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2020.6.25 「サルの目ヒトの目」を読み終えた日。

「サルの目ヒトの目」は1980年(昭和55年)に初版が発行された、霊長類学者の河合雅雄氏によるエッセイ集。

味わい深い、絵本のような装丁は安野光雄氏によるもの。この表紙に一目惚れして古本屋さんで購入したのはもう3、4年ほど前のこと。

読んだり閉じたりを繰り返しながら、最近また読み始めたらこれがとても面白かった。

1980年に出された本でありながら、どこか今に通ずる社会への眼差しが迷えるわたしの心にこんこんと刺さり、最後まで読み終えた。

サルの研究者の書いた本なので、半分はサルのことが書かれている。

サルと言っても、ニホンザルだけではなく、チンパンジー、ゴリラ、オラウータン、ボノボ、テナガザル、マントヒヒ、そして私は初めて知った、ゲラダヒヒ、など様々なサルが登場する。

ところで先日教育テレビ番組を観ていたら、ゴリラの真似をする演者を見た他の出演者が、「サルの真似!」と言うと、「惜しいけど違うこれはゴリラだよ」というシーンがあったけど、ゴリラだってサルはサルじゃないかと違和感があったな。

まあとにかく、サルの話。ニホンザルやチンパンジーは母親しか子育てをしないし父親は誰だかわからないとか、多くの場合ボスザルは時期を見て引退して群れを離れヒトリザルになるとか、ゴリラは家族をつくるとか。

ふしぎなことに、サルの話のはずなのに、やっぱりどうして同時に人間の社会や家族のあり方をつい考えさせられる。

書いた河合先生も、それに比べて人間の母親は、人間の政治家は、とよく人間の話を引き合いに出すのだけど、調べてみたら、人間はどうして戦争なんかするのか知ろうと思った時にサルまで遡ろと思ったのがサル研究の動機だそうだ。

サルの生態はあまりにも正直というか、生きる目的が単純で、そこに人間の姿を見ようとすると少し切なくもなる。人間として生きるとは、いったい何なんなのだろうと考え込んでしまう。

河合先生は、サルの親子、とくに母と娘の強い関係に触れながら、人間の母親と子の関係についても幾度となく触れている。母親という原始的な存在に対して父親という概念はとても最近のものだそうだ。

この事実から、人が受け取るものはそれぞれだと思う。河合先生は、母親と父親の違いが無くなりつつあり母親の腹を借りずに生命が誕生する現在、人間は別の生き物になると書いているところもあった。

私はむしろ、血縁の父親が不在でも集団の中で育て上げられる子ザルのエピソードから、血縁は生命が育つ絶対の条件ではない、生命が真っ当に育つということには無限の方法があるし人間はそれをさらに増やしていくのだと思った。

それはそうと、河合先生の視点はいたずらっぽくもあり真理であり、読んでいて唸るものばかりで、とくに自然保護、動物愛護ために日本人がやっていることがいかに的外れであるかを解く言葉には、叱られている気がして恥ずかしさも感じた。

例えば、むかし上野でサルが電車を運転するアトラクションがあったそうだが動物愛護の観点から論争になったそうだ。河合先生から言わせれば心底どうでもいいことで、それより国内の森林伐採によって住処を失った野生動物のほうが問題であって、目の前の小手先の出来事で大騒ぎしているのは愚かなことだということだった。

サルは、人間と同じようにテリトリーや地位の順位を持っているという。それが行き過ぎて時に殺し合うのが人間かと悲しくなるが、そこで先生が最後に例に出したのがゲラダヒヒだ。

その静かな種のサルは、飲み水を分け合い争うことなくコミュニケーションをとって暮らしているそうだ。

いつか人間の祖先が地球の隅に追いやった者たちかもしれないけれど、私のおばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんのおばあちゃんの..............が、じつはゲラダヒヒである可能性もきっとある。いいサルが祖先であったらいいなと思って生きることは、ほんとの血縁以上に大切なことだと思って本を閉じた。

河合先生は今もお元気で過ごされているそうだ。ファンレターを書いてみようかなと少し思った。

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