見出し画像

IT産業で経験したこと <IT産業アナリスト時代 前半>

<<はじめに>>

前回述べたように法学部出身者が、ソフトウェア開発エンジニアになり様々な経験をした。現在転職を収入アップのためと考える人も多いのだが、僕の時代は今と違って普通に仕事をしていても毎年5%程度は昇級したわけで、収入アップのために転職する人は少なかったと思う。僕の場合、同級生よりも2年遅れて社会人になったために、特に初任給の高かった金融業界に進んだ同級生に早く追いつきたいと頑張ったのは確かだった。その結果、毎年20%から30%程度昇級できた。

僕が転職した最大の理由は、やりたいことを伸びてゆく業界でやるためだった。学校時代からやりたいことはやるがやりたくないことは授業といえどもやらないという性格だった。今に至るまでこの性格は変わらない。

特に日本企業と米国企業の文化やマネジメントの違いには驚かされた。僕の所属したダン・アンド・ブラッドストリート・グループは、当時フォーチュン500で149位、米国大統領を4人輩出した伝統のある企業だった。企業や技術情報を収集し分析する業界トップ、例えばニールセン(視聴率や小売業界)、IMS(医療業界)、ムーディーズ(債券格付け)、などを傘下に持ち、そして本体は企業信用情報をダンレポートとして提供していた。実際、日本に進出するのに帝国データバンクか商工リサーチの買収にも着手した企業。本当にプロ集団という感じがした。

ソフトウェア・エンジニアとしての最後の仕事は、アンダーセン・コンサルティング(現アクセンチュア)が仕切っていた東京都庁の会計システムであった。当時DBSが提供していた会計システムは、全てVSAMというフラットファイルを使っていた。都庁の会計システムは日立製のメインフレームで稼働していた、そしてXDM/SDという構造型データベースを標準としていたために、VSAMからXDM/SDへ兼行して欲しいとのリクエストが出された。

通常パッケージ製品で、この様な改変には対応しないのがポリシーである。案の定マネジメントは抵抗した。僕はアクセンチュアのプロマネから内々に相談されたので、アンダーセンの米国本社からDBSの米国本社に圧力を掛けたらどうかとアドバイスした。彼らはそれを実行し、僕のマネージャーは左遷され、改変の指示が出された。

ところが、日立側にXDM/SDを組み込むことのできるエンジニアの手が空いておらず、僕が日立の大森コンピュータセンターで何冊ものマニュアルを抱えてOSからXDM/SDまでのインストールをすることになった。与えられた時間は1週間で、日立のエンジニアでもDBSのプロダクトに最適化するのに1週間では難しいと言われたが、僕はそれをやり遂げるしか無かった。1週間コンピュータルームの仮眠室に泊まり込み、なんとか1週間で立ち上げた。終わったときにはクビの後ろ側に大きな粉瘤ができ、手術したのを覚えている。

なんとか。オーストラリアのエンジニアに来てもらって、都庁へXDM/SD版を納品することができ、アンダーセンから感謝された。しかし、もうこんなつらい思いするのは嫌だと実感した。しかも、会社間の政治にまで首を突っ込まされて、いや本当に疲れた。

2社の仕事を通じて、基本的なコンピュータのアーキテクチャは一通り学ぶことができたのは、大きな収穫だった。しかもアセンブラのレベルまで身につける機会があったのは本当に貴重だった。

さて、ここからソフトウェア・エンジニアの世界からIT産業アナリストの世界へと移籍することになる。

<<第2期 IT産業アナリスト時代>>

1.ベンダー企業向けサービス産業アナリスト時代

このままで良いのだろうか、エンジニアの経験を生かしてもっと社会全体そして現場を学べる他の仕事は無いものだろうかと考えていたところに、内山さんから「データクエストに来ないか」と誘いの手を伸ばしてもらった。エンジニアリングにそれほど自信を持っていたわけではないし、社会や技術を分析するのが好きなこともあって、二つ返事で転職する意向を伝えた。実は、DBSとデータクエストとは、ダン&ブラッドストリート社の傘下にある兄弟会社と言うこともあって、とくに問題も無く転職ができた。

入社して与えられたのは、内山さんが始められたRDBMS(リレーショナルデータベース)市場のエンドユーザー売上げランキングを含むソフトウェア(3層C/Sのコンポーネントになるソフトウェア)の市場と技術の分析だった。データクエストは、半導体出荷統計に代表される半導体とIT製品の市場と技術の分析・予測をその生業にしており、お客様は半導体製造業とIT製品・サービスを提供するベンダーであった。IT分野では、買収したレッジウェイという企業が担当をしていたITメンテンアンスサービスやプロフェッショナルサービスなどのサービス市場の分析も手がけており、BPR(ビジネスプロセスリエンジニアリング)/BPM(ビジネスプロセスマネジメント)という分野が開始されて以降は、僕が担当することになった。

最初の大がかりな仕事は、「C/S市場」という日本独自の調査に基づく分析と予測のレポートであった。僕はRDBMSに関する部分を担当し、レポートを購入していただいたお客様へ出向き、プレゼンテーションとQ&Aを行うことになっていた。

やはり悲惨なことになった。まず、人前でプレゼンテーションをするのは、学生時代にハンドマイクを持って学生の前でアジテーションして以後初めてのことで、しかもお客様からの質問に答える必要があり、全く恥ずかしい限りのできばえで、帰りの道々悔しくて泣いたのを覚えている。以降、この悔しさがバネとなってより一層業務に励んだ。

僕が担当したRDBMSは当時最もトレンディーな市場の一つだったので、雑誌の記事の執筆やエキスポなどでの講演依頼がたくさんあった。特にエンドユーザー出荷金額ベースで統計を発表していたのはデータクエストだけだったこともあり、また内山さんの分析手法に相当な信頼もあったおかげで、主要なRDBMSベンダーからは相当な信頼を得ていた。なので、各ベンダーの本国(ほとんどアメリカ)でのカンファレンスには欠かさず招待していただいた。

アナリストの中でエンジニアリングの経験を持つものは極々僅かで、やはり分析にそれは現れていたように思う。僕は、市場よりむしろ技術の分析や将来の予測に自信があった。そして、にわかにオブジェクト指向技術を使ったデータベスや開発方法論が席巻し始めたころで、開発方法論の分野でもトム・デマルコやジェームズ・マーチンなどが構造化手法からオブジェクト指向へと比重を移していた。データベース管理システム市場にもODBMS(オブジェクト指向データベース管理システム)が市場に登場し、RDBMSでは「できないこと、パフォーマンスがでないこと」などを指摘しながら自らのプレゼンスを獲得しようとしていた。

僕の一つのテーマとして「RDBMSとODBMSのそれぞれの最適適用分野は何か?」というのを設定していたために、神戸大学の田中教授や大阪大学の西田教授、そして富士通でジャスミンの開発をされ北九州大学の教授になられた方(お名前が出てこない)と機会がある毎に議論していた。質問はただ一つ「これは、なぜODBMSじゃないとできないといえるのですか?こうすることができればRDBMSでもパフォーマンスはでるのではありませんか?」だった。見てください、RDBMSは未だにその存在はサーバ上に目に見える形で使われているが、ODBMSは、CAD/CAMなど特殊なアプリケーションの中に組込まれてしまって表からは見えない存在になってしまってしまった。つまりメインロードでは走っていない。

年に1度、本社(カリフォルニア州サンノゼ)を訪問し、同分野のアナリストと討論したりシリコンバレーにあるベンダーを訪問した。僕は、サービス市場も担当していたので、そのオフィスはボストンにあり、日本人アナリストとして初めて訪問することになった。サービスでBPR/BPMを担当していたアナリストはとても優秀な女性で、なんとハマーやチャンピー(「ビジニネスリエンジニアリング革命」の著者)も彼女のところに来て議論していたらしい。

幾つかの定期的なリサーチと執筆作業があるが、一部は本社のアナリストのリサーチノートを翻訳する仕事で順番に回ってくる翻訳のリサーチノート作成が主な仕事であった。そしてお客様からの特別なリクエストによるリサーチ&コンサルティングがある。担当するリサーチノートは、リリースまで回覧され他のアナリストからの質問や訂正要求などが来て、最終版まで議論をすることになる。その他としては、これは最も重要な作業なのだけれど、本社のカウンターパートとなるアナリストから統計データの確認作業が入る。例えば、RDBMSの世界出荷データがあるが、日本市場も本社側でリサーチはするのだが、日本の担当アナリストのリサーチ結果と突き合わせをして最終版を作るという作業があった。

在職中に非常に記憶に残るカスタムのリサーチ&コンサルティング案件が2つあった。一つは、Informix(インフォミックス)というRDBMSがあったのだが、当初はアスキーがローカライズして販売していた。市場での高い占有率を持っていたのだが、本社が日本法人を作った。アスキーとどのような話になっていたのか分からないが、K社長というのをヘッドハンティングして事業を進めていた。普通ならアスキーとの話し合いで、アスキーをトップ代理店として、日本インフォミックス社はマーケティングを中心にサポートし、代理店やインテグレータとパートナー契約を結ぶというのが筋なのだろうが、どうしたことか勝手にアスキーとは異なると思われるバージョンを販売していることが発覚した。

アスキーのインフォミックス事業部からどうすれば良いかと言う相談が来た。僕のアドバイスは、インフォミックス本社と掛け合って、K社長の行為をつぶさに話し、アスキー内のインフォミックス事業部がスピンアウトして、日本インフォミックスを担うということ。そのために僕が本社宛にその旨が最もよい解決である旨のレポートを書きましょうと言うことだった。アスキーはパソコン製品レベルのベンダーという印象が強いので、エンタープライズレベルで勝負するにはブランドイメージの転換が不可欠と示唆したのだった。結果は、意図通りインフォミックス本社は合意した。そして、マネジメント変更の記者会見が行われ、そこにはアスキー社長の西さんも列席していた。日経BPなどのメディアの連中は当然この経緯を知らなかった。

もう一つは、日本オラクルからまだRDBMSの最新市場調査が最終版になっていないときに、早急にデータが欲しいとの依頼があった。普通は提供しないのだが、公表しないことと暫定データであることを明記して社内使用としてマネジメントレベルで使用するという約束で提供した。ところが、日本オラクルはそれを市場に公表してオラクルが最も占有率が高いと宣伝に使ったのだった。

それを、アメリカ本社に出張中の当時の日本マイクロソフトのマーケティング部長であったH部長が、ビル・ゲーツに一体どうなってるんだと叱られたらしく、僕のところに「信用できない調査結果が出ているがどういうことだ」とお叱りの一報が入ってきた。それで初めて日本オラクルが公表したことを知った。もちろん暫定とはいえ調査結果には絶対の自信を持っていたので、その旨申し上げた。面白かったのは、そのあとマイクロソフトのRDBMS(SQLserver)が日本市場でトップになるためのシナリオを作ってくれという案件をH部長さんが依頼をしてきたと言うことがあった。もちろん、快く引き受けた。

データクエストでは、市場リサーチ、分析と予測の立て方のイロハ、そしてプレゼンのノウハウを勉強させていただいた。また、当時ソフトウェア市場を専門に担当する産業アナリストが少なかったこともあって、RDBMSベンダー様やHPなどの大手ハードウェア・メーカー他から年一回行われる海外のユーザーカンファレンスなどに招待してもらったことで、非常に有意義な時間を過ごさせていただいた。ちなみに僕はMACユーザーなので、サンフランシスコで開催されるMAC Worldにも参加させていただいた。

また、幾つかの雑誌から執筆依頼もいただいた。とくに、ソフトバンクから発刊された「データベースマガジン」にY編集長から、2ページのコラムをいただいていた。当時僕は偉そうにも「メンズクラブ」(ファッション雑誌)でITが話題にならようじゃないとホンモノじゃないね」なんて言っていたことがあって、単なる技術紹介では無く楽しく身近に感じられる話題を書かせてもらうことになった。短い執筆期間ではあったけれども、楽しくユニークな記事を書かせていただいたと思う。

米国の代表的なIT雑誌だった「Information Week」にも、日本のBPRに関するインタビュー記事を載せていただいたり、カリフォルニア州のマーケティング情報専門のFM番組のインタビューを受けたりと、業界に名前を覚えていただける機会をいくつもいただいたのは有益だった。

入社して2年目。親会社であるD&B(ダン&ブラッドストリート社)がガートナーの買収に着手しているという極秘情報が、どうしてだったか定かではないが僕の耳に入ってきた。先にも述べたが、データクエストのお客様は、主にコンピュータやソフトウェア分野のベンダーである。ガートナーは?ユーザー企業だ。フォーチュン500の90%以上が顧客というとんでもない企業だ。当然分析の視点も内容も異なる。僕は考えた、ベンダー?その数は?つまり、データクエストのポテンシャルの顧客数とガートナーのそれとを比較してみたら?そう、日本だとトヨタ、武田薬品、味の素、新日鉄、・・・そうそうたる企業様がお客様になる可能性がある。また、僕の経験でもユーザーに近いところで仕事をしていたので、ガートナーのサービスの方が理解も説明も馴染みがある。というので、内山さんに内々に「ガートナーを一緒にやりませんか」と誘ってみた。「内山さんは、サーバとくにUNIX市場を担当されていますが、一体何社の顧客が考えられますか?」と。

そして、ガートナー本社から派遣されてきた役員の息子(?)と内山さんに会ってもらった。結果、スピンアウトしようと言うことになり、内山さんが先行して有限会社情報技術研究所を設立することになった。内山さんとアシスタントをしていたKさんが先にデータクエストを退職して、数ヶ月後僕がジョイントすることになった。数ヶ月後というのは、僕のお客様であったRDBMSベンダーさんに密かにお話をし、ガートナーのサービスを是非購入して欲しいと口説くためであった。

2.ユーザー企業向けサービス産業アナリスト時代

<<情報技術研究所(ITR)時代>>

斯くして数ヶ月後、僕はITRへジョイントすることができた。アナリスト2名、アシスタント1名(仲の良い仲間ではあったが)でデータクエスト社屋からほど近いマンションの一室からスタートした。

ガートナーとは、ガートナー日本リサーチセンターとして契約をすることになった。もちろんガートナーには様々なサービス分野があったが、どの分野を担当しサービスするかを討論した。内山さんはデータベースに造詣が深いこともあり「データウェアハウス」を中心に分析し、リサーチノートを作成する、そして僕はビジネス・アプリケーションに長らく携わってきたので「ERP」を担当することになった。

当時は、日経情報ストラテジーという雑誌があって、この雑誌は我々と似たようなターゲット、つまり経営とITを融合させるという問題意識があった。この雑誌では、統合されたビジネス・アプリケーションを統合業務アプリケーションとか大福帳システムと題して紹介していた。

ITRは、はじめて日本市場にガートナーのERPという概念を紹介した。当初は、データベースにより統合されたアプリケーションではあっても、製造業の生産管理アプリケーションを中心に発達したもの、つまり生産管理アプリケーションが統合されたものをERPと定義していた。ところが、E日本では販売管理と会計管理のみを統合したアプリケーションまでもERPと呼ぶようになった。何故なら、ITRがERP概念を急激に普及させたがために、それに乗っかろうというベンダーの浅ましい(僕はそう思う)市場戦略が普及したからだ(これが今やDXでも同じことになっている)。

内山さんは精力的にデータウェアハウスを紹介し、経営管理に欠かせないデータ分析・活用を強調していた。しかし、実際には社内データは蓄積される一方で活用されることは乏しく、蓄積データの保管することに関する問題が持ち上がっていたというのが現実だった。今もそうだが、一部は顧客分析などで活用することはあるが、経営戦略に活用されることはめったにない。

僕は、ERP市場を活性化させるためにERP産業カンファレンスを企画し、日本市場に参入していたERPベンダー各社の声を掛けた。そのころ、オランダ出身のBaaNはまだ総代理店として大手SI企業が担いでいたが、内部からBaaN日本法人の設立を利用して「良からぬ」ことを企んでいるのではないかとの情報がわたしの耳に入ってきた。これはまずい、早速BaaNのアジアを統括していた米国法人と日本法人設立のありようについて話さねばと米国へ飛んだ。

そして、ERP産業カンファレンスに合わせて日本法人の発表をすれば、市場へのインパクトと認知度の向上に繋がるということを提案した。タイミングは難しいかもしれないがその線でいこうという返事をもらった。最終的にタイミングはずれたがうまくBaaNジャパンが立ち上がった。

<<ガートナー日本法人設立時代>>

そうこうしているうちに、ITRはガートナー日本リサーチセンターとして多くの顧客を開拓し、ガートナーから日本法人設立の打診が来た。我々は、ITRとして立ち上げに努力することを約束し、初代社長、アナリスト、営業、アシスタントそして管理部門の採用に奔走した。といっても、ほとんど内山さんが孤軍奮闘されたのだが。最初のオフィスは渋谷区の神泉になり、ITRも完全に移設することになった。

アナリストも増え、会社としての体制も確立された。僕は、ERPおよびSCM(サプライチェーンマネジメント)そしてCRMを主に担当した。正式なサービス名は「エンタープライズ・アプリケーション・ストラテジー」。もちろん、ソフトウェア関連のさまざまな問い合わせがあるために、他の分野も可能な限りカバーした。データクエスト時代からのベンダーさんもサービスに加入していただいているために引き続き、RDBMSも担当した。

1992年にSAPジャパンが設立されたが、それ以降続々と海外の主要ERPベンダーが日本市場に進出して戦国時代に突入した。その結果、展示会やセミナーなどが多数開催され、IT関連の雑誌にも頻繁に特集が組まれるようになった。その多くを僕が担当することになった。中でも印象に残っているのは、韓国の情報産業連合会からの依頼で、ソウルでERPの現状について公演して欲しいとの依頼であった。

当時、韓国情報産業連合会会長は、「大韓民国ベンチャー1号」であり、「韓国PCの父」と呼ばれる三宝(サンボ)コンピュータ(TriGem Computer / トライジェム)創業者の李龍兌(イ・ヨンテ)氏であった。特に通信の分野では大統領のアドバイザーであった方だ。この講演会には、当時SAPのR3の導入を開始していたサムソンからも数名の方が出席されていたようで、講演会の後で是非サムソン本社まで来てアドバイスをして欲しいと依頼された。

早速依頼に応じてサムソン本社に出向いた。20名ほどのIT部門の主要メンバーが会議室に詰めていた。さっそく導入の経緯や現状をプレゼンされたが、とにかく導入がうまく進まないとのことであった。その主な原因は、アプリケーションの氏素性(うじすじょう)にまつわる無理解から来るインテグレーション計画の誤りにあることが考えられたので、僕なりのアドバイスを提供した。

業務アプリケーションは、既製品といえども最初は特定のターゲットがあってその枠で開発されることが多い。そのモジュール構造や結合・対話形式そして設計思想をRFP(提案依頼書)を工夫してベンダーに回答を提出させ、そこから読み解くことが大事である。RFPを作成できない企業は多く、訓練されていない、そしてなによりIT部門が経営(その発展の歴史やその発展の因子をITがどのようにして支え実現せてきたか)と切り離されていることが最大の問題であった。

さて、翌日イ・ヨンテ会長に食事に誘われた。待ち合わせのレストランでイ・ヨンテ会長が車で来られ、お付きの人が会長の黒革の鞄を持って会長の後を歩いてこられた。そのお付きの人はなんと現社長だったのだ。韓国では会長と社長の間にこんなにも大きな階層があるのかととっても驚いた。宮廷料理をご馳走になったのだが、「どこか見てみたいところはありますか?」と訊かれて、僕はすかさずこう答えた。光州銀行を訪問してコンピュータルームを見てみたいと。というのも、光州銀行は世界に先駆けてメインフレームからUNIXサーバへダウンサイジングしたことで有名だったからだ。

会長は、次の日に当時の銀行総裁をランチに招待しておいてくれた。そして食事をしながら僕の幾つかの質問にも快く答えていただいた。そして、夕刻光州銀行へ行きコンピュータルームを見学させていただいた。見事に、巨大なコンピュータルームはスカスカになっており、ダウンタイムも劇的に減少したことを説明してもらった。

韓国から戻ると、当時のガートナージャパンのT社長に呼び出されて、「SAPのN社長から電話があってあなたが韓国でありもしない話をしていると怒りの電話があったが、どういうことだ」と何かおどおどした様子で尋ねられた。僕の回答はこうだった。「ガートナーのアナリストがそう話したのならその話に間違いはありませんよとだけ回答すれば良いのではないですか。あなたはアナリストのボスでしょ」と。社長が、そんなことでおどおどしているなんてと消沈してしまった。

実はこの様なことは頻繁にあるわけではないが、欠点と思われることを講演やリサーチノートで指摘されると怒りの抗議をされたことは数度あった。アナリストは中立が基本で調査に基づいた見解を述べているので、間違いは無いとはいえないけれども見解には自信を持っているものだ。

ガートナー時代にも、ERPやSCMの主要ベンダーさんの国際カンファレンスには招待していただき、米国、ヨーロッパ、北欧と様々な地域へ連れて行っていただいた。オランダBaaNの招待でオランダへ行ったときは、時間の合間を見つけてガートナーの大手顧客の一つであったシェル本社へ訪問した。

シェルは、約30名ほどの世界規模でIT戦略を立案し、精査しているグループがある。そこは、数学博士や工学博士などで構成されている。一番興味があったのは、各国のIT部門および人材をどのように評価しているのかと言うことであった。彼らは、非常に詳細な目標と各人(基本的にポジション単位)のジョブ・ディスクリプションを毎年のIT戦略の立案時に作成し、それを基に各国のIT部門および各人を評価している。そのドキュメントは結構な量で極秘資料だったが、無理を言って持ち帰らせてもらった。後にも先にもこんなにも詳細なIT人材評価基準を持っている企業を見たことがない。大変勉強になった。これは、日本における「配置ガチャ」と「人事異動」とは全く異なると言うことがよく分かった。

1995年、ガートナーは僕の古巣であったデータクエストを買収した。それに伴い神泉のオフィスにデータクエストの面々が引っ越してきた。なつかしい先輩たちと再び一緒に仕事をするようになったのである。しかし、何か最初にガートナーと日本リサーチ・センターとして提携し、日本法人を設立した頃と、ガートナーのスタンスが変わってきたのでは無いかと不安を抱き始めたのはこの頃だった。

案の定、後から外資系IT企業からジョイントしてきたアナリストたちと話していると、「我々は米国本社の日本法人であり、ガートナー(本社)が作製するサービスを販売し、拡大することが使命だ」といった主張が出始めたので、非常に不快に思った。僕は、あくまでも日本のアンテナとして米国本社のアナリストと同等の立場で情報発信を世界にしていきたいと思っていた。遂にガートナー本社からそろそろITRをガートナーに吸収させてくれないかとの打診が来た。

内山さんから「どうしようか?」との相談があった。僕は、「内山さんには悪いけれど、始めた頃のガートナーのスタンスが変わってきたように感じます。僕は、世界に向けて分析を発信していきたいのでガートナーにジョイントはしたくありません」とお答えした。なんと内山さんは一緒にスピンアウトする決断をしてくれた。とても感謝した。

つづく…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?