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"私"という人間

こんにちは、なおっちゃです🍵
と始まるいつものnote。
これはこれで一種の切り替えのような気がする。

人は誰しも色々な面を持ち合わせていて、人に対して見せる側面を変えることでうまく社会に適応して生きている。
しかしそれがうまくいかなくなって、自分を見失ってしまうこともあるだろう。

私は特に人や場面で自分の見せ方を変え、切り替えているという自覚がある。

明るく元気なしっかり者。
フレンドリーで誰とも話せる。
初対面、大人の前でも物怖じしない。
私のイメージってそんな感じだろうか。

同級生・後輩の前では特にしっかり、きちんと、真面目な。
でもちょっと抜けてるところもあって、面白がられる。
先輩の前でも、笑いながら絡みに行く。

場所によって名前も変わる。
学校やバイトの中では、下の名前で”なお”と呼ばれるし
色んなコミュニティでは”なおっちゃ”として知られているし
また別の所では全然違うニックネームを名乗っている。

それによって1人称も変わる。
”なお”、”私”、時には自ら”なおっちゃ”ということも。

根底には、幼少期の経験による
人に嫌われたくない、どうにかして人に好かれたい
こんな私でも認めてほしい、人に求められる人でありたい
という自信のなさがある。

頑張ってしっかり者を演じていても、自分の部屋はぐちゃぐちゃ。
合宿では誰よりも遅く寝て誰よりも早く起きるけど、家では寝落ちはするし昼まで寝てる。
困っている人は見逃せないし手伝うけど、誰よりも人に頼りたいし頼り方がわからないだけ。
よく喋るし明るく元気だけど、本当は人見知りだしちゃんと疲れてる。

本当の自分とは違ってちぐはぐな、外では偽りの自分だったりするのだ。
だからこそ自分を見失ってしまった。乖離してしまった。




素の自分を出せる場所が少なくて
疲れても疲れたって言えなくて
周りの方が大変だからって言い聞かせて
自分で自分を追い詰めた

親が心身ともに強く育ててくれたおかげで
無駄に強い自分の正義感のおかげで
大学には休まず行ってたし
心の悲鳴を無視してタスクを増やし続けた
今まではそれでも壊れなかったから

ある日、朝起きて体が動かなくなって
ベットからほとんど動けなくなって
食べる気も起きなくて
頭では動かなきゃってわかってるのに
体が言うこと聞かなくて
これはさすがにやばいと感じた

泣きそうになりながら連絡した。
電話かけてもらって十分頑張ってるよと言ってもらった。
連絡しただけで偉いと。
今まで泣くことを抑えていたし忘れていた。
そんな私がようやく泣けた気がした。

1人で抱えてたことを全部話した。
話すことで迷惑かけるかもと思ってたことを
抱えきれなくて話してしまった。
頼りに頼って、甘えに甘えた。

自分事のように怒ってくれた。
抱えすぎだよ、頑張ってるよって認めてくれた。
話してくれてありがとうって言ってくれた。
話さず抱え込んでしまう方が迷惑だから、ちゃんと吐き出してって。

やっと人前で素の自分を見せられたような気がした。
自分の思ったこと、考えてること、気にせず何でも話せた。
このことでどれだけ心が軽くなったか。

「”なおっちゃ”でも、本名の”なお”でも、どんなあなたでも大好きだよ。」
そう言われたとき、ああ良かったと思った。
こんな私でも認めてくれるし、共感・理解してくれる人がいるんだと。
私のことを、”過去の自分を見ているようだ”という人だ。
タイプが似ていて、同じような悩みを抱えた経験があるからこそ、響いた言葉だった。

「ここを離れても、仲良くできる人たちができた」
帰ってくるときに思い出す人として、そのなかに入ったのが嬉しかった。
距離は離れていても、私のことを気にしてくれて思考の整理のために壁打ちまでしてくれる人がいる。
思考の仕方が似ていて、話のテンポ感が似ていて、共通言語があって話していて苦がない。
そんな人と、これからも会って話せることが幸せだ。

「やりたいことを好きなようにやったらいいよ」
周りからは理解されにくい私の活動を認めて応援してくれる。
私のことをいつも、そしていつまでも陰ながら支えてくれる人だ。
近すぎるがゆえに無下にしてしまうこともあるが、それでもいつも拠り所としていてくれる。
これを当たり前とは思わずに大切にしていきたい。



こうやって私は人によって生かされている。
自分一人では生きられないくらい、脆く弱い存在である。
でもそれが必ずしも悪いことなのだろうか。
人との関わりの中で、人との縁と支えの中で生きることが
私にとっては私らしい生き方なのかもしれない。

ただ、私がしてもらったことの恩返しはしていきたい。
彼・彼女らに対しても
これから出会うかもしれない人達に対しても。

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