心で自らを顧みて、上でも下でもなく正面から環境と向き合う。
そういうアプローチもあるのではないだろうか。
時と場合による
もちろん、アグレッシブ・ディフェンシブそれぞれの戦術に強みと弱みがあり、前提に応じた使い分けに妙がある。
あなたがもし「ヴァエ」の競争で疲弊しているのであれば、「謙虚さ」のような逆張りの戦術を選択肢として持つことは、戦い方の幅を広げるだろう。
photo by Ruocaled
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