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人間を立体的に見ること、HSPだからこそ感じ取れること

しばらくぶりにnoteを更新します。今回は、いつも読んでいるクレオパトラ長谷川さんのnoteのとある記事に影響を受けて、どうしても書きたいことができたため筆をとりました。記事の内容に関連して、自分のHSP的な特徴と、その特徴をどう捉えているか、自己紹介の意味も含めて前置きとして書いていきたいと思います。

たぶんHSP、だけどあまり自覚はない

こんなタイトルにしておいて詐欺だと思うが、自分は俗に言われているHSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)とは言い切れない。少なくとも周りに『私はHSPです』と敢えて言うことは今後もずっと無いと思う。このようなタイトルにしておいて、そもそもHSPって何?と思う方はあまり読んでいないと思うけれど、念のためwikipediaのリンクを貼っておく。

Wikipediaにもある通り、HSPは心理学上の概念であり、精神医学上の概念ではない。つまりHSPは精神疾患ではなく、ネガティブにもポジティブにも捉えることができる”特性”ということだ。世にはどうにもHSPというとメンヘラとか、扱いづらい人のようにネガティブに思われる風潮がある。確かに、鈍感な人よりも精神的に弱くなりやすい面はあると思うが、そんな面だけではなく、繊細さは素晴らしい能力にもなり得るということは理解していただきたい。

その辺りのHSPのポジティブな解釈については、下記のイルセ・サン氏の著書がとても役に立った。繊細な方にやわらかく寄り添うような文体が特徴の、優しい内容になっているので、繊細さに悩んでいる方は是非読んでみて欲しい。

私自身、この著書にあるHSPのチェックテストを受けてみたが、140点中92点という結果だった。結果的にみると”若干のHSP"と言えるかもしれない。けれども、異様な感受性の高さなどの特性が当てはまっていても、それをネガティブに捉えていないから、やっぱり世間一般に言われているHSPとは違うと思う。世間一般に言われるHSPには、『自己否定の強さ』の意味も含まれていると思うからだ。私は感覚が過敏だけど、自己肯定感は無駄に高い。その時点でやっぱり少し違うのだと思う。

ネガティブ?ポジティブ?HSPの特性

上述したイルセ・サン氏の著書において、HSPの特性として主に下記のものが挙げられていた。

①一度に多くの情報を吸収できる
②音や匂いなどの些細な違いも察知できる
③共感力が高い、気配り上手
④慎重で危機管理能力が高い
⑤誠実で責任感がある
⑥想像力が豊か

これはHSPの特性を限りなくポジティブに解釈した書かれ方だ。『多くの情報を吸収できる』と書いてあり、『情報を得すぎてしまって疲れやすい』などとネガティブな書き方はしていない(無論、HSPが抱えやすい心の問題については、後半部分にしっかりと記されている)。

このようにHSPの特性をポジティブな”能力”として紹介している著書がどれくらいあるのかは、不勉強なのでわからないが、HSPで検索してヒットした心療内科などのHPを見てみると、『疲れやすい』『自己否定が強い』などというネガティブな解釈で書かれているものが多い。どちらが正しいとも言えない。ポジティブかネガティブか、どちらの文面で救われるのかは、人によると思う。無理やりポジティブに捉えたくないって人もいるし、ああそうかこれは能力なのか、と素直に受け取れる人もいると思う。

私は、どちらかというと後者、ポジティブな捉え方をしている方である。

とにかくテレビが苦手

以前からnoteに記しているが、私には感覚過敏症という特性がある。五感すべてが敏感だが、私は特に聴覚過敏が酷い。色々と不便である。騒がしい場所に行くときはノイズキャンセリング耳栓が欠かせない。

また、どうでもいい情報をいっぱい吸収して、しかも深く処理しがちだ。テレビが非常に苦手である。というのも、たくさんの情報が流れているのを見ていると、

『この言葉にテロップをつけた意図は?』『あの人一人だけ笑ってない、疲れてるのかな』『この笑い声のSEは不自然過ぎないか?』『この音楽は〇〇の曲だ!やったー!』『大画面にもワイプにも顔が映っていて誰を見たらいい?』

とか、目から耳から情報を取りすぎていっぺんに色々と余計なことを考えすぎてしまう。見終わった後も、構成は誰だとか演出は誰だとか、あの時かかっていた音楽は何だとか、不要な情報あさりをしてしまい、結果としてとても疲れてしまう。

だからお笑い好きにも関わらず、テレビはあまり見ないようにしている。舞台の方が騒がしいんじゃない?とか言われることもあるが、私にとっては、舞台の方がよっぽど情報が少なくて楽だったりする。

自信家だった幼少期

子どものころは、このような特徴をあまりネガティブに捉えたことはなかった。これは環境の影響が強いと思う。

いとこにピアニストがいて、彼女もかなりの聴覚過敏だった。当然ながら、がやがやとした親族の集まりには殆ど出てこられないし、めったに会えない。会えてもコンサート会場くらい、という、私にとってはカリスマ的な存在だった。

私も似たような聴覚過敏だった。そこで両親は『お前もあの子と同じような耳を持っているんだ』と私を過度に持ち上げた。実際、楽器の演奏には聴覚過敏が役立ち、些細な音の違いを突き詰めることのできる耳を持ったことをずっと誇りに思っていた。

結局、いくら耳が良くても日々コツコツと練習を続ける能力が全く足りず、ピアニストにはなれなかったわけだが、自分の特徴をそんな風にプラスに昇華できる環境に恵まれたことは、ただの幸運としか言いようがない

ただただ辛い思いをしている感覚過敏の方は大勢いると思うし、無理にポジティブに捉えろ、と言うつもりは全くない。実際、面倒くさいことの方が多い。

キーキー声の人を避けるようになってしまったり、地下鉄は正直うるさすぎてほぼ乗れないし(全体的にうるさいし止まる時のキー!が無理)、仕事場で大きな音を聞いてうずくまって動けなくなった日もあるし、近所の猫除けのモスキート音がひたすら痛く、耳を塞いでも一晩中眠れなかった日もある。聴覚過敏なんて単に耳がバグっているということなのであり、それを美化するつもりは全くない。

私が幼少期に自信を損なわなかったのは、ただ、運が良かっただけなのだ。

クレオパトラ長谷川さんのnote

やたら自分語りが長くなったが、ここからが本題である。

先日、フォローしているクレオパトラ長谷川さんのnoteを読んでいて、あまりにも琴線に触れるというか、大袈裟に言えば”人生の主題が被っている”とまで思った。その記事を勝手ながら紹介させていただきたい。

クレオパトラ長谷川さんのことは、お笑いファンとしては懐かしのAGE AGE LIVEでお見かけしていたものの、失礼ながらすっかり存在を忘れていた。最近、とある好きな芸人さんとコラボしたvlogを上げていたことから『え、あのクレオパトラの?』となり、劇団の活動などを知ったという経緯である。

noteに上げられている記事で、初めに読んだものがどれかは覚えていない。けれど、どの記事にもとても惹かれ、心がやさぐれたとき、長谷川さんのnoteを読むといつも、ささぐれだった心がやわらかくほどけていく感覚を得られた。まだ舞台はお目にかかったことがないけれど、独特の感性で撮られる美しい写真や、舞台の台本、1ページ小説など、その表現の数々を、本当に繊細な方なんだなあと共感を持って眺めていた。

長谷川さんはHSS型HSP(詳しくは上記記事をお読みください)という特性を持っていて、敏感で、かつクリエイティブに新しいことを追求する特性を併せ持つ稀有な方だ。私はHSS型なのかどうかは分からないし、HSPとさえ言いきれない面もあるので、長谷川さんの痛みに完全に共感できるとは言い切れない。でも、記事を読みながら、かなり近い気持ちをずっと感じ続けていた。

作品を、人間を、多面的に捉えること

中でも、上記の『悲しいことが起きない為に。』の記事を読んだ時は、共感のあまり涙が零れてしまった。

僕は、どんな作品を観てもとりあえずは全て肯定します。否定から入ると視野が狭くなるからです。自分が苦手な感じの作品でもなんでも、観れる機会があればとりあえず観るようにしています。そこから、面白くないと感じた個所があれば、何故僕は面白くないと感じたのか?など、細かい部分を考察するようにしています。

同じだ。とにかく同じだ。物凄い勢いで記事に引き込まれた。

私も、映画やお笑いに好き嫌いはあるものの、食わず嫌いだけはしない。ベタも非ベタも、シュールもブラックも、コントも漫才も、恋愛も戦争もコメディもスプラッタも、どんなジャンルの作品もとりあえず見る。見た後に好き嫌いが決まる。

そんなことをしていると『自分の視点が無い』とか言われる。でも、作品はただ作品としてそこにあって、自分がそれを摂取してどう感じるかを深く分析することに面白さを感じる人間なのだ。

面白いと感じた経験だけでなく、面白くないと感じた経験も自分の糧になる。そう考えている人は、正直言ってあまりいない。『情報を深く処理する』HSPの特性なのかもしれない。私は、同じようなことを表明している人に、初めて出会った。だから凄く嬉しかった。

ここからはただの趣味ですが、更に僕は、その人の人生などを勝手に想像するのが好きです。それは、作品もです。どのような制作過程で作られたのかなど考えると楽しくなります。

ここも、同じようなことをしている人がいる!と、テンションが上がった。私も、悪趣味ではあるのだけど、人のほんの少しの仕草からその人の内面を探っていくのが大好きなのである。音楽の趣味から青春時代を推測したりするのも好きだ(そんなことを口に出してしまうと誰一人友達がいなくなるので、表立っては言わないけれど、ネットだけだったらいいだろう)。

制作過程と言えば、お笑いだけでなく、絵画を見るのも好きだ。例を出すとルネ・マグリットの『光の帝国』という作品がある。検索してもらえばすぐに出てくると思うが、空が青く昼間の様相を呈しているのに、街の中は夜の闇に包まれているという絵画だ。

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ベルギー王立美術館所蔵 ルネ・マグリット《光の帝国》(1954年)

この絵画を初めて見た時は、何日もその意味について考えた。富裕層と貧困層を暗喩しているのではとか、天国にいる母親への羨望と、邂逅が叶わぬ現実を表しているのではとか、色々なことを考えて、そこからさまざまなストーリーを着想して、ノートに纏めた。

実際のところ、作品は作品でただ美しく存在するだけだし、『美しい』の一言の感想で十分であるはずなのだけど、その一言ではすまない人種というのもいる。よく言えば想像力が豊か、悪く言えば粘着質、これもHSPの特性である。勝手ながら、長谷川さんとはそこも通じ合う部分があるように感じて嬉しかった。

他人を立体的に見る。生きていて1つの人生がそこにはる。そんな尊いものが外にはたくさん歩いている。どんな人でも尊重していきたい。

涙してしまったのはここの箇所である。『どんな人でも尊重していきたい』。本当にこれなのである。こういうことをまっすぐに発言してくれる人と、ずっと出会いたかった。

『誰一人として要らない人間などいない』などと言うと、きれいごとだ、偽善だと言われるだろう。世には凶悪犯がいる。楽しみとして人の命を奪うような、生きていてはならない人間がいる。悪は悪として処理され、罰せられるべきだ。そこは私も変わらないし、むしろ冷酷に考える方である。

でも、どんな凶悪犯も『凶悪』という一面だけで生きているのではないと言うのが、私の考えだ。罪がないと言っているのではなくて、『罪だけではない』のだ。人間は多面的である。清い部分も醜い部分も併せ持っている。だからこそ味わい深くて、ただの一面、ただの発言の一部分で推し量れない部分がある。

他者のそんなところまで考えて接していたら、そりゃ疲れてしまう。疲れないように、丁度良い具合の思考で生きている周囲の人々に対して『どうして周りはここまで考えないんだ』『どうしてそんな少しの情報でこういう人だって決めつけるんだ』とか、理不尽にムカついてしまったりもする。そんな所もHSPっぽさなのだろう。

でも私はそんな特性を、ひそかに自作の小説として表現することで、ポジティブなものとして捉えることが出来ている。例えば小説のとある一節で、主人公と脇役三人でストーリーを組んだら、次の一節では、脇役の一人を主人公にして、残りの三人を脇役にしていくというような、多面的な見方のできる組み立て方が好きだったりする。

記事で紹介されていた長谷川さんの舞台台本も、そのように人間を多面的に捉えた、とても愛に溢れたものだった。

誰一人として『モブ』がいない。全員が主人公なのである。こういう舞台を見たかった、と心から思える作品だった。ずっと夢に描いた世界が作品になっているものだから、涙が溢れて止まらなくなってしまった。知ったのがあまりにも遅すぎた。いつか再演することがあったら、真っ先に駆け付けたい舞台だ。

期待は希望

長谷川さんの書かれたものの中で、上述した『悲しいことが起きない為に。』の他に、ボロボロ泣いてしまった記事がある。

この記事には、HSPの感受性の高い特性がネガティブに働いて、心が壊れていく様子が、本当にひとつの誇張もなく素直に書かれていると思った。

孤独さ、裏切り、人間不信に陥ったのにまた信頼してしまう、親との離別、仕事のプレッシャー、過度な期待、期待を裏切られる辛さ、日々、他人に期待しないようにと自分に言い聞かせながら生きる辛さ…。

HSPが思っていても言えないことが山ほど書いてある。下手な引用はしたくない。HSPの特性でメンタルがやられている人は、とにかく読んで欲しい。『一人じゃない』って、救われる気持ちになると思う。

私も、他人に過度に期待しないように生きている。HSPでなくても、育児をしている人なら、過度な期待が人間を潰すということはなんとなくわかってくれるだろう。ありのままを受け入れ、期待はしない、むしろ期待値を極限まで下げることで、『よくやったね』と心から褒められるという側面がある。

でもそれが辛くなる時がある。もっと何かができるようになって欲しい。もっと大物になってほしい。でも期待をしないように、人生はそんなにうまくいかない、と、将来のことなどはやたらと冷めた目で見て、正直、ただ日々を穏やかに楽しく生きることだけに尽力している。

でも、場合によっては『期待を置かれること』が、素晴らしいものになり得る世界もある。人に期待をしちゃいけない、この世は不条理だ、と変に冷めた目で世の中を見る私に別の視点を与えてくれた、枡野浩一さんの短歌があるので、それを最後に紹介しておきたい。

”期待を抱くことも、過度な期待を抱かないことも、あなたの全ての気持ちはあなただけの唯一のもので、かけがえのないものなんだよ。”

この歌にはそんな優しさが含まれていると思った。



長々とした記事になりましたが、落としどころがなくなってしまったので、ここで閉めたいと思います。この記事が誰かしらの何かしらの『生きづらさ』に、寄り添うものになることを祈って。

最後になりましたが、多大なる共感と感動を下さったクレオパトラの長谷川さん、引用させていただいた枡野浩一さん、ありがとうございました。日々生きる糧を頂いております。心から感謝しています。(勝手に引用してしまい気分を害されてしまったら申し訳ございません。)

2021.8.24 nao 拝

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