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駐妻というラベリング

ある日ふと、今の自分は「駐妻・駐在妻」カテゴリーに入るのかもしれない、と気づき、あまりにもしっくりこなさすぎる感覚が不思議で、言語化してみることにしました。

シンガポールの現地採用時代

おそらく理由のひとつは、私自身がシンガポールでずっと現地採用だったから。「現地採用」とは、自ら望んでその国に行き、自分で仕事を見つける人のカテゴリーと思っていて、現地でのコミットメントがやや強めなのが特徴、ととらえています。シンガポールでは周囲に駐妻の方々が身近にたくさんいましたが、自分が駐在妻になるとは思ってもいませんでした。

海外の日本人社会では、駐在員か現地採用かによってランク付けされるという話を時々聞きますが、そこに優劣をつけるのは今の時代は全く意味ないと思っていて。

確かに駐在員は各種補助が手厚く、生活周りのサポートがあるという有利さは大きくあります。が、海外で現地採用で働くハードルは年々高くなっており、それを突破し、自分でキャリアを切り開く高い能力を持つ人が現地採用組に多いのも見てきました。収入においてどちらが稼げるかという面では、もはや駐在、現地採用という単純なものさしでは測れず、外資マネージャークラスの現地採用、事業家、起業家、投資家など、個々を見ていかなくては比較はできません。

駐妻イメージとの乖離

いつどこから生まれたのかわかりませんが、「駐妻」と聞いて一般的に持つイメージがあると思うのです。たとえば、ステレオタイプ的なこんな感じ。

専業主婦で、手抜きをせずに育児・家事をしっかりこなし、余暇の時間にはお友達と優雅にランチやお茶。自宅にお招きするパーティも多く、華やかなテーブルコーディネートと贅を尽くした手作り料理でおもてなし。余裕のある財力で衣食住は充実し、おしゃれで質の良いもので生活を整え、高い社交性で、子供や夫まわりの人間関係を円滑にまわす。

私は上記のどれひとつ(本当に全く!)満たさず、そして出来そうな気もしないので、駐妻というカテゴリーに入りようがない、と思うのです。

一方で、駐妻として上記のひとつでも実際にこなしている方々は尊敬の対象です。自分にはない能力だし、そのための努力をしているのもわかるので。(ステレオタイプの記述で不快に感じた方がいたらごめんなさい)

駐妻にある不自由

今自分が好きな海外で生活しているのは、駐在に帯同しているから。私の力ではありません。「駐妻」が夫の存在と夫の仕事がまずあっての言葉であること、そこはまぎれもない事実だし、そこにいくばくかの力関係が付随するのも事実。

私のように好きで海外に出るタイプならばまだよいけれど、きっとなかには日本から離れたくなかったり、海外生活が苦痛と感じる人もいるはず。キラキラしたイメージがつきがちの駐妻ですが、私が出会った人たちを見ていても、生活の変化にメンタルを崩す人は少なくありません。駐妻のイメージが逆にプレッシャーとなり重荷になる人もいると思います。

「駐妻」は一般的に、自分の意志で決める類のものではありません。(駐在員自身もこの点は自由がないですが、ここでは家庭内の決定権という視点でのお話)

だからこそ、どこか自分に選択の自由を確保しておきたい、という思いがあります。
帯同を選んだのは最終的には自分の決断であること、環境が合わなければいつでも自分の意志で居住地を変える自由と選択権を持っていること、そう思えることは自分にとって大切な気がします。

私は運よく、シンガポールで従事していたお仕事は、本業はほぼそのまま、複業は業務をかなり狭める形でリモートで働けることとなりました。片足でも、頼りなくても、自分の足で立っている部分があることは安心感につながります。
たとえ収入がないとしても、いつでも自立できるはず、とちょっとした覚悟を持つことは精神によい気がします。

何のためのカテゴリー?

平日はPCに向かって働く時間が多く、そのせいか、駐妻よりもワーママ(この言葉もずいぶん古く感じるようになりました)的なイメージが現実に近いかもしれません。

駐妻とワーママは反対のカテゴリーではないと思いますが、それが重なる部分のカテゴリー名は (たぶん)ありません。働く駐妻?(人によって偏ったステレオタイプにひっぱられそう)それとも、駐在帯同ワーママ?
でも、そもそも何のためのカテゴリー?

シンガポールでは、働く・働きたい日本人女性が多く集まるコミュニティに入っており、そこでは、日本でバリバリ働いていたけど駐在帯同したために仕事を泣く泣くやめてきた駐在妻のメンバーにたくさん会ってきました。

彼女たちは「駐妻」として過ごしながら働けない環境に葛藤を抱えていたり、お仕事の話を聞くと熱い思いや夢が次々に出てきたり。イベントなどで一緒に活動すると、いつもその有能さに驚かされました。

一方で、迷いなく専業主婦として生活を送る駐妻のお友達もいて、彼女たちが仕切るイベントと成果物のレベルはいつも高く、細かい配慮が行き届いていて尊敬の対象でした。

働いていてもいなくても、個人的に気が合う人は友達になるし、縁があれば長く続くし、友達になれそうでも日常で重なる機会が少ないと関係は築けないし、共通点が少なくても接する機会が多ければ思いのほか仲良くなることもある。

人間関係の基本は、その人がどのカテゴリーだろうと関係ないし、ラベリングして勝手にきめつけてしてしまうことで、心理的な境界線が生まれてしまっているかもしれない。
もう少し広く考えてみると、ラベリングはあちこちで見られるもので、国籍、人種、性別から、学歴、職種、居住地など身近なところにも。

「駐妻」という言葉から感じた自分の違和感はけっこう大切なものかもしれなくて、ラベリングの言葉は他人が使う時だけでなく自分がふと使ってしまう時も敏感でいたいし、それがモヤっと感じる時は、ちょっと掘り下げてみたい。ラベリングに自分を無理に入れ込む必要はないし、反発して自己主張してみるのはもっと悪くないと思うのでした。


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