見出し画像

10年間続けたバスケの話

こんにちは、なおっちゃです🍵

お茶好きとして皆さんから知られていたり知られていなかったりする私ことなおっちゃですが、学生時代の大半の時間は部活・バスケに打ち込んでいました。
軽い気持ちで始めたバスケなのですが、こんなにも長く続け、しかも私の考え方を良くも悪くも形作り変えてしまうものになるとは思っていませんでした。
それほど私にとってバスケという存在は大きなものでした。

今回、非常にお世話になった高校時代の顧問の先生が転勤されるということもあり、ふと私とバスケについて振り返りたくなったので、書いていこうと思います。
自分の記憶や思考の整理のためにかなり暗い話や自分語りも入っているので、お時間あるときに読みたくなったら覗いていただけると。


始めたきっかけ

きっかけは小学校2年生の頃。
幼稚園からの友人に誘われて練習に遊びに行って楽しかったことから、何となくやるか~と思って3年生にあがるタイミングで入部しました。
軽い気持ちで始めたバスケなのですが、結果的に高校3年生まで10年間も続け、私の人生の中でかなりの割合を占めることになるのですが…

辛かった小学校・ミニバス時代

楽しそうだな~という気持ちで始めたバスケですが、入ったチームが県内で優勝争いをするようなチームだったことから、練習はかなりハード。

平日2日、休日2日の練習に、ない日は自主練の坂道ダッシュを強制。
夏休みともなれば毎日朝練で、シャトルランを模した体力づくり。
普通の週末に長崎までバスで片道5時間かけて遠征に行くため、朝2時起き・夜11時就寝で、月曜日には空元気で登校しろと言われる始末。
これを当時4年生の私はこなしていたわけだが、当時2年生だった弟も参加していたわけである。
練習がハードなだけなら、大変だな~きつかったな~という記憶なのだが、
辛かったのはこれが原因ではない。

それは、監督の”えこひいき・お気に入り”、そして”理不尽さ”である。
チームにとって監督の立場は絶対的。言うことは絶対正しいという閉ざされた環境。
それによって私はより苦しむことになる。

もともと私自身は身体能力が高いわけではない、そして同級生は1年生からバスケを始めているという状況で、私は監督の”お気に入り”ではなかった。
むしろ、経験や身体能力、身長を言い訳にしていいように使う”標的”だった。
私の同級生に圧倒的な”お気に入り”がいたということもあり、私のことは見ていないどころか、”お気に入り”のためにいいように使っていたのだ。

みんな同じように朝練や遠征に参加することは求められる。
走れなくて怒られる。怒る標的にされる。連帯責任の的にする。
人より体力がないから、遅れているから、人より多く真面目に自主練で走り込みをする。
それなのに、5時間かけて遠征に行ってもほとんど試合に出られない。頭数としての認識。
遠征に行ってない、身長が5㎝高いだけの下級生を優遇する。
どれだけ自主練をしても見ているふりをして本当は全然見ていない。
評価しているふりをして”お気に入り”をたてたいだけ。

それはチーム全体の雰囲気にも繋がっていた。
最もひどかったのは小学5年生の時。
ミニバスは1試合で10人以上の出場が必要。そのため選ばれる選手のことを”10人枠”と呼んでいた。
6年生の先輩はもちろん全員、同級生は私以外はキャリアもあったため選ばれていた。
残り2枠。私は身長が5㎝ほど低いからという理由で(本当は監督の”お気に入り”を使いたいからという理由で)、メンバーから外され小学3.4年の後輩たちが選ばれていた。
そこまでは仕方がないとしても問題はここから。
10人に選ばれたメンバーは同級生や後輩も含め、私にすべて雑用を押し付けた。
10人枠以外の部員が私と小学2年生ばかりだったこともあって言いやすかったのが私だったのだろう。
荷物の準備、試合前のベンチの準備、ボール拾いまで。
私も一応ベンチ入りはしていたので試合に出る可能性はあったのだが、雑用ばかりで練習をする暇はほとんどなかった。
むしろ練習をしていると、何でしてるの?邪魔だ。といった雰囲気だったのだ。
監督はこれを容認した。だって”お気に入り”をたてたいのだから。
それでも頑張っていれば評価してくれる。誰か見てくれると思っていたから、何事にも真面目に取り組んだ。
しかし正規メンバーとして試合に出られることは1度もなく、点差がついたときの交代でしか試合に出られなかった。
そして雑用を押し付ける体制は変わることなく、むしろ2年生が自由奔放になり、私1人でほとんど全てをすることになった。

ここで私は、何をどう頑張ってもどうせ評価されないんだ、誰も見てくれないんだと思った。
自分に自信がなくなり、自己肯定感が低くなった。
チームのためには”私”という存在ではなく、やること・働くことしか価値がない。だからきつくても人のためにやり続けなきゃいけない。
今の自分の自信のなさや呪縛のような自己犠牲の姿勢はこの原体験からきていると思う。
それでも真面目な性格は変えられず、自分に嘘はつきたくないから努力することや全力で取り組むことは変わらなかった。
それで結局、期待して裏切られるという自分を苦しめる負のループに入ってしまうわけなのだが…。

またそれ以外にも、部員募集ができないことで責められ副キャプテンを降ろされたり、6年生になってもなかなか試合に出られなかったり、部内の交友関係でうまくいかなかったりその他色々あり、ミニバスに関わることで正直私の心はボロボロになっていった。
そんな私の様子をみて、親には何回か辞めないか?と言われたことがある。
それでも私がバスケを辞めなかったのは、逃げたと思われたくないただの負けず嫌いで意地になっていただけだった。

当時のバスケをしている写真自体あまりなかったりする

続けた中学時代

地元の小学校からそのまま進学する地元の中学校。
環境があまり変わらず知られてることもあり、流されるままそのままバスケ部へ入部。(何なら春休みから練習に行っていた。)
メンバーがほとんど変わらないことから人間関係もそのまま。
中学1年生の時の顧問がバスケ未経験者だったこともありまたしてもうまくいかず。

ようやく動き出したのは、2年生にあがるタイミングで顧問が転勤で代わったタイミングだった。
バスケ経験のある比較的知られた先生に代わったことで、今まで黙々と練習をしてきて身についたことが評価され試合に出られるようになった。

と思ったのも束の間、ここでもまたいいように使われる。
エースにボールを集めるために、エースに活躍してもらうために、ディフェンス要員として起用されていたのだ。
つまり、ボールは持つな、エースにパスを出せ。体力はあるから真っ先に走れ、守りに専念しろ。ということだ。
バスケの楽しくて面白いところは、ほとんどの人がシュートを決めるところ、もしくはドリブルをつくところだと考えると思う。
それを私は試合中にするなと言われているのだ。
今考えたらおかしな話だ。
しかし当時の私は試合に出られるだけで嬉しい、必要とされているんだと思っているから、これまでの経験で成功体験がないことで考えが歪んでいることがよくわかる。

この他にも雑用をさせられたり、後輩から陰口を言われたりするなどもあったが、中学時代は良かったこともある。

1つ目は、地区選抜を経験できたこと。
これだけは顧問に感謝していることである。
今まで他の同級生が選ばれて私だけが選ばれないこともが何回もあった。
ただその同級生たちとともに練習や試合で経験は積んでいたので、ディフェンスを中心にわずかながら実力もついていた。
顧問が地区選抜の指導者だったこともあり、ギリギリで選んでもらったことで初めて評価されたと認識する出来事だった。

2つ目は、裏方の大切さや面白さを知ったこと。
試合に出られない苦労人ではあったが、その分試合を支える存在の大切さは十分知っていた。
それは試合に出るようになった中学2.3年になっても、後輩とともに準備をすることや自分のことは自分ですることは当たり前にしていた。
試合に出られるからって偉くない。先輩だからって偉いわけじゃない。
だからこそ準備・片付けくらいは一緒にするんだという心持ちでいた。
そのことで寄り添える後輩がいたり、その態度が褒められたりしたこともあったのだ。

また、バスケの試合を支えているのは選手・監督だけではない。
審判とTO(タイマーやスコアなどを担う役割)の存在がある。
顧問の影響で会場担当校になったり九州大会に役員として関わったりした経験がある。
その際にみんなが面倒だとTOの仕事を押し付けられていたのでよくやっていたのだが、その大切や重要性、面白さを知ることとなった。
この話は今後にも繋がることなので、少し置いておこう。

小中学校時代はショートカットだった

日の目を見た高校時代

中学で部活を引退したときに、高校ではバスケをしないでおこうという決心をしていた。
当時はうまく言語化できていなかったが、バスケに対して「もういいか」という気持ちが強かったのだ。
確かに試合には出られたし、地区選抜にもなれたわけだが、やはりいまいちうまくいかず心の落としどころがなったからであろう。

そして第1志望の高校に見事合格。
ウキウキ気分で高校生活が始まったわけである。
合格したのが嬉しすぎて、足の指を骨折したことは今では笑い話であるが…笑

入学当初、松葉杖、もしくは足を軽く引きずりながら高校生活を送っていた私なのだが、同じクラスの子から声をかけられバスケ部に見学に行くことになる。
そこで同級生でバスケ推薦が4人もいること、チームが県ベスト4を目指して練習していることを知ることになる。
そこまで聞くとそれこそ入らないようにしようとも思ったのだが、
小中学校のチームが強く有名だったことで、なぜか私の存在が同級生から
知られており、またしても流れで入ることになってしまった。

最後の県大会でベスト4に入っていたので偉大な先輩方である

入部はしたものの骨折で3年生の先輩方が引退されるまで全く練習ができなかった私だが、新チームになってようやく練習に参加できるようになった。
試合に出たい気持ちはある一方で、推薦も多く先輩方もいるなかで評価されるとはあまり思っていなかった。
まあバスケは好きだし楽しいし、練習はできることを真面目に取り組もうという気持ちでやっていた。

そんな私に転機が訪れたのは1年生大会でのこと。
この大会では文字通り、高校1年生のみが試合に出られる大会であった。
試合では推薦の4人に加えて、私という5人がスタートから出場。
緊張と不安で何とも言えない気持ちのまま試合に臨んでいた。
他の1年生の経験が浅かったことから、推薦組のほかにキャリアが長い人間として選ばれたと思っていたので、正直頭数で試合に出ていると思っていた。
しかしこの大会、非公式ながら公式戦さながら。そして顧問から大きな声で指導を受けることになる。
それは、「逃げるな!攻めろ!」という言葉。
今までボールを持つな、攻めるな!と言われていたことと真逆のことを言われ、私としては衝撃的な言葉だった。
戸惑ったしどのように攻めたらいいのか全く分からず半分パニックにもなっていた。
中学3年間で染みついてきたプレーをその場で変えるのは難しく、大会期間中何度も注意を受けた。

大会中ずっと悩み続けた私は、最後の試合残り2分ほどで「この際、どうにでもなってしまえ!」くらいの気持ちでただやみくもに攻めていった。
今考えると突発的すぎるし試合の流れなんて考えてない本当に下手なプレーだった。
しかしそれを見た顧問の先生からは「いいぞ!それをするんだ!」と初めて褒められた。
この言葉を聞いて「ボールをもって攻めていいんだ…」と、普通に考えれば当たり前のようなことを感じ、中学校からの呪縛が1つ解けた瞬間だった。

1年生大会当時。少し自信なさげではある。

高校時代は今までの苦労が報われたかのように評価していただいた3年間だった。
3年生の先輩が引退して新チームになった最初の大会、2年生の先輩方や同級生の推薦組もいるなかで5人のスタメンに選ばれ試合のスタートから出場することになった。
小中学生の時は自分たちの学年の代になっても出られるかどうかくらいだったのに、先輩方もいる中で試合に出られるのは初めての経験だった。
メンバー発表で名前を呼ばれたとき本当に驚いたし、私でいいんですか?くらいの気持ちだった。

そもそも入部当初、足を怪我して練習すらできていなかった私のことをいつ見て評価してメンバーに選んでくれたのだろう…?
これは親から聞いた話だが、新チームになったときの保護者会で顧問と同級生の保護者が話す機会があったそう。
当時1年生だった私達のことを、基本推薦組のことしか見てないだろうと思った他の保護者が、私の親のことを顧問に紹介したときに
「ああ、あの子は頭がいいプレーをする」と覚えてくれたそう。
練習中の様子を見て、そのように思ってくれたということだ。
この時私の親は「この先生なら娘のことを見てくれる」と思ったそうで、話を聞いた私も「この先生で良かった」と思った。

そこからスタメンに選んでくださったからには、選ばれていないメンバーの分も自分のできることを精いっぱい頑張ろうと思った。
もちろんうまくいかず怒られることも多々あったが、それでも私を信じて使ってくださるからと何度も諦めずやり続けた。

1年生でユニフォームが1桁番号だったのも初めての経験。

選ばれたからにはそれに見合った努力や態度でいようと、今まで以上に気持ちを引き締めた。
体育館が使えず学校の外周を走るときは誰よりも早く走ってやるぞという気持ちで。
スタメンで長時間試合に出るためには体力を必要だからと人の倍走ったり。
試合に出ているとはいえ偉くはないし後輩なので、準備・片付けは率先してしたり。
いつまた試合に出られなくなるかわからないから試合に出られることに感謝の気持ちは忘れない。
努力の姿や姿勢を同級生や陰ながら顧問も見てくれていたようで
同期の仲は深まり、指導者から初めて真っ当な評価をいただいたような気がする。

同期との休憩時間の1枚。
高校時代はお団子スタイル。

高校2年生になり先輩方が引退。
ついに自分たちの代になったときにまたしても驚いた出来事が。
それは、副キャプテンに任命されたこと。

ミニバス時代に理不尽に副キャプテンを降ろされてから、ほとんど経験がなかったし、まさか自分が指名されると思っていなかったので驚いた。
でもやるからには全うすることは決めていたので、1年間キャプテンとチームを支えることを目標に取り組んだ。
高校3年生の時はちょうどコロナ全盛期で最後の公式戦がなく成績は残せなかったが、スタメンとして試合にも出させていただき、私のバスケ人生はいい思い出として終えることができた。
高校時代の顧問は恩師であり感謝しかないしかない。

よく副キャプテンがつけている”5番”のユニフォームで。

大学生になっての関わり方

高校時代でプレーヤーとしては辞めようと決め(2回目だが笑)
大学生になってからは裏方としてバスケに関わることにした。

中学の時の九州大会、高校の時のインターハイ(全国大会)が鹿児島で開催されたことから、大会スタッフとして試合のTO(タイマーやスコア)に関わっていた。
この経験からバスケのルールを理解し試合を円滑に進めることの大切さや、試合を陰ながら支える存在のことを魅力的に思い、
現在では、鹿児島のプロバスケットボールチーム ”鹿児島レブナイズ” の試合スタッツとして試合運営に携わっている。
シビアな展開も多いが、そこでの判断やルールの理解が求められるこの役割に責任を感じつつ楽しみながらしている。
また、その繋がりから国体にも会場役員の1人として関わらせてもらった。
インターハイで高校生役員として参加していた私が、4年後の国体では高校生を見る立場になっていたのは、不思議な気持ちでもあり感慨深かった。

国体に関われたのは一生の思い出といってもいいだろう

バスケを続ける中で苦しく嫌いになる場面もあったが、ただやるのではなく何かしら意味を見出していたのだろう。
だからこそ今までの経験や高校時代の思い出から、やはりバスケは楽しいものだし今でも関わり続けたいとは思っているのだ。

いつかバスケに関わる話をどこかでちゃんと消化したいと思っていた。
大学生になって3年経ち、振り返ってこんなこともあったなとやっと話せるときになったと感じる。
正直闇に葬りたい記憶や経験もあるのだが、”バスケ”というもので私が形作られたのは紛れもない事実なのだから
抱えているもの・考えや性格も含めて受け止めていきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?