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ちくわパンの意味のなさ

今日もまた、酒井健先生「バタイユ入門」に入門している。
明日の講義(ほんとは読書会だけどほぼ、私が一方的に教えを乞うことになるに決まっているので)に備えて読んでいるものの、全く間に合いそうな気がしない。噛み締めながら読んでいるので進まないのだ。

私は、かつて一方的にバタイユにすごい悪印象を持っていた。
まるで薄気味悪い呪術師、胡散臭い霊能者、みたいに。
それは、当時周りにいた、所謂バタイユ信者たちが揃いも揃って理性のかけらもないファッション人文ヲタクみたいな奴らばっかりだったからだ。
バタイユをナンパの道具にしている変な人たち。
自分は他のやつとは違う、と思いたいのは解る。私もそうだったから。
でもバタイユ読んでるのが、お洒落…みたいなのはよく解かんなかった(私は若くて痩せていたときはロリィタファッションを好んで着てた。だから周りにそれこそゴスな感じの人がいっぱい居た)

それで、バタイユ、ブランショ、ベケット、なんにも知らないままきた。
知ろうともしなかった。

でも、いま、入門の入門をしてみると、バタイユ、どちらかというと苦悩の仕方が自分に似通っていて素直にびっくりした。原家族(父親)との関係に悩んでいたというところも。

特に「笑い」については、その効用については、私はバタイユとかなり似た使い方をしているんじゃないだろうか。
私が、うすた京介や大島弓子作品に狂っていたころは一番生きるのがしんどい時期だった。彼等の描く、生死さえ無意味にしてゆく、それこそおやつを食べるかのように軽々と人生の意味を剥奪していく登場人物たちの様子に私は熱狂し、心酔し、救いを求めていた。
正直、ベルクソンの著作は私には理解が出来なかったけど、バタイユの言う、笑い、は何となく解る気がする。逃避とはまた違っていて…。うーん、やっぱり難しいな。

信仰については、私にははっきりとした考えが昔からある。
「神など存在しない。我々が神と呼んでいるモノはひとりひとりの良心に他ならず、神を持たないものの方が人生を軽々と飛べるであろうし、神を持ちすぎるものは生きながら聖者になるか、さもなくば神に潰されて廃棄処分になるかだ」
というもの。
邪神も善なる神も、要は、人間ひとりひとりの内部にしかいない。
そこに意味などない。
意味を見出すのも、また個人の自由だが、そこに救いの本質はないと私は考えている。
そういう考え方の著名人がいるのかいないのかさえ私にはわからないが、少なくとも私は神学上の信仰の対象としての神に、救われたことはない。それを媒介に無意味な馬鹿げた揉め事は無数に体験したが。
私を救ってくれたのは、いつだって生きている、血の通った人間、書物や食物を含む人間の作ったもの、動植物だった。

バタイユにおける信仰については、私にはまだ理解が及ばない。
どうしても神秘体験やらなんやらが思考の邪魔をする。ネガティブバイアスがかかるのだ。

そのへん、明日の会で師匠にじっくり伺いたいとおもう。

ところで、私は昼にちくわパンなるものを食べた。
ロールパンにちくわが一本まるまる突っ込んである。
不味くはないが旨くもない。

こんな無意味なパンも、私を笑わせ、糧にするという点では、私以上に価値があると思わないではいられなかった。

•ө•)♡ありがとうございます٩(♡ε♡ )۶