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がん4年後の僧籍取得から続く、僕の道①

1.5年生存率

2007年の胃がん手術で転移が見つかり、StageⅢ・5年生存率60%という診断を受けた私。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ガンの生存率60%というのは低い数字ではありません。

でも告知を受けた知人に対して「〇〇さんだから、きっと大丈夫だよ」と言ってしまった経験や、「60%もあるから、心配ないよ」という言葉を将来他人に対して使ってしまう可能性はありませんか?

励ましてあげたいとか、取り越し苦労はしないで欲しいという優しい気持ちはわかるのですが・・・告知を受ける数日前までは貴方と同じで、<今日と同じ明日が100%やってくるという時間軸>で生きてきた人です。その人に突如、得体の知らないものが身体の中にあることが分かり、それが原因となって告知や生存率を告げられるという現実がやってきたのです。仮に80%だとしても、<己に対する数字>となると意味が変わってくるものです。

5年生存率60%とは「10人のうち4人は5年後に生存していない」ということです。でも残りの人がみんな手術前と同じ健康的な生活していることを表しているのではなく・・・示しているのは、あくまで生存率。仮に生存している6人中の2人が抗がん剤治療をしていたり、5年目を寝たきりで過ごしていて6年目に亡くなっても5年生存率は60%なのです。5年生存率や余命を告げられた者は、この先、その現実の中を生きていく道を前にしているのです。

体験を持つ者とそうでない者との間に<見えない溝>があること・・・薬剤師として病院勤務を続けていた私ですが、がんになってから知りました。

2.退院後に湧きあがった言葉

当時二人の娘は私立中学に通っていました。私がいなくなると将来が大きく変わることは明白です。「受験して入学した学校なのに、妻だけの収入で通わせることが出来るのか? 妻と娘の3人で上手くやっていくだろうか?」など見えない将来に思いをめぐらし、要らぬ心配が頭に浮かびます。

「手術は成功したので予定通りの退院で順調ですよ」と医師や看護師に言われても、心の中は<言葉に出来ない思い>に溢れ、病室の窓から沈む夕日を毎日複雑な気持ちで見つめていた私。でもその思いは当時、誰にも話せませんでした。

それでも経過は順調で2008年の年明けに退院。その日が母親の命日だったことに不思議な縁を感じながら妻と自宅に戻りました。

退院後は6回/日、少量ずつの食事と体力回復のための散歩を日課として3週間の自宅療養を開始。なんとか翌月には職場復帰しましたが、激しい下痢や止まらない体重減少(70Kg→53Kg)など、思うように体調は戻りません。

半年ほど経った頃、私の中に ふと湧きあがった言葉があります。

     ・・・「このままではダメだ」

なぜ、この言葉を突然呟いたのかは自分でも分かりません。ともすれば5年先まで生きられないかもしれないのに、体力をつけることで自分の将来も元に戻そうとしている・・・そこに違和感を感じたのかもしれません。

3.人生の師

私は29歳の頃から毎月、浄土真宗の歎異抄(たんにしょう)を読み解く会に通っていました。『歎異抄』は鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書で作者は親鸞に師事した唯円とされています。親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものなので「異なるを嘆く」という書名となっています。

私が足を運んでいたのは法風会という会で、名古屋の野田風雪先生が月一回歎異抄を解説してくれる場でした。その時間が私にはとにかく面白かったのです。取り上げるのは歎異抄の中の短い文章ですが・・・野田先生の解説が入ると「私が最初に思っていた意味と全く違うことを鎌倉時代の人が教えてくれていた」のだと、初めて分かるのです。浅い受け取り方しか出来ない私がコロンとひっくり返される。広い世界の中で自分のちっぽけさを体感するように、先生のもとで仏法を聞き続けていました。

「本当に生きるとは?」を考えさせていただく場を大切にされていた先生は、現実の中を生きる”智慧の大切さ”を私達に教えてくれました。何百回、何千回お百度参りをしても地震には合うし、どれほど南無阿弥陀仏を唱えても交通事故を避けることはできない。でも、そうなったとき「どう生きるのかを考えよ」というのです。

「このままではダメだ」と私が思ったのも、自分にとって都合のよい未来を棚からのぼた餅のように待っている・・・そんな<他人任せの姿勢>を自分の中に感じたからなのかもしれません。

4.自分への問いかけと、聞こえてきた声

そのあと生まれて初めて、「この世からいなくなった時に後悔することは何か?」という問いの前に、私は真っすぐ立ちました。妻や子供のことは何かに任せるしかないという思いがあり、私が出した答えは・・・「野田先生の所で仏法と接してきたが、先生のように仏教をきちんと勉強していない。きちんと学び、その証(あかし)を僧籍取得としよう」でした。

思い立った私はネット検索で知った中央仏教学院(通信教育)の願書を取り寄せ、小さい頃から御縁のあった住職(神戸市)の承認も得て3年間の専修課程に入学しました。後悔しないための人生作りの開始です。

病院の勤務終了後は週2~3回の、お寺通い。そこで実技のお経も勉強して予定通り3年で通信課程を修了し、得度考査も無事合格した私は2011年10月に浄土真宗本願寺派(西本願寺)の僧籍を頂きました。

翌月、西本願寺の中で読経(親鸞聖人生誕750年)する大勢の僧侶の一人として本堂に着座した時、それまでの人生で最大とも言える出来事に遭遇しました。西本願寺の長い歴史の中で私がお経をあげる一人となったいう事実を体感すると同時に、太く低い声が親鸞聖人の御真影(仏像のようなもの)から聞こえてきたのです。

「やっと来たか。」

「今日、お前をここに座らせるために、全てのものを揃えていたのだ」

がんの母を自宅で看取ったこと、それが御縁となって野田風雪先生に繋がったこと、阪神淡路大震災での経験、胃がん、僧籍を取ろうと思った事・・・他にも色んな人との出会いなど、様々な道を通ってきましたが、確かにどれ一つ欠けていても、この西本願寺の本堂には着座していなかったのです。

「はい、ここに参りました」

全てが繋がりました。自分で仕組んだことは何もありません。完全にお任せであり、全て頂いた先に広がった未来です。用意されていた道を真っすぐに歩かせてもらっていたことに黙って頭を下げ、私は涙を浮かべながら西本願寺で読経していました。


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