種田山頭火の俳句と文芸に、救われている。
種田山頭火の生き方をうらやましく思うことがある。
宮仕えの、あわない仕事に倦み疲れたときに。
気のあわない人たちと付きあうのに、疲れ果てたときに。
彼の残した日記を読むと、勝手気ままに暮らしている山頭火がいる。
組織に隷属して食い扶持をもらって生きる、ふつうのサラリーマンとは全く違う、破天荒な生活である。
今読んでいるのは、"其中庵日記"。
句友に用意してもらった"其中庵"で、貧乏暮らし。
その日の米にも困るような。
ただ、句友たちの喜捨、物やお金のおかげで食いつなぐ。
あとは、放浪と行乞。
酒の功徳も。
きれいな呑み方ではない。
ドロドロに酔いつぶれるまで。
アル中だったという評者も多く、たぶんそうだったのだろう。
自分で稼がず、生活不適応者で、今で言うアル中患者。
ただし、彼には俳句があった。それから、日記も。
その才能、努力、生きがいが山頭火をただの飲んだくれから峻別する。
残された俳句と日記を読み、管理社会の息苦しさから救われている自分のような人が、たくさんいるだろう。
もちろん、山頭火のような暮らしは自分にはできないし、彼にも苦労はあった。
それでも時々、独りで宮仕えをしない(できない)境遇が、うらやましい。
山頭火の文芸の持つ力、開放感に救われている。
通勤電車の中だったり、寝る前のわずかなひとときだったり、山頭火の文芸に浸っている間は、現実から逃避できているのだ。
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